第34話 志乃、志乃

 父と異母妹が家にやって来てから三日が過ぎた。


「旦那様」

 廊下に膝を着き、扉越しに呼びかける。


志乃しのか? ああ、今……」


 部屋の中で書類や文具を片付けている音がして、志乃は慌てた。

 扉を開け、中に入る。


「いえ、お休みの挨拶に伺っただけです」


「そう、なのか……。すまん。今日は忙しくて……」

 椅子から立ち上がった慶一郎けいいちろうは、眉を下げた。


 ふたりで朝を迎えた日から。

 毎晩、志乃は慶一郎の部屋で過ごし、それから千代の隣にある自室に戻る。


『ここで休めば良いだろう』


 閨の中で、慶一郎はそう言うが、千代になにかあったとき、一番に対応できる場所にいたい。

 そう告げると、慶一郎はもう何も言わなかった。


「……あの、郁代いくよ様が、この屋敷にいらっしゃる日のことですが……」

 意を決し、志乃は口を開く。ぎゅ、と強く拳を握った。


「郁代が来る日……? ああ。そうだな。連絡して、さっさと片付けよう」

 慶一郎は深く椅子にもたれる。ぎしり、と音がした。


「どうせ、数時間ももたぬ。あっという間に怯えて帰るだろうが……。志乃はアメリアの家にいればいい。調整しておく」


「はい」

「どうした」


「あの……。郁代様が、もし、帰らなければ?」


「帰らない?」


 鳶色の瞳が訝しげに細まる。

 不機嫌なわけではないと、志乃はもう知っているが、それでも心臓が、きゅ、と痛んだ。


「もし、この家に、嫁としているのなら……」


 自分は、どうしたらいいのだろう、という言葉は辛うじて飲み込んだ。

 それは、志乃自身が考えねばならないことだからだ。


「そんなことはあり得ない」

 慶一郎が乾いた笑い声を漏らす。


「瀧川の人間以外が、この屋敷で無事なはずはない」


「でも、無事だったら」

 しつこく食い下がる志乃に、慶一郎が口を閉じた。


 なんらかの事態により、もし、彼女が無事だったら……。


「……どうした」


 また、問われる。


 どうしたらいいのか。


 志乃は、この数日ずっと考えていた。

 母が亡くなり、雪宮の家に引き取られた。


 そこから、瀧川の家に来たのだが……。


 ここから先は、ない。

 ここからは、ひとりでやっていかなくてはいけないのだ。


「志乃」


 気づけば慶一郎がすぐ近くにいて、腕を伸ばしてきた。

 するり、と彼の腕に囲われる。


「志乃」


 耳元で名前を呼ばれ、顔を上げる。ふ、と呼気が唇を撫で、すぐに重なる。


 もう、綾子あやこの脅威はないというのに。


 慶一郎は、志乃に口づける。

 夜ごと、身体を求める。


 志乃、志乃と狂おし気に名前を呼び、愛し気に自分の髪を撫で、指で触れ、すべてを求める。


『もう、必要ないですよ。私は、綾子様と仲良くなりましたから』


 そう言わなければならないのに、志乃はぐずぐずと、それを口にしない。

 口にしなければ。

 この生活が続くのだ、と信じていた。


「何も心配することはない」

 抱きしめられ、慶一郎はそう囁くが。


「……お部屋に、戻ります。失礼しました」


 志乃は慶一郎の胸をそっと押し、彼から離れる。

 部屋を去り際、もう一度名前を呼ばれた気がしたが、志乃は聞こえなかったふりで、自室に戻った。


 布団に潜り込み、掛け布団を鼻まで引っ張り上げる。


 ぽろり、と知らずに涙が流れた。

 自分の居場所は自分で決めなければ。


 もし、ここではない、と告げられたら。

 郁代が自分の代わりにここにいるのなら。


 自分で、自分の居るべき場所を探さねば。


「志乃」


 平坦な声に、闇に目を凝らす。

 綾子がいた。


「どうした。なぜ、泣いている」


「どうもしません」

「さみしいのか」


「いいえ。綾子様がいらっしゃるから、さみしくありません」

 無理に笑い顔を作ると、綾子が布団の側に、ぽすりと座った。


「一緒に眠りましょうか。なんだか私は今日、そういう気分です」


 寝転んだまま、掛け布団を少し上げると、素直に綾子が入ってきた。

 ごろん、とふたりで、向かい合ったまま横になる。


「志乃。よしよし」

 小さな手で頭を撫でられ、胸が潰れそうだ。


 この女の子こそ、さみしかったろうに、と。


 まだ、十二歳。

 親を殺され、その殺した相手に引き渡され、純潔を奪われ。


 あまつさえ、目隠しをして閉じ込められた。


 死して、なお。

 ここから、出られない。


「きっと、志乃もご両親に会いたいのだな」

 目隠しをしているから、顔の上半分はわからない。だが、桃色の唇が、苦しげに歪んだ。


「綾子もだ」


「そうですね……。そうですよね」

 志乃は綾子の頭を撫でてやる。


「私も、母に会いたい」


 母に会って、いろんなことを相談してみたい。


 好きなひとができた。

 素敵な家族に出会えた。

 みんなで、家族になりたい。


 これは、わがままなのだろうか、と。


 志乃は綾子の隣で目を閉じ、次第に緩やかな眠りに引き込まれていった。

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