第20話 赤色狼の腹の中

 

 視界に広がる光景は、悪い予想が現実になったのが良くわかる。

 黙りこくる生徒、嘲笑う生徒、固まる赤穂。その異様な状況の中で、私は…


 冷静にその場の様子を眺めている。だが何も感じてないわけじゃない、寧ろ今までに無いほどに怒りを抱えているが、しかし頭の中は何処までも冷たく静かだ。これまでも様々な出来事で激情を覚えたし、つい昨日にも赤穂に対して怒っていたのだから。でもそれらの原因の殆どがすれ違いや幼稚さが理由であり、目の前で起こっている事とは大きく異なる。


 今私の目に映るこれは、明らかに悪意のある行為だ。相手を傷つけると知りながらもその刃を振りかざし、今も傷つく様を眺めて笑っている。確かに赤穂も私のことを悪く言ってたし、挙句の果てには大切な人のことまで馬鹿にした。でもそこには愉悦や悪意は見られなかったし、彼女自身辛そうな色を滲ませていた。

 こんな風に遊び感覚でやってなどいない、そもそも私達はお互いに挑発し合ってたのも事実なのだから。でもあいつ等は違う。後から意思もなく乗っかってきて陰口を叩いたくせに、今度は赤穂に矛先を向けて笑っている。


 きっと軽く考えているのだろう。寧ろ悪人を懲らしめる善人感覚なのかもしれない。全てを赤穂に被せて自分達はのうのうと過ごすつもりなのだ。だから空気も読めずに笑ってるのだ。


 これは許す許せないとか、怒る怒らないなんて段階を越えて、道徳に反している行いだ。

 こんな事は、今日ここで終わらせなければいけない。


「……なんですかコレ?」


 私の言葉が静寂の中に響き、生徒達は気まずげに目を逸らしたまま。赤穂も反応を示さずに固まり続けているから、何も話してはくれない。

 そうやって見回して居ると返事が聞こえ、それは笑っていた生徒達の方からだった。


「みんな知らないんだよ、朝来たらこうなってたから。でも良かったじゃん。白清水さん赤穂に虐められてたんだし、悪者が懲らしめられて嬉しいでしょ」


 悪びれもせずによく言う。場の空気やみんなの表情を見ればこいつ等が犯人なのは明白だ、なのにさも私の為ですみたいに言えるとは神経が相当図太いらしい。


「それを言うならあなた達もでは?私の悪口を楽しそうに言ってたのに、まるで気にしてないみたいですけど」


「なにそれ、私達が悪いって言いたい訳?そもそも始めたのは赤穂が原因だし、こうやって罰が当たったんだしもう良いじゃん。白清水さんだって皆を遠ざけてたくせに、いきなり善人気取りとか今更じゃない?」


「何も知らないくせに適当なこと言わないで下さい」


 彼女の周りの生徒も口々に同じことを言い出す。私達は悪くない、赤穂が悪い、私も生意気なのが悪い、何もしない皆も悪い、つまりは自分達は悪くないと言い続けている。とんでもなく無責任な馬鹿女の集まりだ。

 こいつ等には優しく言っても効果が無さそうに見えるから、私は勢い良く机を叩いて口を閉じさせる事にする。ごめんねそこのクラスメイトさん、後でちゃんと謝るから。


「お静かにっ!!!」


「「ひっ…!」」


 バァンッ!という音を大声と共に響かせれば、怯えたようにぴたりと声が止まる。案の定机の生徒は涙目になってるし。固まっていた赤穂まで驚いて此方を伺っている。

 先ずはいじめっ子を黙らせるため、私の恐怖の象徴たるメイド長を思い浮かべる。手を出すのはいけない事、騒ぎ立てるのは子供の癇癪、ならば出来るのは言葉で分からせる白清水家メイド式のやり方だ。


「そもそも、今回私と赤穂のいざこざの理由は個人的な話なんですから、関係ない貴方達が割り込んでくるのがおかしい事ですよね。確かに赤穂が陰口始めたんでしょうけど、それを面白がって言い触らしたのは自分自身、つまりは貴方達が選択して行った悪事です。誰に唆されようがやった事はやった事、いくら正当化しようとしても貴方達も立派ないじめっ子です。

 

 この喧嘩は私と赤穂の二人で始めた事ですから、そのターゲットが移る可能性なんて皆無です。自分が被害を被るといった言い訳は通用しないことはよく分かっているでしょう。

 

 というか私の悪口を楽しそうに言ってたくせに、あんな稚拙な言い訳で私が納得すると本気で思ったんですか?そうならお笑いです、私もクラスの皆も信じるわけ無いでしょう。子供でももっとマシな誤魔化し方が出来ますよ。

 

 いいですか、貴方達が悪いとか赤穂が悪いとか言ってるのではありません。悪い事を悪いと認識せずにおふざけ半分で人を傷つけるその根性が気に入らないと言ってるんです。赤穂と一緒になって悪口を言った時少しでも相手の気持ちを考えましたか?

 そんな事をしてれば自分がどう思われるか想像しましたか?結果はどうです、いらない騒ぎを起こして皆からは白い目で見られて、それで本当に自分は間違ってないと言えますか?胸を張って表を歩けますか?


 過去は変えられないのですから、貴方達が犯した罪は消えません。ですが開き直らずに次への糧にしてより良い自分には変われるはずです。私の話を聞いて少しでも罪悪感を感じたなら、今度からは深く考えて行動してみてください。自分を生かすも腐らせるも、結局は貴方達次第なんですから。


 理解できましたか?納得はできましたか?どうして何も言わないのですか?


 わかったら返事っ!!!」


「「「はいっ!わかりましたっ!!!」」」


 跳ね上がるように姿勢をただし、返事をする彼女達。

 メイド長をインストールした私の迫力に、何故だか関係ない生徒も返事をしている。流石お屋敷で一番恐れられている事はある、現に睡ちゃんまでも引き気味で此方を見ているのだから。

 だが、これで彼女達は手を出してくることは無くなるだろうし、実際ニヤついた表情は影を潜めて此方を伺うように静かになった。入室当初とは種類の違う静けさが教室を包む中、私はもっとも重要な人物に視線を向ける。


 長々とした私の言葉にも余り反応を示さず、静かに佇んでいる赤穂。状況を見るに黒板の様子に固まるばかりで、登校してから一言も喋らずにいたのだろう。いつもの赤穂ならこんな扱いをされれば食って掛かる筈だし、馬鹿にされ笑われるのを黙って堪えるようには考えられない。

 昨日の対応を踏まえれば、今の彼女は精神的に弱っているのかかもしれない。自分が悪者にされた事が原因か、他の要因かはわからないが明らかに応えている。


 ともかく声を掛けなければいけない。最悪の状況なのは確かだが、逆に考えれば赤穂としっかり話す夏休み前最後のチャンスだとも言える。きっと拒絶されるだろうが、勇気をだしてぶつかると決めて声を掛ける。


「赤穂、大丈夫ですか?」


「………」


 やはり反応は無い、と言うよりも意図的に無視をしている。声を掛けられる瞬間に肩が揺れたし、僅かに顔を背けるのも見えた。こうして孤立しかけても頑なに拒絶するのは、一体どんな事情があると言うのか。

 しかしここで引けば彼女は本格的に一人になる。それを容認すれば、私達の関係は確実に交わらなくなるだろう。それは嫌だ、私は赤穂のことも気に入っているのだから。


「黙ってないで、何か言ってください。今までの事を気にするのも、こんな事になってショックなのも分かります。でも結果を招いたのは赤穂にも原因はあるし、大本は私との確執です。だから話してください、どうして私を避けるのかを…」


「……ホントにうざいよね、鏡花って」




 こいつ、ここに来てもまだ言うか…?

 正面も見ず目も合わせず、そっぽを向きながら悪態をつく赤穂の姿に流石に我慢の限界だ。あの彼女達ですら今は反省した顔でいるのに、赤穂は殻に篭もって不貞腐れたまま。クラスの雰囲気が壊れかけたのに、我関せずを貫くつもりだ。


 決めた、絶対に口を割らせる。赤穂の右手を強引に掴んで、教室の出口へと引きずっていく。


「ちょ、痛いって!何のつもり!?」


「屋上っ!今日と言う今日はもう我慢できません、納得いくまで返しませんからっ!睡ちゃん、そういうことなので誤魔化しよろしくですっ!」


 ぴーぴー騒ぐ赤穂はもう気にしない。私は屋上へと辿り着くまで、この手を離すことは絶対にしないと心に決めて歩みを進める。

 赤穂は気が付いているだろうか、その足もだんだんと軽くなっている事に。



 △


 抵抗する赤穂を無視して毅然とした態度で進んでいく姿に周りは口を噤み、終にはピシャリと扉を閉めて教室から出て行ってしまう。外からもまだ赤穂の抵抗する声が響いてくるが、鏡花を止める事は適わず段々と遠のいていく。

 嵐が過ぎたかのよう静寂に包まれる教室の中で、睡は唖然としながら泣きそうな顔で呟いた。


「誤魔化すって…、無茶な事言わないでよ鏡ちゃん…。それにこの空気、どうするのぉ…?」


 静まる教室の中には、緊張の糸が切れたのか泣き出す子もいる始末。それだけ異様な空間だったのだ、鏡花に叱責されていた生徒達も気まずそうに黙っている。

 凛后やメイド長の影響もあるのか、鏡花の怒る姿はその見た目からは考えられないほど空虚で恐ろしい。いや、不気味と言った方が正しいか。その彼女が始めて本気になったのだ、慣れてない子が驚くのも無理は無い。


 とりあえずは黒板をどうにかしよう。

 睡はそう考えて、室内に広がる爪痕を見ないようにして黒板消しに手を伸ばした。


 戻ってきたら文句の一つでも言おうと決めながら。


 ▽






「いい加減離してってばっ!…あんた何のつまりで屋上なんかに連れてきたわけ!?」


 屋上に着くなり掴まれた腕を振り払い、赤穂は叫ぶように詰め寄る。自然と力が入っていたのか右手を押さえる姿に少しの罪悪感が芽生えるが、そんな事は些細な事だとでも言うように赤穂は気にしてもいない。

 私も正面から彼女を見据えて、自分の気持ちを整理する。正直突発的に連れて来たから理由という理由は無いのだが、あえて言うのなら…そう。


「赤穂と殴り合いに来ました」


 これかもしれない。言葉じゃダメ、思いだけでもダメ、だったら拳で語り合うのがよくある展開だろう。


「…はぁ!?殴りあうって、あたしに暴力振るう気なの!?」


「いえ、別に私は殴らなくても良いんですけど、赤穂が本音を出しやすい様に手を出される覚悟をしようかと」


「な、なんでそこまで出来んの?あたしに関わるなって言ったでしょっ?」


「なんでって…ムカつくからです。不貞腐れたその目も、舐め腐った私への態度も、本音を見せたがらずに接する姫大路さんへの態度も」


 瞬間、頬に衝撃と共に甲高い破裂音。ジンジンと熱を持つ頬を押さえれば、叩かれたのだと良く分かる。

 顔を真っ赤に染めて此方を睨む赤穂を見れば、彼女が本気で怒るのが分かって思わずニヤリとしてしまう。最近の澄ました赤穂じゃない、本気の赤穂が怒りを見せたのだ。


「何笑ってんの?あんた人に悪口言うなとか説教しといて、随分私には遠慮が無いじゃない?」


「だって本当の事じゃないですか。私から逃げて、好きな人からも逃げてる。そんなに必死で取り繕って何がしたいんですか?」


 もっとだ、もっと怒ればいい。心の壁を取り除かなければ赤穂と本気で言葉を交わせない、二人の間から邪魔な存在を取り除くのだ。人の為とか言い訳した怒りじゃない、自分の為の怒りを引っ張り出せ。


「そんな嘘吐きだと、誰も好きになんてなりませんよ」




「鏡花ぁっ!!!」




「うぐっ」


 思いっきり突き飛ばされてバランスが崩れるも、何とか手を突くことで怪我を避ける。顔を上げれば先程よりも強い怒りを湛え、涙すらうっすら浮かべる程に感情が高ぶっているようだ。

 少し心苦しい。私だって本当はここまで言いたくは無い、赤穂はきっと皆に好かれる女の子だ。でもこれは私の為でも有り赤穂の為でもある。


 だってもしもヒロインが髪永井さんと結ばれたら、誰が赤穂を救ってくれるというのだ。今のヒロインでは無いのは確かだ。だって今日この日まで赤穂は悩み続けていたのだから。

 そして今日が来てしまったのだから、静観してたのなら赤穂の立場は更に悪くなっていた事だろう。だから今日しかないのだ、赤穂の印象を建て直し、赤穂自身の心も立ち上がらせるのは。


 だから私は引かない、本音を受け止めて、飾らぬ彼女を受け入れる為に!



「あんたに何がわかんのさっ!好きな人に見てもらえない、孤独な私の気持ちがわかるっ!?あんたは良いよね、大好きな人に囲まれて自分らしく居られてさ!誰にも好かれない私を見て楽しい?優越感を得られて気持ち良い?あんたには人の気持ちがわからないんだっ!」


「なら嘘なんかつかずに居ればいいでしょう。私相手にやってたみたいに憎まれ口でも叩いて本音でぶつかれば良いんです。そしたら姫大路さんも無視できない、ちゃんと真剣に聞いてくれますよ」


 私は立ち上がりながら悪びれずに答える。そもそも好きな人にも素直になれないのが悪いのだから、嫉妬されてもどうしようもない。


「そんなこと出来る訳無い、普通は好きな人には良い自分を見せたいものでしょ!?あたしは性格の悪い嘘吐きだけどあなたには愛されたいんです、なんて言えっての!?」


「言えば良いじゃないですか?好きな人なら悪い部分も受け入れて貰いたいのが心情でしょう。いい所しか見せない関係なんてどうせすぐ壊れます、断言できます!」


「揚げ足取らないで!ボッチのあんたにはわかんないだろうけど、普通は自分の悪い所を隠しながら人と接するものなの!周りにお守りされてるあんたには一生理解出来ないだろうけどっ!!」


 私がお守りされてる?確かに皆に迷惑を掛けるし常に誰かと一緒だけど、そんな言い方は無いだろう。それにボッチだの気持ちがわからないだの人をおかしい奴みたいに…。

 流石に私も怒ってきたぞ。


「ええわかりませんよ。でも赤穂みたいな上辺だけの、心は一人ぼっちの奴に言われても信憑性ありませんけどね!みんなに嫌われかけて、私ぐらいしか素を見せられないくせに!」


「いって良い事と悪い事があるでしょ!?仕方ないじゃない、こんな私を好きになる人なんかいなかったんだからっ!…本気で怒ったからね、このクソチビのコバンザメ。姉がいないと何も出来ない、まるで無能な赤ちゃんの癖に」


「クソチ……っ!?…殴られても文句言えませんよ性悪狼女。もう嘘がつけないくらい追い詰めて泣かせてや「うるさいこの埃頭ぁっ!」ぶっ!…よくもやりましたね!」


 喋ってる最中に顔を引っぱたくなんて、この女は常識が無いのか?

 流石にもう此方も手を出さないわけには行かない。そのふざけた顔目掛けて私も手を振り上げる。

 慣れないビンタに手元がずれて、勢いも付き過ぎたのか赤穂に掴みかかる形になってしまう。だが引く事はしない、そのまま肩を掴んで彼女の頬を思いっきり抓る


「人が手を出さないといい気になって!私だってやる時はやるんですっ…って痛つつつ!」


「ふじゃけんなこの馬鹿!喧嘩もしたこと無いくせにゅっ!?うぐぐぐ…」


 髪を引かれるがその勢いを利用し彼女の顔を思いっきり押し込む。赤穂の柔らかな唇が手のひらに伝わるが今はそんな事はお構いなしだ。鼻や口を押さえるように押し続ければ、やがて髪を引く力は弱くなる。

 だが赤穂も黙ってはいない、私の手を何とか外そうともがいている内に爪が当たったらしく、鋭い痛みが腕に走る。


「っ!~~~~~ったいっ!?本気で引っかきましたね!?」


 こんな痛みは久しぶりだ。思わず涙が滲み腕を押さえてしまいたくなるが、それを越えるほどの赤穂への敵意が溢れてくる。私ばかり痛い目にあうし散々性格も否定されるし、頭がカァっとなって赤穂へと倒れこむように突進する。


「赤穂の馬鹿ぁっ!!!」


 鈍い激突音と共に二人は縺れるようにバランスを崩し、上に覆いかぶさるように倒れ込む。少しの間二人して呻いていたが、先に正気を取り戻して見下ろすように赤穂を見つめる。そして顔を逸らさせないように両手で固定して、その目を覗き込むように顔を近づける。


「うく…あんたどんだけ乱暴なん…………なんで、泣いてんの…?」


 不思議そうに此方を見る赤穂の瞳には、涙で顔を濡らし顔を歪める私の姿が映っている。


「なんで…?そんなの悔しいからに決まってるでしょ?私は赤穂の事が嫌いじゃなかったのに、本当の赤穂を見せてもらえるって嬉しかったのに、今はこんな所で意味も無いのに喧嘩してる!言いたくない事言うのも嫌なのに、誰かを傷つけるなんて苦しいのに!赤穂を苦しめるしかないこんな状況が悔しくて仕方ないっ!」


「なに言ってんの?嫌いな相手に対して罪悪感でもあるわけ…?」


「一度も嫌いだなんて言ってない!嘘つかれるのは嫌い、自分を騙してる事も嫌い、でも本音でいてくれた、憎まれ口を叩く元気で真っ直ぐな赤穂が大好きだからっ!そうやって諦めた顔する赤穂を見てるのが悔しいんだよぉっ!」


「…なんでそんな、私酷いことしたのに……でも、私は…」


 少しずつ赤穂の涙も溢れてくる。表情が崩れてきて、お互い怒りはもう無くなりかけてきた。手の震えに共鳴するように赤穂の身体も震えだし、少しずつ仮面が溶け出していく。

 私の心ももう限界だ、抑えられない想いが口からするりと零れた。



「お願いだよ赤穂ぉ…前みたいに私を見てよ……嘘をついて離れないで……。寂しいって、私には教えて欲しいよ…」



 頬を伝って落ちた涙が、彼女の胸にポツリと落ちた。

 私の想いがそっと心に溶け出すように。



「もう嘘はつきたくない…一人は寂しい…誰にも見てもらえないのは辛い…。でも私は嫌な奴だから、口も悪いし好きだって言われるのが苦手だから…だから嘘をついてた…」


「どうして…?何かあったの…?」


「私は何もされてない、昔からいい子を装ってたから…。でも、一人だけ仲のいい子が出来て…その子は本当の私を好きになってくれたのに……恥ずかしくて、信じられなくて…傷つけちゃった…。その子の苦しそうな泣き顔が頭を離れなくて…誰にも自分を見せられなかった…」


 トラウマということだろうか。好きになる事で誰かを傷つけるかもしれないという疑念が彼女を縛り、今の赤穂の状況に繋がっていくのだろう。多分今回も私への好意と姫大路さんへの想いの板ばさみになり、過去のトラウマも相まって過剰に私を遠ざけようとしたのだ。

 何とも不器用で、何とも歪んだ優しさと防衛本能だろうか。彼女は自分の牙が他人を傷つけると恐れているのだろう。


「だから、鏡花に自分を見せられるのが嬉しかった。どんなに言葉をぶつけても寧ろ言い返してくれるのが楽しかった。鏡花といるのは心地良くて、正直白雪先輩といるより好きだった。でもあんな事件が起きたから、あれは裏切った自分への罰かもって思ってさ…。どうにか遠ざけようと、嫌いになって貰おうとしたのに…」


 そういうと深呼吸を一つしてから私へとその手を伸ばし、目元を優しく拭ってくれる。優しい瞳でなんどもなんども拭ってくれて、そのうちポツリと言葉を紡いだ。



「だめだね、あたしあんたの事が好きみたい…。白雪先輩には悪いけど…」



 喜びの感情は花咲くように私の心を満たしていき、抑えきれぬ想いを伝えるように赤穂へと抱きつく。

 座り込んだ格好で赤穂の跨るように抱きつけば、何処までも一緒になったように感じて凄く幸福な気分になる。

 既に私達に悲しい表情は無い。有るのはただただ通じ合えた喜びの笑顔と穏やかな空気のみで。


 もう今日が終わっても良いと思えるくらい、何時までも二人で抱きしめあった。








「ねぇ一つ聞いていいですか?」


「なに?スリーサイズなら今度にしてよ」


「いや違…ていうか教えてくれるんですか…?そうじゃなくて、昨日の放課後なんで机の近くにいたんですか?」


「ああ、あれね。鏡花のいい匂いが残ってるから少し堪能してただけ」


「…え?」


「鏡花は甘い匂いがして可愛くて美味しそうな匂いがするんだよね。突然来るから昨日はびっくりした」


「…へ、変態…?」


「でも本当の私が好きなんでしょ?責任取ってよね」


「え?ええっ!?」


「くすくす…本当に大好きだよ、鏡花。私の腹を探ったんだから覚悟しなよ」


 私は大変な狼を目覚めさせてしまったようだ…。

 何とも可愛らしくて、何とも危険な狼を。


 そして、夏休みが始まるのだった。







 ◇


「狼はようやく自分を受け入れる事が出来ました。

 するとどうでしょう、あんなに怖かった世界が明るくなって見えてきます。

 もう偽る必要はありません、嘘をつかなくても良いのです。

 誰の事も騙すことなく、誰かを傷つける事も無く、穏やかな平穏の中で生きていく事を決めました。

 今日も狼はその頭に大好きな少女から受け取った赤い頭巾を被り、胸を張って森の中を歩いていきます。


 大好きな大好きな少女の下を目指して、今日も、明日も、きっと何時までも。


 めでたし、めでたし…







 でも、少女に幸せが訪れるとは限らないわ…」


 ◇

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