ポニーテールとキスマーク

 雨が窓を弾くぱらぱらという音で、私は幸せな夢から醒めたことを悟る。真っ白い壁に覆われたあの部屋には窓のひとつもなく、外の天気も時間でさえもよくわからないのだ。

 枕に顔を埋めて、私を抱きしめていた腕の力強さを反芻しながらニヤニヤする。存分に夢の余韻に浸ったところで、ベッドから起き上がった。スマートフォンを充電器から抜いて、五分後に鳴るはずだった目覚ましのアラームをオフにする。彼の夢を見るようになってから私の寝起きは随分良くなり、大抵はアラームが鳴る前に目が覚めてしまう。

 窓のカーテンを開けると、マンションの五階から見える景色は暗くどんよりと曇っていた。道行く人が傘をさしているのが見える。六月も半ばに差し掛かり、京都も梅雨入り宣言がなされた。ここ数日は雨続きで、気温はそれほど上がらないものの湿度が高く蒸し暑い。

 朝ごはんを食べた後、自室で制服に着替える。長袖のカッターシャツの袖を折り曲げて、上から紺色のベストを着た。校則上は夏服にリボンはつけなくてもいいのだけれど、私はリボンをつける派だ。うちの制服は地味だから、リボンがあった方がかわいい(気がする)。

 洗面所に移動して、いつものようにハーフアップにしようとしたところで、ふと手を止めた。髪の毛が首にべたべたと貼りついて鬱陶しい。いつもは半分下ろす髪を全部まとめて、後頭部の高めの位置で結んでみた。いわゆるポニーテールというやつだ。首の後ろがすっきりして、思いのほか涼しくなったので、今日はこのまま学校に行くことにしよう。

 私はリビングの壁にかかった時計を見て、あっと小さな声をあげた。今日は雨が降っているから、歩いて学校に行かなければならない。早く出なければ、朝練中の高梨くんを見る時間がなくなってしまう! わたしは慌てて玄関まで走って行くと、「いってきまーす!」と声をかけてから家を出た。



「あ、璃子。おはよー」


 体育館でバスケ部の朝練を覗き見していると、登校してきた香苗に声をかけられた。ストーカーさながらに扉の隙間から顔を出している私を見て、香苗は呆れた表情を浮かべる。


「アンタ、ほんま進歩ないな」

「止めんといて。私の生きがいやねん」


 私はそう答えながら、再び高梨くんの姿を視線で追い始める。彼は最近少し髪を切ったらしく、短い黒髪がスポーツマンらしくてかっこいい。


「だいぶ仲良くなったみたいに見えるけど、いつまでストーカーするつもりなん?」

「……まだ全然仲良くないもん」


 香苗の言葉に、私は溜息をついた。球技大会前はよかった。毎日昼休みを二人きりで過ごせるなんて、今考えると夢のような時間だったと思う。あの高梨くんが、私だけのためにパスを出して指導してくれるなんて贅沢すぎる! あのときは必死だったけれど、もっとちゃんと堪能しておけばよかった、と今更のように後悔が押し寄せてくる。

 球技大会が終わってから、高梨くんとの会話は激減した。もともと私は男子に積極的に話しかける方ではないし、高梨くんだってそうだ。一日のやりとりはせいぜいが「おはよう」「バイバイ」ぐらいで、「今日暑いね」と言えれば良い方だ。天気の話ができるようになっただけ進歩したと言えるだろうか。


「せやから、もうちょっと頑張って話してみーや」

「うーん、せやなあ……」


 香苗と一緒に教室に戻ることにした私は、肩を並べて歩き出す。バレー部の香苗は、私よりも十センチ以上背が高い。隣に並ぶと、腰の位置が全然違うのが明らかにわかる。脚が長くて羨ましい。


「そういや、璃子今日髪型違うやん」


 香苗は目敏く私の髪型の変化に気付いた。私はポニーテールの先っちょを掴んで「へん?」と尋ねる。高校に入学してからは毎日ハーフアップにしているので、なんだか妙に落ち着かない気持ちになる。


「全然! 雰囲気違くていいやーん」

「ありがとー。ちょっと気分変えてみた。今日めっちゃ暑ない?」

「ほんま暑いよなー。璃子も髪切れば?」


 香苗は中学の頃から変わらず、前髪を斜めに流したショートヘアだ。よく似合っているし憧れるけれど、私にはたぶん似合わない。たぶん、小猿のようになってしまうと思う。


「高梨くん、璃子が髪型変えたん気付くかなー」


 私のポニーテールを弄りながら、香苗がからかうように言う。気付かない可能性の方が高いし、万が一気付いたとしても何も言ってくれないと思う。現実の高梨くんは、私に微塵も興味がないだろうから。

 教室に入ると、クーラーの涼しい風がひやりと頰を撫でた。香苗に手を振って、自分の机の上にリュックを置く。私の席は冷風が直撃する位置なので、授業中は結構寒い。ぼんやりしているうちに予鈴が鳴って、汗だくの高梨くんが慌ただしく教室に飛び込んできた。最前列に座っている綿貫くんが声をかける。


「ハルト、ギリギリやんけ。どしたん?」

「全員暑くてたるんでるって、先輩にガチギレされてた。くそだるい」


 高梨くんはうんざりしたように吐き捨てた。私はしゃきんと背筋を伸ばして、どきどきと高鳴る心臓を押さえる。自分の席へとやってきた高梨くんは、私の方を見て言った。


「浅倉、おはよ」


 今日は名前を呼んでもらえたので良い日だ。私は笑みを作って「おはよう」と返す。高梨くんは私の方を数秒見つめた後、すぐに視線を逸らしてしまった。

 髪型の変化に気付いたのか気付かなかったのか、よくわからない。夢の中のハルくんなら、「かわいい」と言ってくれるのだろうけど。

 そんなことを考えて、私はちょっと虚しくなってきた。いくら夢の中で欲しい言葉をたくさんもらえたとしても、現実がこれでは何の意味もない。


「そーいや璃子ちゃん今日ポニテやな。かわいー」


 後ろに座っている陽奈ちゃんが、ぐいと私の髪を軽く引いた。

 そう言う陽奈ちゃんは、長い髪を頭の後ろで捻ってまとめている。なんだか構造がよくわからないけれど、オシャレな髪型だ。ただひとつに結んだだけの自分がちょっと恥ずかしくなる。


「オレも思ってた! ええよなー、ポニーテール。めっちゃ好きやわー」


 話に入ってきたのは、陽奈ちゃんの隣に座っている坂口くんだった。手にしたうちわでパタパタと顔を仰いでいる。


「うなじがええよな、うなじが」

「えーなんか変態っぽーい。璃子ちゃん、気ーつけや」


 からかうような口調に私はなんだか恥ずかしくなって、反射的にうなじを隠してしまった。坂口くんだって冗談半分だろうし、こういうときに陽奈ちゃんのような反応ができればいいのに。

 私がモゴモゴと口籠っていると、坂口くんがうちわで高梨くんの頭をぺしぺし叩いた。


「なーハルト。ポニーテールが嫌いな男おらんよな?」


 話を振られた高梨くんは、ぎょっとしたように目を丸くした。チラリと私に視線を向けた後、困ったように視線を逸らしてしまう。

 ……ああごめんなさい、無理に答えんくてもいいから。私は申し訳なさにますます縮こまってしまう。


「てか高梨くん、璃子ちゃんが髪型ちゃうの気付いてた? なんか、そういうの疎そうやもんな」

「言うたんなや。女心がわからん奴やねん、こいつは」

「そういうとこ押さえといた方がモテるでー」


 言いたい放題の二人に、高梨くんの眉間の皺が深くなる。なんだか私の方が居た堪れなくなってきて、私は二人のやりとりを遮るように言った。


「いやでも、高梨くん私の髪型になんかまったく興味ないやろうし」


 ……自分で口に出してから、正直かなり落ち込んだ。私の言葉を聞いた高梨くんは、何か言いたげに口を開く。しかしすぐに先生が教室に入ってきてしまったので、会話はそこで打ち切りになってしまった。




「おれさあ、今日璃子の髪型違うのすぐ気付いてたし」


 窓のない真っ白い部屋の中で、ハルくんは拗ねたように唇を尖らせた。ベッドから起き上がりもせず、開口一番そんなことを言うので、私は目を丸くする。


「え、いきなりどしたん?」

「ふつーに塚原さんとか拓海より先に気付いてたし。ただなんとなく、言うタイミング逃しただけで」


 ハルくんはそう言って不満げに眉を寄せる。どうやら朝の一件をかなり根に持っているらしい。これは私の夢なのだから、根に持っているのは私の方なんだろうけど。

 それでも目の前のハルくんがなんだかやけにかわいく見えて、私は短い黒髪を撫でると「ふふ」と笑みを溢す。


「……何わろとんねん」

「なんでもない」

「あっ、そ」


 そこでようやくハルくんは上体を起こすと、いつものようにヘッドボードにもたれかかった。私もその隣にぴったりと寄り添う。こうして並んでお話をするのが、最近の私たちの夢での過ごし方だった。

 ハルくんが私の髪を一房掴むと、くるくると指で弄んだ。寝ているのだから当然だけど、今は完全に下ろしている状態だ。私はハルくんに尋ねる。


「ポニーテール、好きなん?」


 ハルくんはやや考え込んだ後、口を開いた。


「あんまり考えたことなかってんけど、今日璃子がしてんの見ていいなって思った。かわいかったし」


 率直な言葉に、私の頬が熱くなる。自分にとって都合の良い妄想だとわかっていても、嬉しいものは嬉しい。


「じゃあ、明日もポニーテールにして行こかな」


 すっかり調子に乗った私が言うと、ハルくんは予想外に顔を顰める。


「……それはちょっと嫌やなー」

「なんで?」

「璃子のポニーテール。かわいいけど、なんかエロい」

「えろい……?」

「なんか、いっつも見えへんとこが見えてる感じが」


 そう言ってハルくんは私の腕を引く。どうやら、膝の上に座れ、と促されているようだ。導かれるままに彼の膝の上に腰を下ろすと、後ろから抱きしめられる。小柄な私は、すっぽりと彼の身体に包まれてしまった。


「他の奴に見られんの、嫌やな」


 ハルくんは私の髪を掻き分けると、首の後ろに唇を寄せた。濡れた唇の感触がうなじを這うのがわかって、私の肩はびくんと跳ねる。ちゅっと音を立てながら何度もキスを落とされて、くすぐったさに思わず身を捩った。


「は、ハルくん……こしょばい」

「じっとしてて」


 ハルくんの腕はがっちりと私の身体を拘束していて、動くことができない。耳朶を軽く食まれて、ぞくぞくと妙な感覚が湧き上がってくる。耳の中をゆっくりと舐められたそのとき、私の唇から「ひゃあ」という甲高い声が出た。


「声かわいい。……耳弱い?」


 囁かれる低い声にすら身体が反応して、どろりと思考が蕩け始める。私は彼の腕を握り締めながら「わ、わからん」と答える。

 ハルくんの手が私のパジャマの裾に潜り込んでくる。ごつごつとした手で下腹部を撫でられて、私ははっと我に返った。そこ、絶対お肉ついてる!


「お、おなか触るんやめて!」

「じゃあどこやったら触ってもいいん?」

「は、ハルくんのえっち! へんたい!」


 私の精一杯の罵倒に、ハルくんは何故だか嬉しそうな顔をした。するりと手を脇腹のあたりから上へと滑らせる。腋のあたりで不埒な動きをする手を掴んで「そ、そこもあかん!」と彼を睨みつけた。


「……あー、ごめん。さすがにやばいな」


 そう呻いたハルくんは、パジャマの中から手を抜くと、私のうなじに顔を埋める。再び唇が触れる感触がしたのち、チリッと鋭い痛みが走った。


「ぎゃ! な、なに?」


 ハルくんは私の問いに答えず、黙ってうなじのあたりを指でなぞった。私は必死で首を捻ってみたけれど、どう頑張っても自分で自分のうなじを見ることはできない。


「ハルくん、何したん?」


 重ねて尋ねると、ハルくんは肩を揺らして悪戯っ子のような笑顔で言った。


「ポニーテールもいいけど、おれはいつものアタマもかわいいと思うで」


 まったく回答になっていない。頻りに首を傾げる私をよそに、ハルくんは満足げにわたしのうなじを撫でている。




 アラームの音と同時に目を覚ました私は、なんだかえっちな夢見ちゃった、としばしベッドの中で悶える。何が「ハルくんのへんたい」だ! こんな夢を見てしまうなんて、変態なのは私の方だ!

 私だってそういうことに興味がないわけじゃないけれど、こんな夢を見てしまうほど自分がえっちだなんて思ってもいなかった。……私、欲求不満なんかなあ。

 ここ最近、夢の中のハルくんの行為が少しずつ大胆なものになってきていることに、私はちゃんと気付いていた。このままだと、夢の中で最後までしてしまうのではないだろうか。

 ……というか、これってやっぱり私がそういうことを望んでるってことになるやんな。

 私に触れる手の感触を思い出して、また身体が熱くなるのを感じた。

 私はまだ鳴り続けているアラームを止めると、のろのろとベッドから起き上がる。今日は雨は降っていないようだけれど、そのぶん余計に蒸し暑い気がする。

 制服に着替えて洗面台の前に立ったところで、今日も暑いしポニーテールにしてみようかな、と私は考える。かわいい、という彼の言葉を思い出して頬が緩んだけれど、それは夢の中の話だ。ブラシで髪をとかして、ひとつにまとめたところで――私はふと気がついた。

 首の後ろ、うなじのあたり。夢の中でハルくんが思い切り吸いついた場所に、赤い痕が残っている。

 私は赤面した。恐らく蚊にでもさされたのだろうけど、不思議な偶然もあるものだ。なんだかこれではまるで……キスマーク、のように見える。

 ただの虫刺されとはいえ、身に覚えのないことを邪推されてからかわれるのは嫌だし、高梨くんに妙な勘違いをされるのはもっと嫌だ。私はそのまま髪を下ろすと、いつものハーフアップにする。


 ――他の奴に見られんの、嫌やな。

 ――おれはいつものアタマもかわいいと思うで。


 夢の中のハルくんは、もしかしてこうなることを見越してキスマークを残したのかな。

 そんな馬鹿げた考えが頭をよぎって、私はぶんぶんと首を横に振った。これはただの虫刺されで、夢の中の彼の言葉は全部私の妄想に過ぎないのだ。それでもうなじに残る彼の唇の感触は未だ消えず、私の口からはほうっと甘い溜息が零れた。

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