第26話

 秋の終盤を迎え少し寒さを感じ出した頃、ドラマ撮影では主役である林との絡みがあった。一哉は自分に目を掛けてくれていた先輩俳優を通じて脚本家でもある監督とも話をつけ、また少し脚色して演技する了承を頂いていた。

 林は何時の無く警戒心ムキ出しと言った顔つきで一哉を睨みつけていた。そんな事など一切お構いなしで一哉は自分なりの芝居をした。台詞を言い終えたらすぐさま監督が

「カット!」

 と勇ましい声を上げ、共演者からは拍手が巻き起こる。林は呆気に取られ、一哉に対し文句を言う機会を逸してしまった。

 袖に引いた一哉には多くの共演者から賛美が送られ照れた様子のその姿を林は恨めしそうな面持ちで眺めていた。

 この時一哉も取り合えずは胸の中でガッツポーズをしていたが、さほど嬉しい事もなく、ただ一つの小さな壁を越えたという安心感だけであった。それはこの林という役者自体が一哉には到底名俳優とは思えず、ただの一発屋にしか見えなかったのである。

 こうして撮影は順調に進み、12月中旬にクランクアップを迎える。打ち上げには色とりどりの山海の幸が用意され、みんなは大いに飲み、大いに食べ、仕事の話などをして盛り上がる。そんな中、監督が一哉に対しまたしても賛美を贈り他の共演者からもチヤホヤされ、会場はまるで一哉が主演であったかのような雰囲気に染まっていた。

 こうなれば当然、本当の主役である林は全く面白くない。苛立った林は途中で席を立ち帰ってしまったのだった。だが彼を追いかけたのはほんの数人で他の者は至って冷静にそのまま談笑している。それどころか林の事で話題に火が着き始めるといった有り様であった。その内容はこうであった。

「林さんまたね、大して演技が巧い役者でもないのにあんなに短気ではこの先も知れてるわね」

「だいたい事務所のコネで主役張っていただけでしょ、元々向いてないのよ」

 などとケチョンケチョンに貶されている会話を耳にした一哉は、やはりそういう事だったのかと思いながらも、その会話には絶対に入って行かずに一人もくもくと酒を飲んでいた。


 今年もあと僅か、年の暮れになった街に久しぶりに降った粉雪は人々の目に可愛く映る。雪は肌に触れると水になり一哉の頬を冷たく濡らす。夥しい雪の粒は一体どれくらいの数になるんだろう、どんな単位になるのだろうと愚にもつかない事を考えながら一哉は家に帰る。

 家に入った一哉はクランクアップした事を母に告げ土産を渡し、自室へ上る。そしてまたキーホルダーを手にし、無事撮影を終えた事を報告するのであった。


 翌日からオフになった一哉は家事を手伝っていた。料理に炊事洗濯アイロンがけと、これは今までもやってはいたのだが、俳優の仕事が忙しくなった一哉は久しく家事に専念していなかった為、何か心が躍る。母はそんな息子の姿を相変わらずといった心境で眺めていた。

 一哉の手つきは昔と全く変わっていないどころか一層繊細さを増し、アイロンをかけ終わった三人分の衣服は実に綺麗に畳まれ積まれて行く。だがここで一つ、一哉らしくない失敗をした。洗濯物の中には当然母の下着も入っている。子供の頃は全く気にせず扱っていたその下着も今の年齢になると流石に抵抗があり、今までは母が先に抜いていたのだが、この時に限ってそうする事を忘れていた母も少し恥ずかしい気持ちになり言葉少なに

「一哉、それは放っておいて」

 とだけ言い置いて自分の下着を持ちその場を立ち去った。

 一哉はこの時初めて自分の几帳面さを恨んだ、と同時に下手を打った事を恥じた。世間一般から考えるとこんな事はありがちな事でそれほどの事でもないとは思うが、一哉にとっての今回の出来事はちょっとした事件のようなもので、この日の夕食時、一哉は母とは一切口を利かずにいたのだった。

 部屋へ戻った一哉は奈美子に電話を掛ける。すると今日は休みだった奈美子は今から直ぐに会いたいと言うのであった。

 まだ酒を飲んでいなかった一哉は先頃買ったばかりの自分の車で会いに行く。奈美子の家は一哉の家から約2駅分ぐらいの距離にあった。車を降り奈美子の部屋に入る。その部屋は如何にも女の子の部屋といった可愛らしい部屋ではなく寧ろ殺風景な殆ど物のないシンプルな佇まいであった。でもこういう光景が好きな一哉はこの部屋が好きだった。自分の部屋に似ていてスッキリしている。そこまでは良いのだが一つ違いがあるとすれば、余り整理整頓が成されておらず、ただ掃除だけは毎日しているといった感じであった。腰を下ろした一哉に対し奈美子は酒を勧める。

「飲むでしょ? 私の飲みたいの」

「ああ、ありがとう」

「で、どうだった、撮影の方は?」

「お陰で何とか終ったよ」

「そう、私は別に何もしてないけど」

 そこで二人は目を合わせて笑った。久しく女の身体に触れていなかった一哉は酒を飲みながら奈美子の身体に手を触れ、いい気分になる。奈美子は笑みを泛べながら一哉の手を握る。それは愛し合う恋人同士の微笑ましい戯れにも見える。しかし次の瞬間奈美子は急に咳込んでしまった。一哉は奈美子の背中を摩る。

「どうしたんだ? 大丈夫か?」

「ありがとう、大丈夫よ」

 一哉は単に煙草の吸い過ぎだろうと思っていた。だがさっきの電話での口調といい、今の雰囲気といい一哉には何処か訝しい様子が感じられる。その最たるは奈美子のテンションの高さだった。いくら風俗嬢とはいえ、亦自分と会ったとはいえ何かぎこちなく感じる。そう思った一哉は思い切って訊いてみた。

「お前、何かやってるのか?」

「何かって?」

「薬か何かだよ」

「やってるわよ」

「何だ?」

「これよ」

 と言って奈美子が差し出した物は白い粉であった。

「何だそれ?」

「コカインよ、貴方もやってみる?」

 一哉は奈美子の頬を引っ叩いた。すると奈美子は少し潤んだ目をして

「何よ! やっちゃいけないの? 私は風俗嬢なのよ、これぐらいやらないと身が持たないわ、他の子もやってるわよ」

 と語気を強めて訴えるようにして言う。

「ダメなものはダメなんだよ、辞めないのなら俺は別れる」

 そう言われた奈美子は泣きじゃくりながら尚も言う。

「それだけはやめてよ! 私には貴方しかいないのよ! 分かってるでしょ!」

「まだ付き合い出して短いのに何でそこまで俺の事を想ってるんだ?」

「そんな事分からないわよ、一つだけ言えるのは、貴方が初めてだったって事よ」

「そうだったのか・・・・・」

 そんな事を訊かされた一哉は一瞬嘘かとも思ったが、奈美子の涙には本物だと確信させるだけの真実味が備わっている。一哉は奈美子の身体を強く抱きしめこう囁いた。

「分かった、お前は一生俺と一緒だ、その薬も俺が辞めさせてやる、だからもう泣くな」

 落ち着いた二人は改めて抱き合うのであった。一哉の身体に顔を埋める奈美子はいくら年下とはいえ何処か子供のような感じにも見える。

 窓の外に目を向けるとまた白い粉雪が降り出した。その美しくも儚く見える雪は二人の気持ちを溶かすように心の中まで染みわたる。

 一哉は冬も悪くはないと思いながら奈美子の身体を優しく愛撫するのであった。






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