旦那様の口づけには、秘密がある

武州青嵐(さくら青嵐)

第1話 受け取りが必要か

これは、文明開化を謳ったあの時より、三十数年が過ぎたころの、お話。


◇◇◇◇


 志乃しのが初めて見る結婚相手は、父親が言う通り、気難しそうだった。


 薄い唇を真一文字に引き結び、腕組をしたまま、志乃を値踏みしている。眼鏡の向こうの瞳が随分と鋭い。


 唇もそうだが、細い眉もずいぶんと酷薄な印象を与えた。あまり動かない表情や、一重の切れ長の瞳も、鋭利な光を宿したままだ。


 瀧川慶一郎たきがわけいいちろう。年は二十五と聞いた。


 志乃より五つ上ということで、当初は親近感がわいたものの、洋装の、そして女の志乃の目から見ても美麗な青年に出会ってみれば、そんな思いは霧散した。


 自分と彼とは、容姿的にも家柄的にも、不釣り合いだ、と。


(お人形のように美しい方だけど)

 無礼にならぬよう、そっと志乃は視線を逸らせ、内心でため息をついた。


(これは、重々注意をしないと、すぐにお暇を告げられそう)


 父親の仕事仲間からも、『とにかく難しいお方らしい』と聞いている。

 機嫌をそこない、離縁されては一大事だ。志乃には帰る家がない。


(穏便に過ごさなくては……)


 父親と慶一郎とは、仕事で接点があった。

 彼は、貿易業を行っているらしい。

 外国語に堪能で、官吏も舌を巻くほど頭が切れる。

 当世、没落し過去の栄光にすがる者が多いというのに、瀧川家の家名は揺るがない。

 だが、情が薄い。

 社交の場には滅多に顔を見せず、取引先とも必要最低限の付き合いしかしない。

 年ごろになり、結婚を世話する者もあらわれたが、本人が断るより先に、相手の娘が、「あの家は嫌です」と突き返すことの方が多かった。


 また、瀧川家では使用人が続かない。

 それも有名だった。


 彼の性格に難がある。あるいは、ひどい吝嗇家なのだろう。


 そんな噂が立ち、いつしか、誰も結婚を世話しなくなった。

 そんな彼が、昨年末になり、急に嫁を探し出したのだ。


『いますぐ、嫁に来てくれるなら、誰でもいい』


 彼の言葉は風に乗ってすぐに上流階級に広まったが、「祝言なし」「家に女中なし」「盲目の祖母同居」「本人は仕事の関係で家を空けること多し」となると、どの家も二の足を踏んだ。


 だが、雪宮家は違った。


『志乃、嫁に行け。指示は追って伝える。決して離縁されるな』

 父親に告げられたのは、昨日だ。


『はい、わかりました。お世話になりました』

 畳に手をついて、志乃は返事をした。もとより、『否』はない。


 志乃は妾腹の子だ。

 将来、雪宮の家業に有利になる婚姻をするために、引き取られた子だった。


 こま


 異母弟妹や使用人からは、名前で呼ばれず、そうさげすまれた。

 志乃自身、喰うに困らず、住むところに悩まず暮らせているのは、雪宮に引き取られたからだ、と自覚していた。


「雪宮志乃です。どうぞよろしくお願いいたします」

 志乃は慎ましく頭を下げて見せる。


「瀧川慶一郎だ」


 頭の上を、声が流れていく。

 抑揚のない声に、志乃はゆっくりと顔を上げながら、目をぱちぱちさせる。


(お顔と同じで、声の表情もないのねぇ)


 志乃の視線を感じ取ったのか、眼鏡の向こうで、不機嫌そうに眼を細められた。きれいな鳶色に見入っていたが、無礼だと気づき、慌ててうつむく。


「あんた、荷物は」

 慶一郎に問われ、志乃は半歩後ろで控えている女中に手を伸ばした。


「ここに。……ありがとう」

 志乃は女中から風呂敷包みを受け取ると、礼を告げた。


「はあ」

 女中は居心地悪そうに、もぞりと後ずさった。志乃もよく知る古株だ。彼女も、志乃のことを妾腹の子、と陰でそしっていた。


「それだけか」

 慶一郎が尋ねるから、志乃は頷いて風呂敷包みを胸に抱いた。


「必要なものは全部持ってきました」

「そうか」


 返事は短く、冷たかった。

 結納もなにもないので、志乃が雪宮家から持ち出せたのは、数枚の着物と羽織だけだ。


「あのぉ」

 急に声を上げたのは、雪宮家の女中だ。


「私はもう、失礼しても……?」


 こわごわとそう問う。

 冷淡な慶一郎が恐ろしいのか、完全に委縮してしまっている。


「そうね。ありがとう。道中、気を付けて」

 慌てた志乃の語尾は、慶一郎の言葉にかぶさる。


「待て」

 言うなり、慶一郎は上がりかまちから、たたきに降りた。


「あんたも、このお嬢さんを、無事に婚家に届けた、とか、婿が受け取った、という報告がいるだろう」


 ぎょっとしている女中に、慶一郎が言う。

 怯える女中とは違い、志乃は彼の背の高さに圧倒された。


(随分と、大きな方……)


 見上げた顎に、慶一郎の指がかかる。


(ん?)


 きょとんと彼と見つめ合った次の瞬間には、

 彼の唇と自分の唇は重なっていた。


(……ひ……っ)


 指先まで硬直して立ち尽くす志乃とは裏腹に、慶一郎はというと、志乃の下唇を緩く噛む。


 おもわず、どん、と両手で彼の胸を突いた。


 離れる瞬間。彼が漏らした呼気は志乃の唇を淡くなぞって、喉に流れ込んだ。ごくり、と彼の呼気ごと、志乃は悲鳴を飲み込む。


「確かに受け取った。わたしも満足している、としゅうと殿に伝えてくれ」

 どさり、とたたきに荷物を落とした頃、ようやく慶一郎はそう言った。


「は、はい」

 女中が上ずった声で返事をする。咄嗟に見やると、顔を上気した彼女が目に入った。


(……これは……。とんでもないことを言われるに違いない……)


 異母弟妹や父の耳に入ったら、どうなるのか。


 破廉恥はれんちな婿に嫁いだ。

 顔はいいが、とんでもない男だった。


 喜色満面でそう言うに違いない。


 血の気が失せる志乃に、ろくすっぽ挨拶もせず、女中はどこか嬉し気に玄関扉を出て行った。


「来い」

 慶一郎の声に、はた、と我に返る。


 気づくと彼は志乃に背を向け、上がり框に足をかけていた。


 ついて来い、ということなのだろう。

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