名前を呼んで

※大学生一回生の春の話




 ハルくんと付き合い始めてから、おおよそ一年半ほどが経った今も、私はどこに出しても恥ずかしくない彼のストーカーである。

 晴れて同じ大学に入学した私たちだけれど、所属している学部は違う。ハルくんは社会学部で、私は文学部だ。私はちゃっかりとハルくんの時間割を調べ(ハルくんは何の疑いもなく、事細かに教えてくれた)、約一ヶ月かけて彼の行動パターンを把握した。

 私はこそこそとハルくんのことをつけ回しては、影からこっそり顔を見てにやけている。大学に入って新しくできた友人からは、「璃子ちゃん、なんで彼氏のストーカーしてんの?」と呆れられてしまった。

 今日は水曜日。ハルくんは学部の必修授業を受けた後、同じクラスのお友達とお昼を食べるはずだ。今から学食に行っても席は取れないだろうから、おそらく学部棟である六号館の空き教室。いや、今日はいいお天気だから、もしかすると芝生広場にいるかもしれない。

 二限の授業を終えた私は、いそいそと芝生広場へと足を向ける。キャンパス内は驚くほどに人が多くて、最初のうちは「毎日テーマパークに来てるみたい」とオドオドしていたものだけれど、最近はだんだん慣れてきた。それに、ゴールデンウィークが終わってから、何故だかキャンパスから人が減った気がする。

 私の予想通り、ハルくんは芝生広場に居た。入学した当初は「毎日私服考えんのめんどいよな」と言っていたけど、最近は開き直ったのかいつも似たような格好をしている。今日は長袖の黒いTシャツにデニムだ。ものすごくオシャレなわけではないけれど、よく似合っていてかっこいいと思う。

 ハルくんは、いつも一緒に居る子とは違う男の子二人と、何事か話している。何か下品な冗談を飛ばしたのか、顔をくしゃっとさせて笑った。私にはあんまり見せない、やんちゃな笑顔だ。ハルくんはいつもこそこそストーカーをする私に対して「いや、普通に声かけて!」と言ってくるけど、私は私以外の人と一緒に居るハルくんを見るのも好きなのだ。こればかりは譲れない。

 ふと、ハルくんのそばに女の子が一人立っていることに気がついた。すっきりと耳の出たショートヘアで、デニムを履いた脚が細くて長い。おそらく彼女も同じクラスなのだろう、親しげに言葉を交わしているようだ。社交的なハルくんはいつも男友達に囲まれているけれど、女の子と一緒に居るところを見るのははじめてだった。

 私が動揺しているうちに、ハルくんがくるりとこちらを向いた。木の影に隠れて立っている私を見つけて「あっ!」と声を上げる。しまった、見つかってしまうなんてストーカー失格だ。彼に片想いしていた頃は、見つかることなんてほとんどなかったのに。


「璃子! まーたコソコソしてる!」


 ハルくんが猛スピードで駆け寄ってきて、私の腕をぐいと引いた。私が「ご、ごめんね」と謝ると、呆れたように肩を竦める。


「別にええねんけど、なんで隠れるん? おれも璃子の顔見たいし、寂しいんやけど」

「たまには、私を見てないハルくんが見たくなるねん……」

「……璃子の考えてること、よーわからんわ」

「おーいハルト、何してんの?」


 いつのまにか、ハルくんのお友達もこちらにやって来ていた。さっきの女の子も一緒だ。近くで見ると、決して派手ではないのに華やかで、かなり整った顔立ちをしている。そういえば社会学部にはかわいい女の子が多い、と聞いたことがある。私は戸惑いつつも、ぺこりと頭を下げた。ハルくんのお友達は、ニヤリと笑ってハルくんを肘でつつく。


「ハルト、もしかして例のリコチャン?」

「そうそう。おれの璃子。かわいいやろ」


 ハルくんはそう言って私の両肩を掴んだ。私をお友達に紹介するときの彼はいつもどこか得意げで、ちょっと恥ずかしいけれど嬉しい。一般的に見て自慢できるような彼女ではないことは、自分が一番よくわかっているけれど。


「うわー! はじめて見た!」

「めっちゃ可愛い子やん! こんにちは」


 女の子が私に向かってニコッと笑ってくれた。どことなく、いつかちゃんのことを彷彿とさせる雰囲気だ。私もぎこちなく笑みを返す。ハルくんは彼らを顎でしゃくって、紹介してくれた。


「こいつら、クラスの友達。今週からグループワーク一緒にすることになったから喋っててん」

「そうなんや……あ、浅倉璃子です」

「知ってる知ってる。ハルトの愛しのリコチャン。高校時代から付き合ってる可愛い彼女がいるーって言うから、ちょっと存在を怪しんでたんだけどな」

「ほんまに実在してたんや。オレ、絶対嘘やと思ってた。ハルトにそんな可愛い彼女おるわけないやろって」

「なんでや!」

「めっちゃ仲良さそうやんな。なあなあ、どっちから告白したん?」


 女の子に尋ねられて、私とハルくんは同時に「私から」「おれから!」と答えた。私は驚いて、ハルくんの顔をまじまじと見つめる。ハルくんの方も、目を丸くしてこちらを見ていた。

 私の記憶が正しければ、私たちの関係の始まりは夢の中で私から告白したことだ。たしかに現実で付き合い始めたときは、ハルくんの方から言ってくれたけれど。でもあれは私たちにとって、確認作業のようなものだった。なにせ、夢の中では何度も互いに想いを伝え合っていたのだ。


「え、私からやんな?」

「なんでやねん。あれはノーカンやろ。ちゃんと告白したんは絶対おれ」

「……ハルくんの中では、あれはなかったことになってるん?」

「いや、そういうことじゃなくて! でもおれの中では、ちゃんとケジメつけて付き合い始めたのはあのときっていうか……」

「付き合ってないのに、あんなことしたん……?」

「いや、ちゃうけど……あーもう、この話ややこしいな!」


 ひそひそと揉め始めた私たちを見て、ハルくんのお友達は揃って顔を見合わせた。


「なんか、二人ともピュアそうやのに意外と爛れた感じ?」

「ごめん、あんまりツッコんだらあかんかったかな……」

「順番間違えちゃった系かー。まあ、そっとしとこうぜ」


 なんだか妙な勘違いをされた気もするけど、私たちの馴れ初めは非常に説明が難しいので仕方がない。ハルくんも諦めたのか、「まあええか」と頭を掻いていた。


「てか、彼女からハルくんって呼ばれてんの?」

「かっわいー。あたしもハルくんって呼ぼかな」

「ハルくーん」


 ひゅーひゅーと冷やかすように、彼らは口々に「ハルくん」と呼んだ。私の胸に、ざわざわと黒い感情がよぎる。私の知る限り、私以外の誰も彼のことを「ハルくん」とは呼ばない。

 彼にとってはそうではないだろうけど、私にとって「ハルくん」という呼び方は特別なものだった。夢の中で彼のことを「ハルくん」と呼ぶたびに、彼は私の恋人なのだと思い込むことができた。私だけの、唯一無二で特別な呼び方。

 私がぎゅっとスカートを握りしめていると、ハルくんが不意に私の肩を抱き寄せた。硬い胸板に頭がぶつかって、どきりとする。


「あかんあかん。おれのこと〝ハルくん〟って呼んでいいのは、この世界で璃子だけやから」


 ハルくんは笑って、それでも有無を言わせぬ口調できっぱりとそう言った。心臓を掴まれたように、胸がぎゅうっと苦しくなる。ハルくんのお友達は「うわー、ノロケうっざー」と言いながらも、それ以上は食い下がってはこなかった。



 水曜の四限は、ハルくんと同じ一般教養の授業を取っている。授業が終わった後、彼は私の手を取って「今日家に誰もおらんねんけど」とやや照れ臭そうに言った。彼の意図するところを読み取った私は、無言で頷いた。

 お互い実家暮らしの私とハルくんは、大学生になった今もゆっくり抱き合う場所とタイミングを確保するのはなかなか難しい。今日は久々のその「タイミング」だった。ハルくんは部屋に入るなり噛みつくようにキスをしてきて、そのままベッドに押し倒されてしまった。

 頭の下にある枕から、ハルくんの匂いがする。枕元には、ハルくんが小さい頃に買ってもらったというアザラシのぬいぐるみが転がっている。ハルくんが十八年間育ってきたお部屋で、ハルくんがいつも生活しているお部屋で、こんなにいかがわしいことをしてしまった。その事実に興奮する私は、ちょっと変態なのかもしれない。

 ハルくんは私に腕枕をしながら、私の額や頰に何度も唇を押しつけている。男の人は終わった後にあんまりベタベタしたがらない、という話を聞いたことがあるけれど、どうやらハルくんは例外みたいだ。

 そういえば夢の中でも、彼は行為の後は決まって私を甘やかしていた。そういえば、そのまま二回目に突入することも少なくなかった。さすがに今日は、そんな時間はないと思うけど……。


「あ。スマホ鳴ってる」


 ハルくんは腕枕をしている方と反対の手を伸ばして、枕元にあるスマホを手に取った。私を抱きしめたまま何やらメッセージを打ち込んでいるので、こちらからは画面が見えない。ちょっと気になって「誰?」と問いかけた。


「ほら、今日昼にあった奴ら。グループワークの打ち合わせの話」

「ふうん……」

「そーいやあの後、みんな璃子のことめっちゃかわいいって褒めてたわ。ハルトにはもったいないって」


 おれもそう思う、とハルくんは笑う。私は客観的に見ても飛び抜けて美少女というわけでもないし、たぶん気を遣ってお世辞を言ってくれているだけだと思うけど。今日会った女の子も、かなり美人だったし。そういえばハルくんは面食いだったな、と思い出して、私は彼の胸にそっと頰を擦り寄せた。


「……ハルくん。さっきほんまは、女の子に〝ハルくん〟って呼ばれたかったんちゃうの?」

「え、なんで? それはない!」


 きっぱり答えたハルくんに、私はほっと胸を撫で下ろす。スマホを放り投げたハルくんは、片手で私の頬に触れる。輪郭を確かめるようにぺたぺたと触れられて、私はちょっとくすぐったくて身動ぎをした。


「おれにとって、〝ハルくん〟っていう呼び方は特別やから」

「へ?」

「夢の中でずーっと〝ハルくん〟って呼ばれながら、現実の璃子もそんな風に呼んでくれへんかなって、ずっと考えてた」

「ほ、ほんまに?」

「せやから現実で璃子が初めて〝ハルくん〟って言うてくれたとき、めっちゃ嬉しくて、やっと見つけた! って思って……」


 ハルくんはやけに真面目な表情で、「おれ、まだ夢見てへんよな?」と尋ねてくる。私は思わず吹き出して、「たぶん、大丈夫」と答えた。

 私だって、付き合って一年半が経つ今でも、未だに信じられない。ずっと一方的に見つめていた大好きな人に抱きしめられているなんて、こんなに幸せなことがあっていいのかな、と思う。


「おれ、心の中ではずっと〝璃子〟って呼んでたしな。めっちゃきもいやろ」

「全然きもくないよ。私も、ハルくんに〝璃子〟って呼んでほしかった」

「何回でも呼んだる。璃子も、これからずっとおれのこと〝ハルくん〟って呼んでな」


 そう言ったハルくんに、私は「うーん」と口籠った。ハルくんは細い目を瞬かせて「え、嫌?」と不安げに尋ねてくる。


「ううん、嫌ちゃうけど……」

「けど?」

「将来子どもとか生まれたら、やっぱりパパとかお父さんとか呼んだほうがいいんちゃうかなあ……? 子どもが真似するかもしれへんし」


 私の言葉に、ハルくんはぽかんと口を開けた。唖然としている彼の顔を見て、私はしまったと冷や汗をかく。あかん、いくらなんでも気が早すぎた! 私は彼との幸せな将来設計を事細かにイメージしているけれど、彼にとっては寝耳に水だろう。まだお互いに学生なのに、そんなことを言われるのは重いと感じるかもしれない。


「ご、ごめん。いきなりそんなん言われても、重いやんな。忘れて」


 慌てて言った私に、ハルくんはぱっと表情を輝かせると、ぎゅーっと強く抱きしめてきた。


「なんで!? 璃子がおれの子ども産んでくれるとか最高やん!」

「ほ、ほんまに?」

「おれ、息子ができたら一緒にバスケするんが夢なんやけど、璃子そっくりの娘でもいいな。でも、彼氏とか連れてきたらショックで寝込みそうやな。あ、具体的すぎてきもい?」


 はしゃいだ声を出すハルくんに、私は頰を綻ばせる。実際のところ、私は彼の百倍ぐらい具体的な想像をしているけれど、それを言うとさすがに引かれてしまいそうだからやめておこう。


「そろそろ服着る? お母さん、帰ってきはるんちゃう?」


 そう言って起き上がろうとした私の腕を引いて、ハルくんは再び私をベッドの上に組み伏せた。こちらを見下ろす瞳にはギラギラとした欲が潜んでいて、ぞくりと肌が粟立つ。


「今日、母さんも櫂人も遅くなるって言うてたから大丈夫。……璃子、もっかいしよ」

「え」

「璃子と結婚するの想像したらテンション上がってきた」


 結婚したらいっぱい子作りしよな、とハルくんは笑う。真っ赤になって「あほ」と言った私の唇を、ハルくんはやや乱暴に塞いだ。

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