第19話


 【クゥクーシカ】の裏サイトのアカウントを末安雫枝に譲渡して数ヵ月後、何の前触れもなく、井上宛に雫枝からレターパックにて現金200万円が送り付けられた。


 突然のことに驚き、慌てて雫枝に連絡をすると、


『紹介料よ。だからどうか、私にあれを譲渡してくれたこと、人には言わないでね。』


 酷く短い言葉のみを残して、電話は一方的に切られた。

 

 急いで折り返したが、その日は雫枝と連絡を取ることができなかった。

 

 日を改め、井上は雫枝に連絡する。すると、聞き慣れたはずの声で雫枝は淡々と言った。


『何のことを言っているのかわからないわ。』


 電話の向こうで笑う雫枝の笑い方が、少し棒読みのようだと気がついたが、井上は息を飲んでそれを黙殺した。


 口止め料の200万円は、雫枝に返さなければならない。

 そして、あんな怪しいサイトに私のアカウントでアクセスしないでほしいと、改めて告げなければならない。


 そんな焦燥感に駆られていた矢先に、井上は娘の沙織から、


「朋美がすごく悩んでて、本当に辛そうだから、お母さん、助けてあげて。」


 雫枝の娘、朋美が、母親がおかしいと言っていると、そのために探偵を雇いたいから身元保証人になってほしいと頼まれたのだ。


     ※ ※ ※


「だから、これが絶対にバレてはいけないと思って、私は朋美ちゃんの身元保証人を引き受けたんです。」

「…なるほど。」


 牟田はさめざめと泣きながら話す井上の言葉に耳を傾けながら、運転席の背もたれに背を預け、腕を組み、暗いだけの駐車場をじっと睨み据えた。


 単純に考えて、雫枝は【クゥクーシカ】裏サイトにて自身の分身、すなわち自身のアンドロイドを発注したことは間違いないだろう。


「それにしても、200万をあなたに送りつけ、なおかつ【クゥクーシカ】に自分の分身を発注できるとは、…末安雫枝さんは随分羽振りがいいですね。スーパーのパート店員の給料からは少々想像がつかない。」


 牟田の問いに、井上はゆるゆると顔を上げた。バックミラー越しに目が合うと、井上は急いで目を反らし、唇を戦慄わななかせながら、静かに言った。


「彼女、…ママ活をしていたのかもしれません。これは、…あくまで私の想像ですけど。…けど、私もスーパーのパートだからわかるんです。一介の主婦が、そんなまとまったお金なんて、用意できませんから。」

「まあ、…そうですよね。」

「私たちパート暮らしの主婦が自分で自由に使えるお金なんて限られています。まして、100万近いお金なんて触る機会さえそうそうない」

「………」

「…私たちなんて、ただ毎日仕事をして、家事をするだけの存在なんですから。感謝もされず、労いもされず、…入れ替わっていたとしても主人にさえ気付いてもらえないほどのちっぽけな存在なんですから。」

「………」


 井上の声は、涙に濡れつつも明らかに絶望の色を滲ませた。

 当たり前の日常に対する、息苦しいほどの閉塞感が垣間見えて、牟田は言葉を失くす。


 薄暗い駐車場の車内で、そんな閉塞感に耐えかねて、井上は深く濁った息を吐きだした。


「…今回の私たちの夫婦喧嘩も、私が末安さんから送られた200万円をそのまま持っていたのが、主人にバレてしまったのがキッカケでした。そのお金を見た主人が激しく激昂して、」


『何だこの大金は!お前まさか身体を売ったんじゃないだろうな!』


「…まるで虫螻でも見るような目で、一方的に言われて、だから思わず『だったら何?』と答えてしまって。…すると主人、顔を真っ赤にして怒り狂って、何の躊躇ためらいもなく手を上げて、…思いきり、殴られました。」


『くだらない真似しやがって!世間にバレたらどうするつもりだ!俺の立場も考えろ!』


「…初めて人に殴られて、息が、全然できなかった。ようやく息ができても、見下すように怒鳴り続けられると、身体がすくんで、言葉なんて何も出なかった…」


 有無も言わさぬ暴力と威圧的な恫喝はただの恐怖でしかない。

 井上は両手で震えの止まらない自分の身体を包むと縮こまり、俯いた。


「…もう嫌、もう嫌、…もう嫌よっ、なんで私たちばかりが虐げられて、奴隷のように毎日毎日働かされてっ、体調が悪くても家事は休めないっ、それが何年も何年も繰り返されて、ただただ労働力を搾取されて、…こんなの、生きてるって言えないっ!」


 上擦り、叫ぶ井上の声は悲痛に暮れ、それはただの悲鳴となって虚しく車内に響いた。






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