絃羽と帆夏

「ほのちゃん……」

絃羽いとは……」


 互いが互いの名を呟いた。

 昨日のあのやり取り以降、二人が顔を合わせるのは勿論初めてだ。それに、あのやり取りの後で、俺と絃羽の関係は変わってしまっている。どんな方向に話がいくのか、全く想像もつかなかった。


「あー、えっと。絃羽。帆夏ほのかがさ、話したい事あるからって、聞いてやって欲しいんだ。昨日みたいな喧嘩じゃないから、そこは安心してくれ」


 気まずい空気を察してか、武史たけしが切り出した。また昨日みたいに逃げられては困ると思ったのだろう。

 そんな武史に促されるようにして、帆夏は一歩だけ前に出た。


「あの、絃羽! あたし、昨日の事謝りたくて──」

「待って!」


 先に声を上げた帆夏の言葉を絃羽が遮った。彼女は胸に手を当てて、小さく息を吐いてから、じっと帆夏を見据えた。


「先に、私の方から……ほのちゃんに伝えたい事、あるから」

「伝えたい事……? あたしに?」


 絃羽が頷く。

 彼女の言葉には俺も驚いていた。武史も驚いた顔をしてこちらを見るが、何も知らない、と首を振った。彼女が何を伝えたいのか、想像もできなかった。

 絃羽は何度か深呼吸をしてから、帆夏をじっと見た。


「私、あの時嘘吐いた」

「嘘?」

「うん……嘘っていうか、昨日と今では、その、考え方が変わったっていうか。多分、ほのちゃんは凄く怒ると思う」

「ううん……いいよ。言って」


 帆夏はどこか諦めたような笑みを浮かべて、促した。

 昨日の様な敵意はない。むしろ、どんな言葉でも受け入れよう、としているような気概すら見受けられた。

 昨日の武史とのやり取りで、彼女も前を向けたのだろうか。絃羽が前を歩き出した様に。


「あのね……昨日、美紀子さんの事独り占めにしないって言ったけど……あれ、撤回する」


 帆夏は何も言わずに絃羽を見つめたままだった。


「これからは……美紀子さんに、甘えたい」


 絃羽はおそるおそる、でもはっきりとそう言った。


「独り占めっていうほど大それた事じゃないけど、お母さんに甘えるみたいに、甘えたい。今まで我慢してたけど、私、もうお父さんもお母さんもいないから……甘えさせて欲しい。だって……お父さんとお母さん居なくなって、ずっと気遣ってくれて、話し相手になってくれたの、美紀子さんだったから。美紀子さんがいてくれたから、本当の意味で独りにならなかった」


 帆夏は絃羽の話に相槌を打ち、聞いていた。

 昨日のように感情的になるわけでもなく、冷静に、真剣に話をしたいようだった。その様子にとりあえず荒れる事はなさそうだと安心する。武史も、大丈夫だから、と言うように俺に目配せをしてきていた。


「美紀子さんは皆の美紀子さんだったから、甘えないようにって我慢してたけど……でも、それってやっぱり違うなって、思って。だから、ごめん」

「うん、いいよ」


 帆夏は笑みを浮かべて、そう返した。


「ごめんね。あたしらに気を遣って絃羽が我慢してくれてるなんて、思ってもなくて……ううん、ほんとは何となくわかってたんだけど、なんだか、やっぱりあんたばっかりズルいってあたしはずっと感じちゃってて。だから、あんな言い方しちゃったんだ。ごめん」


 絃羽が信じられない、という顔をして帆夏を見ていた。

 帆夏が素直に謝った事に関しては、俺も驚きを隠せなかった。一体、武史は何を話したのだろうか。帆夏は『何意外そうな顔してんのよ』とでも言いたげに少し首を傾げて、微笑みを見せている。


『単純にあいつ、絃羽の事ほんとは嫌いじゃないって思うんだよな』


 武史の言葉が蘇ってきた。

 もしかすると、最初からそうだったのかもしれない。思春期にありがちな嫉妬や羨望から絃羽を仲間外れにするという選択を採ってしまった帆夏。

 だが、彼女自身、どこかでその選択が誤りだったと思っていて、でも周りの目もあるから引くに引けなくなっていたのだ。この辺りも、昨日武史が電話で話していた通りなのだろう。

 

「でも、私……もう一個、ほのちゃんに謝らないといけない事、あって」

「うん、なに?」


 申し訳なさそうにおずおずと切り出す絃羽に対して、相変わらずの優しい笑みを浮かべたまま、絃羽の言葉を待つ帆夏。

 どんな事でも受け入れるよ、と言っているようだった。


「私も……私も、悠真さんの事好きだったから。小さい頃から、ずっと好きだったから。だから……悠真さんへの気持ちだけは諦められないし、捨てられない。ごめん」

「うん、知ってる。そんなの、ず~っと知ってたよ」


 何年見てると思ってるのよ、と帆夏は呆れたように溜め息を吐いて、続けた。


「だからあたし、ずっと絃羽に嫉妬してたんだと思う。美紀子さんも、お兄ちゃんも……あたしが大好きな人ばっかりから構われてたから。それで、あんたの事仲間外れにして、独りぼっちにさせてたの。自分でも最低だって思ってる。今更なんだって思うかもしれないけど……あたしの方こそ、ごめん」

「ほのちゃん……」


 じわっと絃羽の瞳から涙が溢れそうになっていた。両手で口を押え、その涙を堪えている。


「それとね……あと、もう一個だけ、あって」


 嗚咽を堪えながら、絃羽は続けた。


「え、まだあるの? なに?」

「えっと……その」


 ちらりと迷うように絃羽が俺の方を見てくるので、頷いてやった。彼女が言わんとしている事が何となくわかったからだ。

 彼女は決心した様にもう一度帆夏を見据えて、続けた。


「悠真さんと……付き合う事に、なりました」

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