4. 桜とタバコと、フルーツサンド

「深川さん、朝ごはん食べないんですか?」


「ああ、私ね、朝はお腹空かないの」

 

「……あっ、はい。分かりました……」


「あのさ、エリカちゃん、緊張してる?」


「……いえ、別に」


「……嘘」


「……うっ。なんで分かったんですか?」


「なんか、『あっ』とか『はい』が多いから」


「……あっ、すいません」


「ほらまた」


「……あっ。……えーっと、私は、どうすれば、いい、でしょうか?」


「……じゃあ、試しに。私のこと、『深川さん』って呼ぶの、やめて。『美雪さん』か『美雪お姉ちゃん』か『美雪お姉さん』。そう呼んでくれない?」


「なんでですか?」


「あなたがリラのこと、『お姉ちゃん』って呼んでる。それと同じことだよ」


 お姉ちゃんって、何人いるんだ?

 一人もいないはずなのに。

 こういう関係って、なんて言うんだ?

 おねしょた、ではないか。

 第一、性別が違う。私は女だ。特におしゃれも拘らない、可愛くない女だ。生憎、こっちから抱き締めたくなるような愛くるしさのある歳の離れた男の子、ではない。私が男の子を愛でてたいという気持ちがあるのと同様に、私がそんな可愛い異性の子だったら映えていたのかな、なんて思ったりもするけれど。

 擬似姉妹。偽造姉妹。捏造姉妹。どれもしっくりこない。シスコンもおねショタもタバコの匂いも、そっと心に閉じ込める。


「リラがね、エリカちゃんのこと、かわいいって言ってたよ」 


「どういう風に、ですか?」


「おしゃれに拘ってなさそうで、自分のこと可愛くないって思ってるかわいい子だって」


「……それ、褒めてるんですか?」


「磨けば光る。エリカちゃんは、ダイヤの原石ってことじゃない?」


 やっぱり、褒めてない。


「『かわいい』って、なんなんですかね。すごく、卑怯で憎たらしい感じがします」


 美雪さんは、私の髪を優しく撫でる。


「よしよし」


「……美雪さん、早く店の準備しましょう」


「うん。そうしようか。よしよし」


 なんで私の髪を撫でるのか。理由なんて分からなかった。

 

「……からかってます?」


「うん。からかってる」


「やめてくださいって言ってもいいですか?」


「そんなこと言ってるのに心のどこかではもっと色んなことして、って思ってそうなところ、やめられないんだよ」


「美雪さんの思う『色んなこと』を、私にもしてくださいよ」


「じゃあ、『お姉ちゃん』って言って」


「美雪お姉ちゃん」


「……妹ができるって、愛おしいよ。こんなにかわいいから、やっぱり『かわいい』は憎たらしいね」


「一つ、質問があります」


「なんだろ。今だけは私の妹だから、なんでも聴いていいよ」


「美雪さんは、いくつですか?」


「……そうくるかぁ。じゃあ、何歳に見えるかな?」


 左手に三、右手に四をかざす。

 美雪さんは、二と八を差し出した。


「エリカちゃん。もしかして腹立ててる?」


「そう見えますか?」


「怒ってるけど、それが犬の甘噛みみたいで面白いと」


 人が怒ることは分かるのに、それを肯定して、さらに煽っていく美雪さん。

 私は、結局、何も感じない。

 何も感じないから、何も起こらない。


 それに、私には、犬の甘噛みも、猫の引っ掻きもできない。

 私にできること。

 布団から身を起こして、朝の寒さに震えるみたいに、私はとてつもなく軽い絶望から抜け出す。

 自分には、何かできるだろうかと、考えてみる。


 開店後も手持ち無沙汰な時間が続いた。

 可能なこと――風呂掃除と洗濯、皿洗いと自分の出来る家事は全て終えた。それなのに、時間が有り余っている。



 客が来ない。人気がないというより、平日の午前中、小さな港町、そこにひっそりと佇む喫茶店。都民からしたら憧れかもしれないが、現実はそういうものでもなく、店主はスマートフォンを片手でいじって暇を潰している。


「……他に、私に出来ること、ありますか?」


そんな美雪さんに、私は尋ねる。



「桜の部屋の掃除、チャレンジしてみれば?成功すると、掃除のステータス、結構上がると思うよ」


「桜さんの部屋はゲームに出てくるダンジョンかなんかですか?」


「ダンジョンというより、迷宮かな?」


「じゃあ、桜さんの部屋、綺麗にします」


「フフ、もしかして、まださっきのこと、怒ってる?」


「だから、怒ってないように見えますか?」


「……ねぇ、こんな会話、まだ続ける?」


「……いや、続けたくないです」


「お互いさまだね」


「ですね」


「期待してるよ、美雪お姉さんは」


「……やっぱり、からかってますよね」


「どうだろうね。空が半分曇っていて、もう半分は青い、みたいな」


 やる気のなさそうに見えるぐったりした表情で、美雪さんは鈍くぼやけたことを言う。

 絵空事に覆われた、少しの本音。やけに記憶に残って、スッと心に溶けないような、いかにもわかりにくい例えだった。


 ❀


 桜さんの部屋の掃除は予想以上に難易度の高い迷宮だった。

 室内からは酒とタバコと香水の混ざったカオスな臭いが漂っている。お酒の缶は積み重ねられ、ビールジョッキには黄金の液体とキメ細やかな白い泡の代わりに、タバコの吸殻がこれでもかというくらいに詰め込まれていた。


 脳内に浮かんだ言葉は多くあった。本当はオブラートに包みたかった。

 でも、あまりの――具合に、口を塞ぎながらも、結局本音をぶちまけてしまう。


 ――あの人、ほんとに女性だよね?


 踏み場はかろうじてある。でも、畳まれずにそのまま放置された布団や無造作に散らかった数学の参考書、洋楽と邦楽ごちゃ混ぜのCDジャケット、何より黒いブラジャーが床に無造作に放置されていたことが一番の衝撃だった。

 ビール缶のタワーと吸殻の処理は達成出来たものの、これ以上は手に負うのは身の危険があると思い、丁度中間地点あたりでこのクエストを断念することに決めた。

 悔しさを滲ませているのがバレないように部屋を出ようとしたとき、私は一本の赤色のエレキギターが壁に吊り下げられてあるのを発見した。というか、床が地獄絵図で、壁に目がいかなかったのだ。


 ――桜さん、ギター持ってるんだ。

 そのギターは数箇所キズや打痕はあるものの、桜さんの所有物の中では群を抜いて綺麗だ。丁寧に扱われているか全く弾かれていないかのどちらか。私は絶対に後者だと思った。

 休憩時間、美雪さんにこう尋ねる。


「桜さんって、ギター弾けるんですか?」


「たまに弾いてるよ、うるさいけど。あと他にもライターを集めたりしてる」


「ライター?」


「ああ、エリカちゃんは使い捨てのヤツを想像してたのね。桜がコツコツ集めてるのはわざわざオイル入れたり、部品の手入れをしなきゃいけない金属性のヤツよ。洋画とかでよく見かけるものを想像するとわかりやすいかもね」


「へえ。桜さんって多趣味なんですね。部屋汚いけど」


「多趣味というより色んなものに手を出して、気に入ったものだけを自分の手もとに置いているって言った方が適切かな。桜にとっては、余計な気負いがないから、楽なんでしょう。まぁ、部屋汚いけど」


 続けてこう言ってくる。


「もっと話聞いてみたいならさ、直接会ってみれば?」


「……今、桜さんはどこにいるんですか?」


「咲校」


「……まだ入学してもないのに、高校に行けと?」


「まぁ、顔ぐらい見せといた方が早く馴染めれるんじゃない?もし行くんならさ、差し入れついでに、これもお願い」


 そう言って小型の出前箱を指さす。


「この店、出前やってるんですか?」


「うん。デリバリー、って程でもないけど。そういうので利用する人もなんだかんだいるの」


「へえ、道理でお客さんがいないんですね」 


 ❀

 

 家からバスに乗り、揺れとエンジン音を聴きながら、約十五分。町の少し外れた所に存在する。北海道立咲友高校。通称 咲校さきこう。校門まで急な坂道を上らないといけないのは面倒だが、それ以外は割とどこにでもあるような見た目の校舎だった。


 ――やっぱり、なんか緊張する。

 学校というのが苦手だ。理由は単純。ただ単につまらない、それだけ。

 でも、スリルのある生活とか、尖っていたいとか、そういうものを求めている訳ではない。

 むしろ、わたしは何事もみんなと共に行動していたいし、誰かと同じであることが幸せだと思っている。

 だけど、大なり小なり、周りのみんなは変わっていく。

 そして、私だけが無機質な校舎に取り残されているように感じてしまう。

 話せる相手はいて。でも、それは表面上の友達として会話しているだけで。

 私は檻の中に閉じ込められいる。ガラスみたいに透けていて、でも絶対に抜け出せることのできない隔たり。

 変化を嫌って得た代償。みっともないな、そう思う。


「エリカちゃん、こっちこっち」


 桜さんはまだ蕾が多い桜並木のうち、八分目辺りまで咲いていた一本に寄りかかっていた。


「桜さんが桜の木の下に立ってる」


「何それ、ジョーク?……フフっ、エリカちゃんって、天然?」


「はい、ジョークです。だからあえて、真顔で平坦な声で言いました」


「……じゃあ、エリカちゃんは天然だ」


「私がここに来ること、知ってたんですか?」


「ああ、美雪から連絡あった。……これの中身、何か分かる?」


「……さあ? 桜さんの好きなものが入ってるとは言ってましたけど」


 好きなもの、なのに。桜さんは残念そうな顔をしている。

 まあ、想像通りだ。


「あー、フルーツサンドかー………まあ良いか、大好物だし」


「……私は、これで失礼し――」


「……待って」


「……はい?」


「……一緒に食べよ?」


 頷くしかできなかった。緊張していて、正直、桜さんが怖いのだ。

 今日の朝の会話も部屋の掃除もそうだけど、なにより雰囲気が怖い。

 今は優しいんだけど、何か失敗したら、急に怒ってきそう。急に胸ぐら掴んだり、怒鳴ってきたり。部屋も散らかりすぎてるから、何か得体のしれない、不安定な恐怖がある。

 ジョークだって。本当は、桜さんを怒らせたくないから、なるべく気持ちを逸らしていたいから、あえてやったけど、多分逆効果だった。


 桜さんの目線から逃げるように、フルーツサンドを見る。断面が上手に切られており、ホイップクリームの中から、色鮮やかなイチゴやオレンジ、キウイフルーツが顔を覗かせている。

 一口食べてみる。おいしい。

 ただ甘いだけじゃなくて、その中に爽やかさもあるような。生クリームだけでなく、ヨーグルトも入っているのだろうか?

 その後には、フルーツのみずみずしい甘みが広がる。

 自分も驚くくらいの速さで、すぐに手元からはなくなっていた。


「さっきの、いいね」


「桜の前で、桜さんが待ってる、ですか?」


「うん……今日の朝、リラと一悶着あったから。もしかしたら、怯えてるんじゃないかって」


「……もうちょっと、仲良くすればいいじゃないですか」


「いや無理」


 あ、話続かないやつだこれ。咄嗟に話題を切り替える。


「……家ではなんて呼べばいいですか?」


「なんでも。お好きなように」


「じゃあ、『桜さん』ですね」


「……私は今から、『エリカ』にしよう。『ちゃん』なんて、嫌でしょ?」


「嫌じゃないですけど。そのほうがいいですね。『お姉ちゃん』よりも、『先生』みたいで」


「ごめんね、エリカ」


「何がですか?」


「いきなりこっちに来て、何も分からないのに。あんなギスギスした痴話喧嘩見せつけて」


 ごめんもう一回言っちゃったね、と小耳を挟む。


「桜さんは、謝れるんですね。謝れる人は、優しい人です」


「そういうあなたが一番優しいよ、ほんとに」


 桜さんがよしよししてくれた。本当は私がよしよししたかったけれど。


「……そういえば桜さん、ギター弾けるんですか?」


「うん。最近忙しくてそんなに弾いてないけど。……あれはさ、お袋から貰った大切なものなんだよ。飽きやすい性格だけど、あれだけは一生持ち続けていたいの。……っていうかもしかして、アタシの部屋、入っちゃった?」


「そうですけど。もうちょっと部屋、綺麗にしてください。私、掃除するの大変だったんですからね」


「あはは、ごめんごめん」


 桜さんは頭を搔く。ボサボサだった髪は結んでいて、多少の身だしなみを整えているためか、朝見た時と印象は違って見える。

 リラよりも、すっとした低めの声色も相まって、やっぱり、教師というよりも頼りがいのある姉という感じだ。


「あっ、こちらこそ、いきなり、ごめんなさい」


「……えっ?」


「……えっと、なんか、ごめんなさい」


「エリカ。今、なんで、あたしに謝ったの?」


「なんか、言いすぎたかなって。だから、謝ったほうがいいかなって。それに、先生に命令口調でしたし」


「今の、別に、ごめんなさいしなくてもよかったよ」


「あっ、すいません」


「今も」


「……なんか、すぐに謝ってしまうというか……私、第一声が『すいません』とか『ごめんなさい』なんです。そういう癖?みたいなのがあって」


「……ふーん」


「……ところで、話変えますけど、ライターも集めてるんですよね?」


「ああ。ジッポーのオイルライターってのは奥が深くて。見た目から開閉音まで全てがロマンに満ち溢れていてね。耐久性もある。第二次世界大戦中、アメリカ軍の兵士がドイツ軍から狙撃された時、胸ポケットに入れていたライターが銃弾をという有名なエピソードがあるくらいね。しかも、そのライターは少し凹んだだけで、オイルを入れれば普通に火がつくらしい。これを聞いたときから、胸ポケットの中にいつもこれを入れてる」


 まるで少年のようにキラキラと目を輝かせて話している。でも、長い話ではあるのに何故か不快感がない。特別ライターに興味があるわけでもないのに。


「1933年に生産された初のオリジナルモデルは、海外のオークションで四百万円くらいで取引されたらしい。コレクターって馬鹿だよね。たった一個のライターごときにこんな大金を払ってるんだよ」


 続けて言う。


「……でもさ、すごく憧れるんだよね。そんな馬鹿なところ。あたしなんて、酒とタバコに金突っ込んで、三ヶ月に一回、それも三千円とか四千円くらいの安物しか買えないんだ」


「……じゃあお酒とタバコ、やめればどうですか?」


「……いや、やっぱやめられない」


 そう言ってコバルトブルーのパッケージをしたケースから一本のタバコを取り出そうとする。


「ダメです。そんなことしたら、教師失格です」


「お願い! 一本だけ」


「怒られないんですか?」


「……逆に言うと、怒られるだけだよ。ちょっと叱られれば、済む話なんだよ」


 教師って、こんなのでいいのだろうか?

 桜さんは、反面教師だ。

 気づいたときには、すでにタバコの先端には白い煙が立っていた。


「ところで桜さん。大学って、楽しいんですか?」


「うん。北大は、バカ広いけど、まあまあ楽しかった」


「北大出身って、相当頭いいじゃないですか。すごいです。私、運動も勉強もそんなにできないのに。ましてみんなに自慢できることもありません」


「いや、あたしの中身なんてスッカラカンだよ。学校で学ぶ知識なんて、アタシにはほとんど役立たなかった。大学なんて無意味なとこ、行かなきゃよかったって、今でも思ってる」


 思わず笑ってしまう。


「フフ、教師が言うことじゃないですよ、そんなこと」

 

「あたしね、数学が大嫌いなんだ。まず、面倒くさい。好きでもないのに式とかグラフなんてものをいくつも展開しなきゃいけない。ストレスがたまる」


 一息ついてもう一度話す。


「そして何より答えが一つしかないこと。まあ、これは他の科目にも言えるんだが、数学が特に顕著に出てるじゃん。これが本当に大嫌いだった。答えを導く過程で少しでもズレたらその先もズレてしまう。その間違いに自ら気づいて修正するまで、正しい答えに辿り着けない。一回つまづいてそのまま進んでいくと、永遠にマルだと認めてもらえずに、バツだけがつく。全てを完璧にこなければ評価されない。――そんな理不尽な世界、あり得ないと思うの」 


「……分かります、その気持ち。今まで頑張って積み重ねた努力がすべて否定される感じ、嫌ですよね」


 実を言うと、数学が嫌いなだけだ。


「うん、でもこんなに数学が大嫌いだったのに、何故か数学が得意だったの。いつの間にか高校で番数一番になってて。ふと気が付つくと世間でかしこいと呼ばれてる大学に入ってた。そして、気が付いたら数学の教師やってる」


 少し間を開けて話す。


「学業だけじゃない。酒やタバコだって、昔は絶対にしたくないって思ってた。あんなの喜んで嗜んでる大人達が大嫌いだった。でも、年を重ねていくうちに意識してなくとも自分もそれらに手を出していて、今はもうやめられなくなっている」 


 桜さんは続けた。


「人ってさ、そういうもんなんよ。嫌なものに一生付き纏わされたり、もっと言うと過去に拒んでたものが今では離れられなくなってたり。完全な理想通りの人生を送れる人なんて存在しない。必ずどこかで道を踏み外すように作られているんだよ」


 しばらく二人で空を見上げる。綿あめのような雲と、透き通っている優しげな水色の空が広がっていた。


「以上。だらしない大人からの為にならないお話」


 言葉では表しづらいが、幾分気持ちが楽になったかもしれない。ほっとする。躊躇うことはあっても、怯える必要は無くなった。


「……そろそろ戻ります。バスの時間、もうすぐなので」


「うん、気をつけて」


 その数秒後に、桜さんに呼び止められた。


「……エリカ、クリームついてる」


 そう言って、桜さんは私の口元に少しだけ付いた白いクリームを左の人差し指でとって、そのまま舌先で指を舐めた。チュッ、という音が妙に心を不安定にさせた。


「甘くて、おいし」


「エッチ。桜さん、先生なのに」


「フフっ」


「反面教師ですね、ほんとに」


「そう言われると、励みになるよ」


「全くもう」


「……あっ、そうそう。一つだけ、言い忘れたことがあるの」


「何ですか?」


「アタシのこと、学校では『先生』、ね」


「……分かりました、桜先生」


 空気は冷たいのに、空は青い。

 雪が残っているのに、桜は咲く。

 思いはクリームに包まれたフルーツみたいに。煌びやかな絵空事の中に、飾れない本音がある。

 桜さんがニコッとした笑みを浮かべると、その瞬間、強い風が吹き、桜の花びらがヒラヒラと舞い散った。


 その桜は、赤の混じった濃いピンク色。

 東京で見た桜とは、どこか違っている。


「エリカ、鼻に花びらが付いてるよ」


「……ダジャレですか?」


「……いや、受けを狙った訳ではないんだけど」


 そう言って、桜さんは私の鼻についた、花びらにそっと触れる。


「……先生の手は、あったかいです」


「……そうかな?」


「ありがとうございます。桜先生」


「どういたしまして」


「……そういえば、私にも言い忘れていたことがあります」


「何?」


 特に何も考えずに、その場しのぎの会話をする。

 嬉しくも悲しくも、特に何か始まるわけでもない。だけどその会話が、私にとっての救いになる。

 何を言おうか。どうやって言おうか。結局、何を伝えたかったのか。

 なんて全部、分からないのだ。

 私はなんとなく、桜先生の左手に触れる。


「……ビールジョッキにタバコの吸殻、入れないでください。なんか、可哀想です」


 ❀


 HSP。

 ハイリー・センシティブ・パーソン。

 ガラスよりも傷のつきやすい、人のもつ弱さ、脆さ、崩れやすさ。

 そんなものを、たったアルファベット三文字で表してしまう、恐ろしいもの。



「……ビールジョッキ、なんか、可哀想です」


 だけど、その瞬間、あたしは知った。

 それは、その少女は――

 小牧エリカという、繊細で、内気な少女は。綺麗で、とても優しい、ただ今を生きている、十六歳の女子校生だ。


「……フフッ、分かった。考えとくよ」


 自分を「陰」だと揶揄する少女。

 あたしは、そんな彼女の影に踏み入れて、その影を、ただ受け止めていたかった。

 だけどいざ目にしてみると、それは、嘘のない、ただ純白で、眩しい。春の陽光のように優しい光だった。


「――あなたは、どうしようもなく、綺麗だよ」


 桜。毎年咲く、ピンクの新しい花。

 水色のドーナツ。その上に真っ白のマシュマロ。最後に桜色のジャムを塗りたくる。そんな風に、春は当たり前に甘くて、少しだけ温かい。そして、二つが混じりあって、不思議と爽やかだ。

 新しい出会いと、新しい景色。

 あたしは、曖昧な感情だけを頼りに、思った通りにならない日々を過ごしている。

 だけど、エリカにだけは、曖昧を残したまま、思い通りでいてほしい。

 それが。それだけが。彼女に対しての願い。大袈裟だけど、その曖昧な願いが積み重なって、あたしは、生かされている。


 そんな願いも、消えてしまう前に、いつか、言えたらいい。


 口に出せない願いを、心の中で念を押して願うみたいに。あたしたちはもう一度、それぞれの道へと進んでいった。


 ❀


 翌日、桜さんの部屋を覗いてみた。

 部屋が完全に綺麗になった、とまでは言えない。でも、半ゴミ屋敷だった室内はそれなりに片付けられており、ビールジョッキは丁寧に洗われ、溜められていた吸殻は捨てられている。その中には鉛筆三本、ボールペンと蛍光ペンがそれぞれ二個ずつ入っていた。

 ――ペン立てって……まあ、らしいといえばらしい。


 酒、タバコ、部屋を散らかし、ビールジョッキはペン立てにする。桜さんは、反面教師だ。

 年月が経つと、人は角張った現実に埋もれていく。先生は、そんな現実への埋もれ方を、私たちに正しく教えなきゃいけない。

 だけど桜さんは、ほんの少し尖った、歪な形の理想や、すっかり丸くなって、輝きのない夢を心に留めている。

 不完全を追い求めて、それに日々葛藤している、どうしようもない反面教師だ。


 ビールもタバコも。鈍く尖った思いも。

 駄目なんだけど。

 意味なんてないんだけど。

 肯定されてはいけないんだけど。

 それでも、愛おしくて、守りたくなる。


 そう思ったとき、私はほんの少しだけ笑みを浮かべることができるようになった。


 



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る