第21話

 次の稽古で一哉は思い通りの芝居が出来た。これは偏に沙希の陰である事は言うまでもない。勿論座長や先輩、同僚からも褒められる。一哉は有頂天とは言わないまでもその気持ちは昂り意気揚々と稽古に精を出す日々を送っていた。

 しかしただ一つ気になるのは結構高いと思われる劇団の費用であった。実際に俳優に成るのはまだまだ先、いや成れるかすら分からない、仮に成れたとしても売れない舞台俳優では大した稼ぎにもならない。今の内からこんな弱腰ではダメだと思いつつも取り合えず何か仕事をしなくてはならない。一哉は駅の清掃員や建築現場での作業員、高校時生代にやってた新聞配達等、手あたり次第手を着け働き出すのであった。


 色んな仕事を経験する内に感情も豊になって来る。勿論それは芝居にも活かされる。今ではすっかり芝居が板に着いて来た一哉に対し先輩はこう言った。

「お前何時の間にか巧くなったな~、もはや俺なんか足元にも及ばないよ」

「何言ってるんですか先輩、自分などまだまだひよっこです」

 これは謙遜なのか、本気でそう言っているのかは本人も分からない。だが社交辞令とも言えるこんな表現をするように、出来るようになった事自体も今までの自分では考えられない事であり、それは傍から見れば当たり前の事かもしれないが少なくとも一哉にとっては明らかな成長であった。


 燦然と輝く陽射しが実に眩しい夏の猛暑の中、勇ましく啼き続ける蝉は己が停まろうとする樹を忙しく探してはまた次の樹に乗り移る。その姿は今の一哉そっくりで仕事に稽古、休む間もなく働き続ける息子を心配した母はそこまでして働かなくてもいいとも言ってくれるが、大学まで辞めてしまった一哉にはこれ以上親に迷惑を掛ける訳にも行かずひたすら働き続ける。

 でもその甲斐もあって金の心配はいらなくなった。後は役者としてデビューする事だけを考えていれば良いのだ。一哉は余計な事など一切考えずにただ一筋に俳優として成功する事だけを夢観て頑張っていた。

 そんな或る日、工事現場で働いていた一哉は仕事を終えた後、親方からこんな事を言われた。

「お前、よく頑張るな~、倉庫や事務所まで綺麗に片付けてくれるし本当に助かるよ」

「お疲れ様です、自分は当たり前の事をしているだけです、それに几帳面な性格なので綺麗に整っていないと気が済まない体質なんです」

「そうなのか、ところでお前、劇団員なんだって?」

「はい、まだ見習いですけど」

「今日も稽古に行くのか?」

「今日は休みです、明日行きますけど」

「ちょうど良かった、じゃあ今から俺に付き合わねえか?」

「はぁ~」

 親方は一緒に飲みに行こうと言うのだった。あまり気が進まない一哉ではあったがこれも演技に活かせるかもしれないと思うと半信半疑だったその気持ちは忽ち反転し、足取りも軽やかになる。今の一哉には目に映る全てが新鮮に見え、どんな事でも吸収したいと思うようになっていた。

 居酒屋で酒を飲む親方の姿は実に豪快で如何にも土建業の親方という風采を醸し出す。一哉はただ相槌を打ち愛想笑いを連発するのが関の山であった。

 親方は勢いに乗じて歌を唄いに行こうと言い出した。二人は親方の行きつけのスナックへ向かう。その道中タクシーの中でふと我に還った一哉は少し神妙な面持ちになり考える事があった。

 それは多忙にかまけてあれ以来一度も会っていない沙希の事だった。いくら忙しいとはいえ悪い事をしたように感じる。沙希はどう思っているのだろうか? 一哉は居てもたってもいられなくなり今直ぐにでも沙希に会いに行きたい、でもそれは出来ない。だが果たして本当に出来ないのか? 今から帰って会いに行く事も決して無理な話ではない。親方に言ってそうするか? などと逡巡している内にタクシーは店の前に停まった。相変わらず優柔不断な自分に嫌気が差していたが取り合えず店に入る。

 その店はいわゆる場末のスナックという感じでママも客も年配の常連ばかりであった。親方は大きな声でママに

「一哉君、俳優の卵だよ!」

 と紹介してくれた。

「いや、まだほんの駆け出しで、見習いもいいとこですけど」

 と照れ笑いする一哉。そんな様子を他所に親方はいきなり歌い出した。

 流石は土建屋の親方だけあった声量は大したものだ。一哉はここでも一つ得るものがあった。この声量は特に演技においては重要であまり声の大きくない一哉にとっては羨ましい限りであった。

 親方は言う。

「次はお前だ」

 と。一哉は人前で歌う事など初めてではあったがこれも勉強だと思い歌い始める。選んだ曲は演歌だった。これは周りを気遣う繊細さの表れとも言うべく実に一哉らしい選曲であった。亦一哉が唯一知っている演歌でもあった。

 思い切り歌った一哉をみんなは拍手喝采で迎えてくれる。

「流石は役者の卵だね~、歌い方にも味があるわ」

「うん、巧いよ」

 などと褒めそやされた一哉は少し顔を赤らませておしぼりで頬を冷やした。嬉しくなった一哉はそれからも何曲な歌いその場は大いに盛り上がる。ママも

「また来てね~」

 と見送ってくれた。


 店を出て礼を言い帰ろうとした一哉に対し、親方はまた次行こうと言い出した。まだ行くのか? もう流石に帰りたい。そう思った一哉は親方にその旨を伝えたが帰そうとはしない。

「まあいいからタクシー乗れよ、今からいいとこに連れてってやるからさ」

 一哉は何か嫌な予感がしたが結局親方に言われるままに付き従う。タクシーは見慣れない少し離れた場所へ向かっているような気がする。

 だがこれなればヤケクソだ、今日が最後と思い一哉はとことん親方に付き合う腹を括ったのだった。


 車から降りたその場所はネオンサインの眩しい夜の街ではあったが、何処か怪しい雰囲気に包まれた匂いを感じる。歩いていると幾人もの客引きが声を掛けて来る。そこは一哉が初めて歩く風俗街であったのだ。

 腹を括ったつもりだが慌てた一哉は親方に訊く

「親方、ここ風俗街じゃないですか!」

「そうだよ」

「自分帰りますよ」

「何でだい? 嬉しくないのか?」

「いや、それは・・・・・・」

「お前男だろ? 男だったら喜ぶ筈だぞ」

「・・・・・・」  

「いいから金の心配なんかいらないし、思い切り遊んで来ようぜ!」

「はぁ・・・」 

 歩く事5分、着いたその店は完全なソープランドであった。勿論こんな所に来た事が初めてであった一哉は動揺している。店に入ると店員が愛想の良い声を掛けて来る。

「これは社長、何時も御贔屓にして下さいまして有難う御座います」

「おう、今日は内の若い衆も宜しく頼むわ」

「はい分かりました、実は昨日新しい子が入って来たんですよ、良ければその子は如何でしょう」

 写真も見ないままに一哉はその子に決めた。それは何故かは分からない、ただ選ぶのが面倒だったのか、誰でも良かったのか、勧められたからだけなのか。

 一哉は店員に誘われ部屋に入る。入ったと同時に床に手を付いて挨拶をして来る。そして顔を上げると何とも純粋無垢な純朴な顔つきをしている。その姿はメイクと服装で色気付いてはいるが、何処から見ても風俗嬢といった風采ではなく言い方は悪いが、田舎者丸出しといった感じが見て取れる。

 一哉は一言

「宜しく」

 とだけ言い、後は彼女の言うままに任せた。

 だが一哉はこの時理屈抜きにこの子と一生を共にするような幻惑、それでいて正直な自分自身の気持ちに襲われたのであった。










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