誤解とすれ違い

 十一月後半に行われる体育祭は、私のもっとも嫌いなイベントのひとつである。運動音痴の私は、できるだけクラスに迷惑のかからない借り物競走と玉入れに参加することになった。それ以外にも全員参加の競技はあるけれど、なんとか無難にやり過ごすしかない。

 当日を間近に控え、昼休みの時間を利用してみんなが打ち合わせをしている中、私はビニールテープで応援用のポンポンを作っている。競技の面では足を引っ張るばかりなのだから、せめて地味な作業で貢献しなければ。


「浅倉さん、ハルトどこ行ったか知らん?」


 せっせとビニールテープを割いていると、坂口くんが声をかけてきた。私は手を止めて「高梨くん?」と訊き返す。

 そういえば昼休みが始まってすぐに教室を出て行った高梨くんは、まだ戻ってきていない。いつもは教室でお昼ごはんを食べていることが多いのに。


「今からリレーのメンバーで打ち合わせするんやけど、どこ行ったかわからんくて」


 足の速い高梨くんは、リレーのアンカーに選ばれている。高梨くんは去年もリレーの選手に選ばれていたけれど、今年は同じクラスだから堂々と応援できるのが嬉しい。体育祭は憂鬱だけど、高梨くんの活躍が見れるのは楽しみだ。


「わ、私もわからんわ……ごめんね」

「そっか。浅倉さん知ってるかなーと思ったんやけど。LINEも既読ならへんし、どっかで寝てんのかなー」


 坂口くんがちょっと困ったように眉を下げた。どこにいるかはわからないけれど、なんとなく行き先に心当たりのあった私は、おずおずと申し出る。


「あの、よかったら探してこよか?」

「ほんま? 助かる。俺ももっかいLINEしとくわー」


 作りかけのポンポンを袋にしまうと、私は教室を出て廊下を歩き出した。向かうのは体育館だ。確証はないけれど、なんとなく彼はそこにいるのではないか、と恋する乙女の勘が告げていた。



 我が校の男子バスケ部は、ウィンターカップ京都府予選ベスト8で敗退した。ブザーが鳴る寸前の最後のプレイは、高梨くんのパスミスだった。

 点差が大きく開いていたから、高梨くんのミスが試合を決定づけたわけではない。それでも彼は試合が終わった後、ロッカールームの前で唇を噛み締めて俯いていた。まるで自分を責めるみたいに拳を握りしめて、爪が掌に食い込んでいた。私は二年前の引退試合のことを思い出したけれど、彼は泣いてはいなかった。

 高梨くんは私の姿を見つけると、「やってもーた」と無理やりみたいに笑顔をひねり出した。私が「おつかれさま」と言うと、気まずそうに視線を逸らされた。


「……浅倉にかっこわるいとこ見られたー」

「なんで? かっこよかったよ」


 私が言うと、高梨くんは持っていたタオルを頭からかぶった。表情を隠したまま、低い声でぼそぼそと呟く。


「……うちの先輩さあ、普段めっちゃ怖いくせに。ちょっと走んのサボったり、ノーマークシュート外しただけでめちゃめちゃキレるくせに」

「うん」

「引退試合最後の、おれのミスには全然怒らへんの」


 怒ってくれたらよかったのに、と高梨くんは自嘲気味に言った。

 私は何と答えていいかわからず、だらりと落ちている彼の手を取って、ぎゅっと握りしめた。まるで何かに縋るかのように、彼は私の手を痛いくらいに握り返してくる。ぽたりと床に落ちた水滴が、果たして汗だったのか涙だったのか私にはわからなかった。



 あの日以来、高梨くんはちょっと落ち込んでいるように見える。みんなの前ではいつも通りにしているけれど、時折ぼうっと遠い目をしている。

 同じように夢の中のハルくんもなんだか落ち込んでいるみたいで、最近はやけに私に甘えてきていた。せめて夢の中だけでも、彼を慰めることができて嬉しかった。

 ウィンターカップが終われば彼に告白するつもりでいたのだけれど、なんとなくそんな雰囲気にもならなくて、私は行動を先延ばしにし続けている。でもそろそろ、伝えてもいいのかな。高梨くんのことが好きです、付き合ってください。そう言ったら、彼は夢と同じように「いいよ」と答えてくれるだろうか。

 私の予想通り、体育館の鍵は開いていた。昼休みに体育館に来るのは、球技大会前に高梨くんと特訓をしていたとき以来だ。あの頃はまだそれほど彼と親しくなくて、ちょっとよそよそしい距離感で練習していた。

 おそるおそる中を覗き込んでみると、コートのど真ん中にボールが転がっており、傍には人が大の字に倒れている。驚いて駆け寄り、顔を覗き込んでみると、高梨くんだった。すやすやと穏やかな寝息を立てている。公式戦前はいつもに増して練習漬けだったようだし、きっと疲れていたのだろう。

 私は転がっていたボールを片付けると、彼のそばにしゃがみこんだ。夢で見慣れたハルくんの寝顔とまったく同じだ。唇がへの字に曲がって、眉間に皺が寄るところも。爆睡しているのをいいことに、つんつんとほっぺたをつついてみる。このまま寝顔を見ていたい気持ちはあったけれど、リレーの打ち合わせもあるようだし、起こしてあげた方がいいだろう。


「高梨くん」


 身体を揺すって名前を呼ぶ。反応はない。私はもう一度、大きな声で「高梨くん!」と名前を呼んだ。まだ起きる様子はない。ふと魔が差した私は、彼の耳元に唇を寄せて、小声で囁いた。


「……ハル、くん」


 彼の身体がぴくり、と動いた。うっすらと目が開いて、焦点の合わない瞳がこちらを向いている。

 やばい、今の聞かれちゃったかな。内心私が焦っていると、高梨くんは幸せそうに目を細めて、口元に薄く笑みを浮かべた。


「……おはよ……」

「……お、おはよう……」


 私が答えると、高梨くんは嬉しそうに笑って、私の頰に手を伸ばした。あっと思う間もなくぐいと強く引き寄せられて――彼の乾いた唇が、私のそれと軽く重なった。


「……っ!?」


 ほんの一瞬触れただけで離れた唇を、私は確かめるように指でなぞる。ここはいつもの白い部屋じゃなくて、高校の体育館のど真ん中で。どう考えてもこれは夢ではなく現実だ。どうしよう、私現実の高梨くんとキスしちゃった。

 ぼんやりとしていた高梨くんの表情が、次第にはっきりしていく。ぱちぱちとニ、三度瞬きをしたのち、彼の顔色がみるみるうちに真っ青になった。


「……あ、浅倉……」


 私の名前を呼んだ彼は、その場に勢いよく跳ね起きた。確認するように自分の唇に触れて、愕然と私のことを見つめている。

 何か言わなくちゃと思うのに、ぐるぐると巡る感情はひとつとして言葉にならない。なんで、恥ずかしい、どうして、嬉しい、好き――私が黙りこくっていると、高梨くんが申し訳なさそうに表情を歪めて、口を開いた。


「間違えた」


 その瞬間に、私の頭の中を揺蕩っていた感情の全てが、ぱちん、と音を立てて弾けた。力いっぱい頭を殴られたかのように、脳がぐらぐらと揺れている。

 間違えた――間違えた? 目の前が真っ暗になって、高梨くんの顔がよく見えない。


「ほんまにごめん、おれ、寝ぼけてて……」


 駄目押しのように、高梨くんが言い訳を連ねる。

 ――ねえ、間違えたってどういうこと? 一体誰と間違えたん?

 そのとき私の脳裏に浮かんだのは、彼の部屋にあった開封済のコンドームだった。こうやって寝起きにキスをするような関係の女の子が、私以外にいるってこと?


「……ひどい。さいてい」


 絞り出した声が震えて、視界が歪んだ。ぽろぽろと溢れ出した涙が、グレーのスカートに落ちて染みを作っていく。

 高梨くんがぎょっとしたように手を伸ばしてきたけれど、私はそれを振り払った。立ち上がると、走って体育館を出る。しばらく走ったけれど、彼は追いかけては来なかった。

 冷たい空気が肺に入って痛い。ゼイゼイという息とともに、喉の奥から嗚咽がこみ上げてくる。とめどなく流れ落ちる涙は自分では制御できない。

 ――頰に触れる優しい手も、少しかさついた冷たい唇の感触も、夢の中と少しも違わなかったのに。夢の中で独り占めしている彼のすべてが、他の誰かのものなのだ。

 私は制服の袖でごしごしと涙を拭くと、重い足取りで教室に戻った。坂口くんには「高梨くん、見つからへんかった」と嘘をついた。彼は何も言わなかったけれど、私の目が赤いことに気付かれたかもしれない。

 しばらくして教室に帰ってきた高梨くんを、坂口くんは「ハルトおまえ、どこ行っててん!」と怒鳴りつけていた。

 高梨くんは何か言いたげに時折こちらを見ていたけれど、私は徹底的に彼から目を逸らし続けた。六時間目の授業が終わるとすぐ、私はリュックを引っ掴んで逃げるように教室を飛び出した。誰にも顔を見られないように下を向いて、そのまま一目散に帰宅した。

 両親には「体調が悪い」と伝え、晩ごはんも食べずに布団に入った。眠ったら、また同じ夢を見るかもしれない。夢の中では彼は私の恋人で、いつもと同じようにキスをして抱きしめてくれる。――そんなのきっと、今の私は耐えられない。

 ハルくんに触れられるたびに、私はきっと想像してしまう。彼がどんな風に他の女の子にキスをして抱きしめるのか。痛いくらいにリアルな実感でもって、想像できてしまうのだ。

 結局その夜は一睡もできないまま、私は夜通し彼を想って泣き続けた。夜が明けて東の空が白んでいく頃には、涙もすっかり枯れ果てていた。

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