二人きりの特訓

 朝練が終わると、おれは友人たちと「クソ暑い」「だるい」「帰りたい」と口々に文句を垂れ流しながら教室へと向かう。男バスの同級生はみんな別のクラスなので、おれは「じゃーな」と手を振って、二年四組の教室に入った。

 こちらは朝から運動をして汗だくなのだが、五月下旬の教室にクーラーは入っていない。もう気温も三十度近いのだから、融通を利かせてくれればいいものを。最前列に座っている翼にちょっかいをかけてから、おれは自分の席につく。その瞬間、おれはいつも僅かに緊張する。


「高梨くん、おはよう」


 隣の席から、囁くような小さな声がする。おれはそちらを向いて「あ、おはよ」と短く返した。璃子は微かな笑みを口元に浮かべたのち、すぐに前を向いてしまう。相変わらずのそっけなさではあるが、こちらを向いてくれるようになっただけ進歩したものだ。

 相変わらず、おれは毎晩のように浅倉璃子の夢を見ている。関係はどんどん進展していき、ついには名前で呼び合うまでになってしまった。ここ最近のおれは、完全に夢の中で彼女との恋人気分を楽しんでしまっている。

 おれは今まで璃子のことをおとなしい女の子だと思っていたけれど、夢の中の彼女は意外とよく喋ってよく笑った。おれの好きな漫画を璃子も好きらしく、昨夜はその話で盛り上がった。漫画を読むようなタイプだと思っていなかったので、ちょっと意外だった。おれが知らないだけで、現実の璃子も友達の前ではこんな感じなのかもしれない。

 それはさておき、ここ最近のおれはちょっとした葛藤を抱いていた。例の夢は匂いも感触もなにもかもリアルで、璃子を抱きしめていると嫌でも身体のある部分が反応してしまう。しかもあの部屋には、巨大なベッドひとつきりしかないのだ。かわいい女の子とベッドの上でイチャイチャしていて、妙な気分にならない男が果たして存在するのだろうか。――要するに、おれは夢の中の彼女とセックスがしたくてたまらないのだ。

 さすがにそこまでしたら現実の璃子に顔向けできない、という理性と、夢の中なんだから別に何をやってもいいだろう、という本能が、おれの脳内で喧嘩をしている。それに、夢の中の彼女はキスをしようとしただけで力いっぱいおれを突き飛ばすほど純情だ。そんなことをしてしまったら、泣かれてしまうかもしれない。たとえ夢の中だとしても、女の子の泣き顔を見るのは嫌だ。

 おれは璃子に悟られないよう、横目でチラリと彼女を盗み見た。長袖のカッターシャツの上に紺色のベストを重ねて、胸元には赤いリボンをつけている。肌はほとんど見えないけれど、シャツの袖から覗く手首は折れそうに細い。かっちりとした制服に覆い隠された彼女の身体をつい想像してしまい、おれは慌てて視線を引き剥がした。



 三限目は体育の授業だった。今は二週間後に控えた球技大会に備え、男子はサッカーで女子はバスケをやっている。男子もバスケやったらよかったのにね、と夢の中の璃子は言っていたが、おれは正直体育のバスケがあまり好きではない。

 バスケットボールはそもそも経験者が圧倒的有利なスポーツだ。バスケ部が授業や球技大会で無双することは簡単だが、本気を出せば「空気読めや」と総スカンを食らってしまう。ほどほどに手を抜きながら、チームメイトを満遍なく活躍させなければならない。サラリーマンの接待ゴルフのようなものだ(しらんけど)。それなら何も考えずにサッカーをしている方が何倍も楽しい。

 四限目が体育やったら昼休みもサッカーできんのにな、と友人たちと言いながら、おれは教室に戻ってきた。しばらくすると、ばらばらと女子が戻ってくる。汗臭い男子とは違い、女子からは香水や制汗剤の匂いがぷんぷん漂ってくる。おれの隣に座った璃子からは、レモンのような柑橘系の香りがした。


「璃子ちゃん、球技大会頑張ろな!」


 璃子にそう声をかけているのは、女バスの橋本はしもと茉莉花まりかだ。璃子の顔は青ざめており「うん」と答える声も力ない。今日の授業で球技大会のチーム決めをしたのだろう。彼女はどうやら、橋本と同じチームになったらしい。


「でも、どうしよう。私ほんまに運動できひんねん」


 璃子が不安そうに言った。橋本は「フォローするから大丈夫やって!」と璃子の背中を叩く。


「璃子ちゃん、今日もコートの隅で立ってるだけやったもんなー」


 後ろの席の塚原さんも会話に加わってきた。ただ突っ立っているだけなんて、そんなの面白くもなんともないだろうに。そういえば、夢の中の璃子も球技大会を憂鬱がっていた。「うちのクラスみんな運動できるし肩身狭い」と愚痴を零していたのを思い出す。


「どうしよう。私、絶対足引っ張っちゃう」


 橋本が自分の席に戻った後、璃子が不安げに零した。橋本は悪い奴ではないのだろうが、わりと気が強く独善的で、「みんなで一緒に頑張ること」を強要するきらいがある。同じチームになってしまったことにプレッシャーを感じているようだ。


「茉莉花、ちょっと怖いもんな」


 冗談めかして塚原さんが言う。陰口というほど露骨なものではないが、やや含みのある口調だ。仲が良さそうに見えるが、女子の間にもいろいろあるのだろう。


「ほなハルトに教えてもらえば?」


 唐突にそんなことを言い出したのは、黙ってやりとりを見守っていた拓海だった。いきなりおれの名前を出されて、「え!?」と裏返った声が出る。璃子も驚いて目を丸くしていた。


「あーそっか! 高梨くん男バスやもんな。璃子ちゃん、お願いしたら?」

「えっ、いや、でもそんなん悪いし……」


 璃子がおどおどと視線を彷徨わせる。嫌がっているのか、それともただ遠慮しているだけなのかわからない。おれはどう答えていいものか判断しかねて、ただ黙って頰を掻いている。


「やるからにはやっぱ優勝したいもんなー」

「ええやろ? ハルト」


 おれは困って、璃子の方に視線を向ける。おれはいいけど、璃子がどう思っているかが一番問題だ。ろくに会話もしたことのないクラスメイトに教わるのは、ちょっと気まずいのではないだろうか。しかし彼女は上目遣いにこちらを見つめて、小さく首を傾げた。


「えっと。……お願いしてもいい?」


 どうやら、嫌がってはいないようだ。璃子が嫌でないのなら、おれに断わる理由はない。おれは頷いて、「放課後は部活やから無理やけど、昼休みとかなら」と答えた。



 昼休みが始まるなり一瞬で弁当を平らげたおれは、璃子に「先行っとく」と声をかけてから体育館に移動した。昼休みの体育館には鍵がかかっているのだが、おれはバスケ部の顧問に「昼練がしたいので」と頼んで鍵を借りていた。

 用具入れからボールを出して、軽くドリブルをした後でジャンプシュートをする。パシッと小気味良い音を立てて、ボールがネットを通り抜けた。


「お、おまたせ!」


 しばらくすると、璃子が慌ただしく体育館に入ってきた。制服のスカートの下にジャージを履いており、ここまで走ってきたのか軽く息が切れている。まだ昼休みが始まって十分ほどだが、ちゃんと昼飯を食べてきたのだろうか。


「……おー。ほな、やろか」

「よ、よろしくお願いします」 


 璃子が深々と頭を下げるので、おれもつられて「あっ、こちらこそ」とお辞儀をする。しばらく妙な間が流れて、おれたちは顔を見合わせてちょっと笑ってしまった。現実の璃子の笑顔を真正面から見たのは初めてだが、やっぱりかわいい。痩せているけれど、ほっぺたが丸くてふっくらしているのもいい。あんまり見惚れているのも変な気がして、おれはコホンと咳払いをした。


「えーと。ボール運びは橋本とかに任せとけばいいから、とりあえずゴール下に走ってパスもらってシュートできるようになろ」


 璃子はこくこくと頷く。二、三度ドリブルをした後、ゴール下に立っている璃子に向かって、ふわりと山なりのパスを出す。と、ボールは彼女の顔面に見事に直撃した。


「ご、ごめん浅倉!」


 慌てふためいたおれは、その場にしゃがみこんでいる璃子に慌てて駆け寄る。璃子は両手で顔を押さえたまま、ぶんぶんと首を横に振った。


「だ、大丈夫……」

「ほんまに? 鼻血とか出てへん?」


 おれは璃子の頰を両手を掴んで、顔を覗き込んだ。触れ合うほど間近に彼女の唇があって、キスしたい、と反射的に考える。アホか、これは現実やぞ。馬鹿げた煩悩を慌てて追い払う。

 丸い瞳が大きく見開かれて、白い頰がみるみるうちに真っ赤に染まる。しまった、女子相手に少々無遠慮だったか。おれが手を離すと、璃子はすくっと勢いよく立ち上がった。


「ごめん! だ、大丈夫やから! 頑張ります!」

「わ、わかった」


 おれはもう一度、できるだけ受けやすいようにゆるいパスを出した。しかし璃子は「ひゃあ」と叫んでボールを避けてしまう。


「いやいや、避けてどーすんの。ドッヂボールちゃうねんから」

「ごめんなさい……」

「もっかいいくで」

「ギャッ」

「いや浅倉、目ー瞑るなって」

「は、はい」

「ちゃんとボール見て」

「……はい」

「やから、弾いてどないすんねん! ちゃんと両手で受け止めて」


 ……結局予鈴のチャイムがなるまで、璃子はまともにパスすら受けられなかった。運動音痴とは聞いていたが、まさかこれほどとは。おれが思わず溜息をつくと、璃子が「…ごめんなさい」としょんぼり肩を落とす。心底申し訳なさそうな表情に、おれは慌てた。どうにもおれはバスケのことになるとムキになってしまう。


「大丈夫。また明日続きしよ」


 おれはできるだけ優しい声で、璃子に言った。璃子は無言のままこくんと頷く。それからは、最後までまともに視線が合わなかった。もしかすると怯えさせてしまっただろうか。おれはもう少し、自分の人相の悪さを自覚した方がいいらしい。




 その夜、顔を合わせるなり璃子は「今日、ごめんね」と眉を下げた。何の話かわからずおれがキョトンとしていると、璃子は「昼休み、せっかく練習付き合ってくれたのに」と付け加える。


「あー、その話か」


 おれがヘッドボードにもたれかかると、璃子も隣にぴったりとくっついてくる。昼間からは考えられない距離感だ。自らの腕に触れる柔らかな二の腕を意識しながら、おれは口を開く。


「おれの方こそ、ボールぶつけてごめん」

「痛いより恥ずかしかった。ハルくんにだけは、あんなとこ見られんの嫌やったのに……」


 そう言って璃子が両手で顔を覆った。申し訳ないけれど、恥ずかしがっている姿もかわいい。おれは笑って、からかうような口調で言う。


「璃子、ほんまに運動できひんねんな」


 おれの言葉に、璃子はちょっと拗ねたらしい。頰を膨らませると、おれを軽く睨みつけた。


「そんなこと言われても、猛スピードで目の前にボールが飛んでくんのに、目瞑らずにキャッチするなんて無理やもん! 怖い!」


 現実の璃子はあんなにしおらしくしょげていたというのに、夢の中の璃子は結構強気である。おれは瞬きをすると「怖い?」と訊き返す。


「怖くない? バスケットボール。硬くて痛いし」


 言われてみれば確かに、ボールに慣れていない人間にとってみれば怖いのかもしれない。おれは小学三年生の頃からバスケットボールに慣れ親しんでいたので、その感覚があまりわかっていなかった。


「……そんなら、ワンバウンドパスやったらいける?」


 おれの提案に、璃子はうーんと首を捻る。しばし考えた後、ゆっくりと頷いた。


「うん……がんばればいける……かも」

「わかった。ほな、明日はそうする」


 現実の璃子がどう思っているかは知らないが、ボールが怖いという意見は貴重である。


「なんか他にも思ってることあったら言うて」


 おれが言うと、璃子は「気遣わせてごめん」と目を伏せた。おれは「全然」と璃子の頬に触れる。


「てか、そういうの全部言うてくれなわからんから。おれ女子の気持ちとか考えんの苦手やし、ついムキになってキツいこと言うてしまうし」

「……でも。私、運動音痴すぎて呆れてへん?」

「なんで? かわいいよ」


 おれがそう言った途端に、間近にある璃子の顔が赤くなって、へらりと口元が緩む。キスしたいと思ったので、今度は欲望に抗わず彼女の唇を塞いだ。まだ舌を入れる勇気はなかったけれど、上唇を唇を軽く食む。彼女の身体がびくんと震えたが、拒絶する様子はなかった。

 ……これはおれの夢なのだから、きっとおれが望めば関係を進展させることは可能なのだろう。それでも、おれは踏ん切りがつかなかった。最後までしてしまえば、夢の中の彼女がおれの性欲の捌け口でしかないことを、思い知らされるようで。

 要するにおれは、もう少しだけ幸せな恋人同士の気分を味わっていたいのだ。華奢な体をきつく抱きしめると、耳元で「ハルくん」と囁かれる声が、やたらとくすぐったく甘く響いた。

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