第15話
※
この浴場の湯は、近くにある山から湧き出た水を沸かしたものだそうだ。
極めて清潔なので、衣服を洗うのにちょうどいい。
俺とキリアは、並んで今日まで使っていた衣服やアーマーの類を水に浸し、売店で購入した石鹸でごしごし洗っている。
では、今着ている服はどうしたのか。これは、旅人用に浴場施設から借りられるものである。東洋の文化に多少造詣のあった俺は、これが『ユカタ』と呼ばれる軽装なのだと知っていた。休憩所が『タタミ』という床面でできていることも。
そこまではいい。問題は、先ほど俺が、キリアの裸体を目にしてしまったこと。そして、俺と彼女の仲が険悪になってしまったことだ。
「まさかキリア、お前が女だったとはな……」
沈黙を破るべく、声をかけてみる。反応なし。いや、アーマーを磨く手つきが荒っぽくなったか。
「どうして変装してたんだ? 俺は本気でお前を男だと思ってたんだぞ? 一人称が『僕』だし」
すると、やっとこさキリアは口を開いた。
「僕が女であるとバレたら、敵に見くびられる。敵が本気を出してくれなくなるかもしれないじゃん。それじゃあ修行にならないよ」
今度は俺が黙してしまった。そうですかそうですか。本当に揺るがねぇな、コイツ……。
「でもまさか、マスターの前で裸になっちゃうとはね……。僕も修行不足だ」
いやいや、それはいわゆるラッキースケベというやつではないのか。でも、誰もラッキーにはなっていないな。女子とはいえ、俺は子供の裸は見慣れている。娘が生きていてくれた、僅かな期間の話だが。
「マスター、何変な顔してるんだよ。あ! の、覗こうったって、そうはいかないからね!」
ユカタの襟元をかき合わせるキリア。その時、ぽつりと俺は呟いてしまった。
「楽しいな。俺の娘が生きてりゃ、毛嫌いされてもそれはそれで楽しいことだったのかもしれねぇ」
はっと息を飲む気配。キリアが片手を口に遣っている。
「……ごめん、マスター。何か思い出させちゃったみたいで」
「ん? あ、ああ。悪い。俺も口に出しちまった。つい、な」
キリアは再び赤面した。しかし、それは羞恥心からではないだろう。
その後、俺たちは言葉もなく洗濯を続行した。キリアのちょっとした魔術で服を乾す。それから俺たちは浴場を発った。
※
やや早めの昼食を摂った俺たちは、建物がぽつぽつとあるだけの道を進んだ。先ほどの喧騒に満ちた街と異なり、随分と静かである。
「で、本当なのか? 今日中にお前の先生の下に到着できるってのは?」
「うん。ここからなら僕も一人で行けるし。あ、でも!」
先導するキリアは、慌てて振り返った。
「マスターを置いてったりしないからね? ちゃんと支払えるだけの額の賞金を稼がないと」
俺はふん、と鼻を鳴らした。金が不要なことは、いつだか話した通りなのだが。
それでもキリアは、俺との縁を切ろうとしないし、俺も同行するのを止めようとは思わない。つまり俺たちは、互いに旅の仲間が欲しているようだ。
これは何も、恥ずかしいことではない。人間、一人でいるってのもなかなか堪えるからな。命を懸けて戦ってる連中は特に。
『お前が律儀なのは分かってるよ』――そんな俺の言葉だけで安心したのか、キリアはまた前に向き直った。
今俺たちが歩いているのは、やや傾斜のある山林だった。
またジャングルか、と俺は辟易しかけたが、実情は俺の予想を裏切ってくれた。
怪物や吸血鬼の出る気配が全くない。代わりに、心洗われるような清浄な空気が、木々の間や下草の絨毯から放出されている。
木々の密生具合もちょうどよく、涼しい。なんとも居心地のよい場所だ。
俺は少しばかり左足を使うのに難儀しながら、段差や倒木を乗り越えていく。
すると唐突に、視界が開けた。
「ここが山頂。先生のいるところだよ」
ついにご対面、というわけか。
しかし、俺が段差を踏み越えた時、目に飛び込んできたのは湖だった。
「はあ……?」
決して派手ではない。だが、いやそれゆえに、静かな強さ、温もりを感じさせる湖だ。
ほぼ円形をしており、直径はざっと五百メートルといったところか。
「こんな場所があるとはな」
俺がぽかんとしてそう言うと、今度はキリアが鼻を鳴らした。
キリアはさっと屈みこみ、片膝と両の拳を着いた。俺も、見様見真似で同じ姿勢を取る。
「キリア・ルイ、只今戻りました」
静かに、しかしはっきりと口にするキリア。すると、この前と同じ感覚が脳裏をよぎった。
(おかえりなさい、キリア。歓迎致します、ドン・ゴルン殿)
突然自分の名前が出てきて、どきりとした。
知らないうちに自分の名前が知られている、というのは、決して気分のいいものではない。だが、脳内に走る清浄な感覚――まるでこの山林を吹き渡る風のようだ――は、俺を安心させるのに十分だった。
この場に敵意は存在しない、ということが、心底実感させられたのだ。
(二人共、顔を上げてください)
俺は素直に指示に従った。キリアも顔を上げている。正直、ほっとした。
だが、そんな些細な心の機微は、あっという間に吹っ飛んだ。
「な、何だ、ありゃあ……?」
視線の先、湖の中央に、渦巻きが起こっていた。そこだけ水がなくなり、人間が浮き上がってきたようだ。
その姿は、脳内に響く声から想像されたものとほぼ同じだった。
妙齢の女性。顔の造形は凛としており、薄く見開かれた瞳の向こうから、穏やかな光が差している。
身長は俺より高い。随分と痩せていたが、逆にそれがしっかりとした心の芯の存在を感じさせた。
水色のローブを纏い、いかにも魔術師といった風情。だが、俺は気づいていた。身体に無駄な筋肉がついていない。『無駄』というのは、『戦闘を行う際に』という意味だ。
じろじろ無遠慮に眺めてしまった。しかし、最も俺を驚かせたのは、彼女がすっと足を差し出した時のことだ。
湖面に足の裏を着き、そこから円形に小波を立てながら、真っ直ぐこちらに歩いてくる。
履いているのは、上品な紺色の薄い靴下のようなもの。歩き方は実に颯爽としていて、迷いも懸念もないようだ。
ある程度近づいたところで、女性――十中八九、彼女が『先生』なのだろう――は口を開いた。
「どうぞ楽になさってください、お二人共」
「はッ!」
すっと立ち上がるキリア。『楽にする』といっても、これでは俺も直立不動で立ち上がるしかないではないか。
「よく戻りましたね、キリア。今回もまた、随分多くの『シャドウ』を駆逐した様子」
「はッ」
「ドン・ゴルン殿、キリアへのご助力、感謝致します」
「あっ、い、いえ!」
俺は慌ててかぶりを振った。先生が腰を折り、優雅な、かつ誠実なお辞儀をしたからだ。
「俺……じゃない、私はただ、その……賞金が目当てで」
つい口走ってしまった。しかし先生は穏やかな笑みを浮かべ、こう言った。
「それだけが理由ではないのでしょう?」
「ええ、まあ……」
もしかしたら彼女は、俺がキリアを自分の娘と重ね合わせて見ていることに気づいているのかもしれない。
「申し遅れました。わたくしはラーヌス・フェルディッソ。ご覧の通り、魔術師です。今日でちょうど、三百七十一歳になります」
俺はおおっ、と軽く声を上げてしまった。流石は生粋の魔術師、といったところか。
「キリア、今晩の準備を致しましょう。これを」
ラーヌスが手を差し出し、掌を下に向ける。すると、真っ白な光がそこから降り注ぎ、弓と矢が数本出てきた。それらはゆっくりと降下し、そっと接地する。
キリアはそれを拾い上げ、大きく頷いてから踵を返し、森の中に駆け込んでいった。
「狩りに行ったのか。元気だな」
その背中を見送りながら呟くと、唐突に声をかけられた。
「さて、ドン・ゴルン殿」
「は、はいっ!」
反射的に背筋を伸ばす。出会って間もないため、緊張や警戒の気持ちがあるのは否めない。だがそれ以前に、相対した者を適度に安心させるオーラのようなものが、ラーヌスからは発せられている。
自分の言葉をきちんと相手の心へ届けよう。そんな純粋さがあるのだ。
「な、何でしょう、先生?」
「ふふっ、わたくしのことは気軽に『ラーヌス』とお呼びください。それより、本題ですが」
糸のようなラーヌスの目が、一層細められた。
「あなたは『シャドウ』が一体何なのか、ご存知ですか?」
「しょ、正体、ですか」
俺は顎に手を遣った。『シャドウ』については、あまりにも情報が少なく、逆に噂話は絶えない。正確な情報を引き出すのは困難だ。
一人でうんうん唸っていると、ラーヌスは再び口を開いた。
「あなたには、どうかご理解いただきたいと思います。『シャドウ』の正体と、そこに秘められた悲しみを」
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