番外編

勝利の女神①

 学校生活において、私の嫌いなイベントがみっつある。

 まずひとつは、マラソン大会。真冬の寒い中、鴨川の河川敷を十キロも走らされるなんて、正気の沙汰ではない。けれど、走るだけなら誰にも迷惑をかけずに済むので、まだましだ。

 ふたつめは、球技大会。これは最悪だ。不幸にも私と同じチームになったクラスメイトの溜息を、何度聞いたかわからない。できるだけ隅っこの方で、ボールに触らないようにするしかない。

 そして堂々たる第一位が、体育祭である。球技大会以上に、クラス全体が「絶対優勝するぞ」という空気で盛り上がる。私のように足も遅くて非力で鈍臭い人間は、クラス内でかなり持て余される。できる限り迷惑のかからない競技を自発的に選び、あとは応援に徹するしかないのだ。

 そんな憂鬱な体育祭にも、楽しみなことがある。私の好きな人――ハルくんこと高梨遥人くんは、かなり運動神経が良い。私の知る限り毎年リレーの選手に選ばれているみたいだ。今年はアンカーを走る予定になっている。ハルくんの終身名誉ストーカーを自称している私としては、そんな彼の活躍を見れることが嬉しくて仕方ない。



 抜けるような青空の下、パァン、という渇いたピストルの音がグラウンドに響く。

 一斉に走り出した集団の中で、ハルくんはいち早く飛び出した。そのままぐんぐんと風のように後続を引き離していって、見事一位でゴールテープを切る。周りのクラスメイトが「よっしゃー! ハルトいいぞー!」と叫んだ。


「見た? 今一位でゴールしたの、私の彼氏」


 私は渾身のドヤ顔で、隣にいる香苗に小声で囁く。香苗はやや呆れたような視線をこちらに向けると、私の頰をぎゅっとつねりあげた。


「いひゃい」

「あれがあんたの彼氏ってことくらい、みんな知ってるわ」

「もう、言ってみたかっただけやんか……」


 私は頰を押さえながら唇を尖らせた。

 本日は我が校の体育祭。清々しいまでに良いお天気で、十一月の半ばとは思えないくらい暖かかった。

 私はしっかりとジャージを着込んでいたけれど、五十メートル走を終えたばかりのハルくんは半袖だ。さっきまで彼が着ていたジャージは、私の膝の上に掛けられている。


「彼女なんやから、もっと堂々と大声で『ダーリンがんばって♡』って言うてきたら?」

「えーっ、それはちょっと恥ずかしい……」


 ハルくんは私の知らない男子に話しかけられて、何やら談笑している。一位になれてご機嫌なのか、ニコニコ笑っていた。目つきの悪い彼だけど、笑うとちょっぴり幼くなってすごくかわいい。

 ハルくんはこの後、障害走と綱引きと騎馬戦とクラス対抗リレーに出る予定になっている。さすがハルくん、いろんな競技に引っぱりだこだ。どれも見逃さないようにしなければならない。場合によってはスマホで動画を撮らなければ。ちなみに私が出場するのは、借り物競走と玉入れだけだ。

 私がじーっとハルくんを見つめていると、彼がふとこちらに気がついた。ぶんぶんと大きく手を振って、一目散にこちらに走ってくる。


「璃子!」

「ハルくん、おつかれさま」

「見た? おれ一位やったで。褒めて」

「う、うん見てた! ハルくんめちゃめちゃ速かった! かっこよかった!」


 私が興奮気味に言うと、ハルくんは嬉しそうにくしゃっと破顔する。褒められて嬉しそうな、シベリアンハスキー。

 頭のひとつでも撫でてあげたくなったけど、周囲の目もあるのでさすがに我慢した。


「おれ、リレーも一位獲るわ。璃子が応援してくれたらめっちゃがんばれる」


 ハルくんは私の目をまっすぐ見つめながら、恥ずかしげもなく言った。付き合い始めてから痛感したけれど、彼の愛情表現はかなり直球ストレートだ。

 隣にいる香苗が「ひゃー」と言って両手で顔を押さえた。私の顔もたぶん、真っ赤になっている。


「……うん。ハルくんのことめっちゃ応援する。ずーっと見てる」


 私が言うと、ハルくんは満足げに頷く。円山くんに横から「イチャイチャすんな」と蹴りを入れられて、「うっさいボケ!」と応戦したハルくんは、いつものようにギャーギャーとやりあっていた。


「璃子ちゃん、責任重大やなあ」


 私たちのやりとりを聞いていたらしい陽奈ちゃんが、声をかけてくる。私は「何が?」と首を傾げた。


「璃子ちゃんの応援ひとつで、うちのクラスが一位獲れるか決まるってことやろ」


 言われてみれば、ハルくんはクラス対抗リレーのアンカーである。ハルくんが一位になるということは、必然的に我がクラスが一位になるということだ。とはいえ、私の応援にそこまでの影響力があるとは思えない。


「そんな……大袈裟やなあ」

「よろしく璃子ちゃん。二年四組の勝利の女神!」


 陽奈ちゃんはそう言って、唇の両端をきれいに釣り上げた。美人の笑顔は妖艶で、どこか抗えない迫力がある。ぽんと私の肩を叩いた。

 自慢じゃないけれど、私の人生においてこんなにも重大なプレッシャーをかけられたことは、いまだかつてない。私は引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。



 グラウンドに三角座りをして待機をしながら、私は心の中でずっと「無事に終わりますように」と願っていた。

 次の競技は借り物競走。数メートル走ったところに置いてある紙を拾って、書いてあるお題に沿ったものを持ってゴールする。これなら身体能力にそれほど左右されないし、運が良ければ最下位は免れる。

 ただ、ウケ狙いの変なお題が出たら一巻の終わりだ。私は知り合いが少ないし、目立つのもあんまり好きじゃない。

 私の前の走者が、どんどんとスタートしていく。眼鏡や黒板消し、あるいは「体育の高田先生」なんていうお題もあった。「あなたがデートしたい人」というお題を引いた男の子が、ひゅーひゅーと冷やかされながら女の子と手を繋いでゴールしていた。微笑ましく見守っているうちに、私の番がやってくる。私は震える足でスタートラインに立った。


「せーの、璃子ちゃん、がんばってー!」


 遠くからクラスメイトの声援が聞こえる。ハルくんの「璃子がんばれー!」というひときわ大きな声も聞こえた。嬉しいけれど恥ずかしい。私の足は遅いしフォームも変だから、走っているところはハルくんにあんまり見られたくない。

 覚悟していたはずなのに、ピストルの音にびっくりしてスタートから出遅れた。周りから一瞬遅れて走り出す。案の定、私が紙を拾い上げたのは一番最後だった。四つ折りになった紙をモタモタと開いて、中身を確認する。


『身長百八十センチ以上の男子』


 よかった、そこまで変なお題じゃない。

 私の頭にハルくんの顔が浮かんだけれど、すぐに打ち消す。四月の身体測定で測ったときの彼の身長は百七十三センチ。おそらくそこから目測五センチほどは伸びているだろうけど、百八十センチには少し足りないはずだ。

 となると、背の高い男の子といえば――私は少し考えた後、二年一組の観覧席へと向かった。


「しょ、翔ちゃん! 翔ちゃん!」


 精一杯声を張り上げて幼馴染の名前を呼ぶと、一斉に好奇の視線が向けられる。中には派手めな女子の威嚇するような目もあって居心地が悪かったけれど、仕方がない。

 後ろの方に座っていた翔ちゃんは、怪訝そうに眉根を寄せた。


「翔ちゃん、ちょっと来て!」


 翔ちゃんはものすごく億劫そうにこちらにやって来ると、「なんか用?」と不機嫌な声を出す。もう、借り物競走なんやから、用事なんてひとつしかないやろ!


「翔ちゃん、今身長何センチ?」

「あー……春に測ったときは百八十一センチやったかな」

「よかった! お願い、一緒に走って!」

「えー……」


 翔ちゃんは心底嫌そうにしていたけれど、私がぐいぐい手を引くと渋々ついてきた。ノロノロとした私のスピードにうんざりしたのか、最後には私の腕を掴んで、ほとんど引き摺るようにして走ってくれた。おかげで、めでたく三位でゴールイン。

 無理やり走らされた私は、息が切れて死にそうになっていた。肺が千切れそうに痛い。翔ちゃんは一人、何事もなかったかのような涼しい顔をしている。


「璃子、めっちゃ足遅いな」

「しょ、翔ちゃんが速すぎやねん……」


 身体を二つ折りにしてゼーゼーと息を吐いている私に、翔ちゃんは非情にも「ま、貸しにしとくわ」と告げた。私の幼馴染は冷血だ。どうして彼がモテているのか、私にはまったく理解できない。

 とはいえ、最下位を取らずに済んでホッとした。もしかしたらハルくんが、私のことも褒めてくれるかもしれない。

 クラスメイトの元へと戻ってくると、一番にハルくんのところへ駆け寄った。私を見つめるハルくんは、眉根を寄せて唇をへの字に曲げていた。さっきまでのニコニコ顔はどこに行ってしまったのか、ちょっと怖い顔をしている。目つきが悪いから余計に。


「……ハルくん?」


 私が名前を呼ぶと、ハルくんは無理やりみたいに唇の端を持ち上げて、笑顔を作った。


「おつかれ、璃子。……おれちょっと、飲みもん買ってくる」


 すれ違いざまに私の頭をぽんぽんと叩いて、ハルくんはさっさと歩いて行ってしまった。こちらを振り向こうともしない大きな背中を、私はオロオロと見送ることしかできない。


「え、あの、私、なんかした?」


 原因がわからず不安げな私に、綿貫くんが慌ててフォローを入れてくれる。


「いや、ちゃうねん。浅倉さんはなんも悪くないねん。ただ、ハルトが……」

「ハルトの奴、浅倉が翔真と手ー繋いで走ってるからめちゃめちゃヘコんでたで。あいつ、アホやろ。そういう競技やっちゅーねん」


 円山くんがバッサリとそう言った。私は自分の行動を思い返して、血の気が引いていくのを感じる。

 言われてみれば、軽率な行動だったかもしれない。私だって、ハルくんが他の女の子と手を繋いで走っているところなんて見たくない。お題がお題だから仕方ないとはいえ、もうちょっと彼の気持ちを考えればよかった。

 私ががっくりと肩を落としていると、綿貫くんが申し訳なさそうに両手を合わせてきた。


「ごめん浅倉さん、もしよかったらハルトのこと迎えに行ってやってくれへん? このままやったらあいつ、リレーどころとちゃうやろ……」


 ――璃子ちゃんの応援ひとつで、うちのクラスが一位獲れるか決まるってことやろ。


 さっきの陽奈ちゃんの言葉を思い出して、私は冷や汗をかいた。いやいや、そんなまさか。

 でもいつだったか翔ちゃんにも、「ハルトのパフォーマンスはかなりメンタルに左右されるから、できるだけ喧嘩せんといてくれ」と釘を刺されたことがある。

 私はぐっと拳を握りしめると、「わかった!」と答えて走り出した。今度の借り物競走のお題は、「どこかで落ち込んでいるかもしれない私の彼氏」である。

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