9【第二話 終】

 先生に連れられて、入った時とは反対の出入り口から公園の外に出ると、そこには黒いワゴン車が停めてあり、先生がまず運転席に乗り込むと、あなたも乗りなさい、と言うように運転席から僕に手招きをした。助手席のドアを開けて中に入ると、車内にただよう甘いにおいに僕は気持ち悪くなってしまった。


「吐かないでね」不快感で口に手を当てた僕に、彼女がそう言った。「このにおいは、あなたが原因なんだから」


「それって……」


「車に死体を乗せれば、そりゃ、臭くもなる。死の残り香が誰かに気付かれるようなことが万が一にでもあったら大変だもの」


「岩肩は……」


「川に捨てた」と、先生がその時の僕には本気か冗談か分からないような口調で言う。「物になってしまった以上、不要ならば取る手段はそれしかない、と思わない? 彼だ、と私は考えていたのだけれど、あなた、だったのね」


 車がゆっくりと動き出す。僕はこれからどこへ行くのだろうか、と不安に思いながら、逃げようという気持ちにはならなかった。それは彼女の威圧的な雰囲気に呑まれていたのもあるが、何よりも僕は先生以上に、この地から逃れたい、とずっと思っていたからだ。


「どういう意味?」


「言ったでしょ。私は、怪物、を探してる、って。彼のほうに素質を感じていたけれど、怪物になったのは、あなたのほうだった」


「怪物……。僕は怪物なんかじゃ」


「何を言ってるの? あなたはもう人間じゃなくて、怪物よ。だってあなたは理性を失ったのだから。ほら、昨日のことを思い返してみなさい。人を殺した時、あなたは人間だった? いいえ違うわ。人を殺したいのと、実際に殺すのはまったく違うことで、なんでひとが殺意から殺人にいたらないか、というと、それは理性があるからよ。人間は本質的に理性の皮を被った怪物で、ほとんどの人間は死ぬまで皮を脱ぎ捨てることなく死んでいくけれど、たまにね……その皮を自ら剥ぎ取っちゃうひともいるし、後は脱ぎたくて仕方なくなっている人間もいる。あの岩肩くん、って子も脱ぎたいけど脱げずにもがいている気がしたから、そっと背中を押してあげようと思ってね」早口でしゃべる彼女の言葉はほとんど理解できなかったが、ただ分からないながらも彼女の言葉を不愉快だと感じ取ることはできた。「不満そうね。それは自分が怪物って言われたから? それとも私があの子をけしかけたこと? まぁ好きに恨みなさいな。ただ私が背中を押すのは、悪意からじゃなくて、そのほうが幸せだと思うから。人間でいられる者と人間でいられない者が共に生きるなんて、無理な話でしかないのだから、早めに気付かせてあげたほうがいいの。お互いのためにも、ね」


「僕は、人間だ」


「いいえ怪物よ。残念ながら人間は、あんな風にひとを殺さない。あなた自身が一番よく分かっているはずよ」僕はあの時、留まる機会があったにも関わらず、岩肩を殺した。僕自身が誰よりも知っている。「もうあなたは人間ではいられない。死体は私が処分したから、罪に問われることは確かにないし、私は別に誰かに話す気もない。この一件を無かったことにして人間の振りを続けようとするのは自由よ。そう選択するなら、私は口を噤んでいてあげる。だけど……」


 あぁそうだ……。


「僕は……」


「もう自分の正体に気付くと、駄目よね」


 僕の、怪物の心を見透かすように、彼女が言った。もう僕は、僕自身の心に嘘をつくことができない。僕は人を殺した。そして同じことがあった時、僕はまた人を殺すかもしれない。一度の過ちは未来に、絶対、を作れなくなる。


「どうしたら……?」


「私はこのまま村を出るつもりよ。あなたは自分で選べばいい。このまま私と来てもいいし、車から降りても構わない」


 すこしずつスピードを上げていく車が、僕の家から遠ざかり、嫌気が差していた村を飛び出そうとしていた。なのに新たな世界へと向かっていくようなわくわくした気持ちはひとかけらもない。


「なんで、こんなことしているの?」


「趣味と……人助け。もう怪物でいるしかないのに、それでもまだ人間であることにしがみつこう、と苦しんでいるひとを見るとね。耐えられなくなるの。あなたは人間社会では生きられないんだから、いっそ怪物になってしまいなさい、って助けてあげたくなる」


 本当だろうか? そう思いながらも、僕の返事はすでに決まっていた。


「一緒に行きます」


 先生が向かっている場所さえも分からない。でも僕の存在を受け入れてくれる、と僕が信じられるのは、彼女しかいないのだ。この危ういひとしか、僕はよすがにするものがなく、そしてそれが二十年以上続いた、というのは間違いのない事実だ。


「じゃあ行きましょうか。あっ、あといままで使っていた名前は捨ててもらうね。新しく生まれ変わるんだから。名前は、コウ、で良い?」


「大丈夫。……でも、なんで?」


「怪物になれずに死んだ息子の名前よ」


 そして僕は、彼女の助手となった。


 この時はまだ先生が何をしている人間かはっきりと分かっていなかったし、長い月日が流れたいまも、実のところたいして知っているとは言えないほどに彼女は謎めいた存在として在り続けている。

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