6月 ホップ・ステップ・グラスホッパー

 新緑が青空に映える季節になった。

 『もう六月だね』などとぼんやりしながら、私はバーボンを煽った。

 琥珀亭のカウンターにある花瓶にはちょっと前までチューリップが飾ってあった気がしたが、今夜はオレンジの薔薇だった。もう春は終わったんだね。

 なにせ六月ともなれば『YOSAKOIソーラン祭』で賑わうし、千歳市では大規模な国際マラソン大会もある。そろそろ、いちご狩りも始まる頃か。むせるほどの活気であふれる季節といえる。


 この夜、目の前に差し出された雨森堂の上生菓子も、実に生命力みなぎる情景が浮かぶものだった。

 こしあんを包んでいるのは葉の形をした若葉色の煉り切り。その上に、寒天で作った雨粒が光っている。そう、まるで今まさに雨があがって、青葉の上で雨雲の落し物が輝いているようだった。

 北海道には梅雨がないが、それでもこういうものを見ると心が晴れやかになる。

 そんなことを考えていると、扉が開いて、呼び鈴の音と共に賑やかな声がした。


「いらっしゃいませ」


 尊と真輝の声に出迎えられたのは、なんとも華々しい出で立ちをした二人の女の子だった。それぞれシフォンのドレスにボレロを羽織ってドレスアップしている。髪も綺麗にセットされていて、ヒールの音とともに歓声が高らかに響く。


「ここ、すごくいいね! いかにもバーって感じ!」


 そりゃ、バーだもの。

 思わず苦笑してしまった。

 たった二人なのに、入ってくるなり、とめどないおしゃべりで一気に店が賑やかになった。


「あの、カウンターいいですか?」


 そう言ったのは長い髪をふんわりと結い上げた子だった。なかなかの美人だ。

 後ろにいる女の子は綺麗なボブをしていて、きょろきょろ店内を見回している。


「どうぞ、こちらへ」


 オーナーの真輝がにこやかに私から少し離れた席を案内した。


「すみません」


 髪の長い子が会釈しながら愛想よく言った。耳たぶから垂れるピアスがライトを反射して眩しい。

 彼女たちは手にしていた大きな白い紙袋を足元に置き、いそいそとカウンターに座った。


「何になさいましょう?」


 真輝がおしぼりを出しながら言うと、髪の長い子が元気よく言った。


「私、キューバ・リブレで。ねぇ、翔子は?」


 勝ち気そうな声で、隣のボブの子をショウコと呼んだ。


「えっと、私は甘いのがいいな。デザート足りなかったもん」


 翔子は唇を前に突き出した。


「本当に翔子は甘い物が好きね。だから私のデザートもあげるって言ったのに」


「だって、春菜も食べたかったでしょ?」


「まぁね」


 二人が鈴を鳴らすように笑った。微笑ましく見ていた真輝が、二人に話しかける。


「もしかして、結婚式だったんですか?」


「はい」


 春菜のほうが答え、翔子がにこやかに無言で頷いた。


「友達の結婚式の帰りなんです」


「そうですか。ジューン・ブライドなんて素敵ですね」


 真輝はうっとりしながら、手元を動かし始めた。


 私はメーカーズマークを揺らしながら、ちょっと華々しい気持ちになった。

 考えつかなかったが、六月といえばジューン・ブライドか。春は終わったけど、誰かと誰かの毎日が始まるんだ。実にいいもんだ。

 ふむ、今日の酒は美味くなりそうだね。


「お待たせいたしました」


 真輝がそう言いながら、カクテルをすっと差し出す。春菜には『キューバ・リブレ』が、翔子には『ホワイト・ルシアン』が出された。


「綺麗!」


 二人は揃って歓声を上げる。

 春菜の『キューバ・リブレ』はライムの入ったラム・コークと言えばわかりやすい。

 一方、翔子の飲む『ホワイト・ルシアン』はウオッカをベースにしたカクテルだが、アイスコーヒーに生クリームが乗っているような酒だろう。


「乾杯!」


 二人が同時にそう言い、グラスを傾ける。そして、一緒に足をバタバタさせてから、「美味しい」と嬉しそうに互いの顔を見合わせた。

 以前から不思議に思っていたが、美味しいものや甘いものを口にして感激すると足をバタつかせる女の子がよくいるね。あれは何で足をバタバタさせちまうんだろう?

 私は笑いをこらえながら、無邪気にカクテルを楽しむ二人を目の端で盗み見た。


「それにしても結婚式、よかったねぇ」


 春菜がため息を漏らすと、翔子も「うん」と頷いた。


「私、両親に花束渡すところで泣いちゃったよ」


「私も早く結婚したいなぁ」


「春菜は彼氏いるからまだいいわよ。私はまず相手を探さないと」


「翔子は奥手だもんねぇ」


 気の強そうな春菜と、ちょっとおっとりの翔子。性格が違うからこそ、うまくいっているタイプの友達らしい。


「でも、翔子は彼氏よりも先に仕事を見つけなきゃ」


 思い出したように、春菜が顔をしかめる。


「さっき聞いてびっくりしたよ。なんでいきなり仕事辞めるなんて言い出すの?」


 翔子が慌てて『違う』というシェスチャーをした。


「私の意志じゃなくて、会社の契約期間が切れたのよ。ずっと更新してきたんだけど、『今回は更新はなしで』って言われちゃって」


 おや、結婚を夢見る話から急に現実的な話になってきたね。春菜が「そうなんだ」と一呼吸置いてこう続ける。


「でも、かえってよかったんじゃない? 翔子、仕事に不満あったでしょ? いつも愚痴ってたじゃない」


「そうなんだけどね。いきなり職を探せって言われても、自分が何をしたいかもわからなくて戸惑っちゃう」


 ぎこちなく笑う翔子を見た春菜が、大きなため息を漏らす。


「だから、もっと『転職しろ』って前から言ってたのに。こう言っちゃ悪いけど、アルバイト同然だったじゃない。ボーナスも燃料手当もなし、交通費と保険はついても時給制で月に十万程度じゃやっていけないでしょ」


 ずいぶんハッキリ物を言う子だ。

 翔子は困ったように笑っているだけだが、話を聞いていた尊が彼女にほほえみかけた。


「戸惑う気持ち、わかりますよ。俺も前はそうでしたから」


 その言葉で、私は三年前の尊を思い出した。こいつは大学を卒業してもやりたい仕事がわからないって悩んで、結局ここにたどり着いたんだった。

 尊がこの店に来て『ここで働かせてください』なんて言い出したとき、私もここで飲んでいた。そして彼はバーテンダーとして働き、今では『マスター』なんて呼ばれるようになっている。


「えぇ? マスターもですか?」


 仲間を見つけて心強そうな翔子に、尊が頷く。


「俺はご縁があって、ここのバーテンダーになりましたけど、大学を卒業した頃は何をしていいかわからないし、やりたいこと……っていうか、自分にできることがわからなくて」


 そう言うと、彼は「はは」と笑う。


「あの頃はまさかバーテンダーになるなんて夢にも思ってなかったんですよ」


 翔子が肩を落とす。


「そうなんですよ。私も自分にできることってあるかなぁって自信持てなくて、面接が怖いんです」


「何言ってるのよ。あんたって大抵のことなら人並み以上にこなすじゃない。パソコンもできるし、気遣いできるし」


「でもね、役立つような資格もないしね」


 翔子は、さっきまで明るい顔で結婚式の話をしていたとは思えない顔つきになっていた。


「春菜はすごいよ。自分に自信もてて、バリバリ仕事もして、ボーナスもあって」


 すると、春菜が心外そうに言った。


「あら、自分に自信がもてないのは一緒よ。だけど、努力するしかないじゃない。私だって泣いてきたし、パソコン打つのだって指一本から始めたし。それにね……」


 春菜が叱咤にも似た声で言い放った。


「ボーナスをもらうのは、それだけの仕事をしているからよ。前にも言ったじゃない。満足な給料をもらうには、自分で行動を起こして転職して、それだけの仕事をこなさなきゃって」


「うん、そうよね……」


 翔子は力なく言う。


「駄目ね、私ったら。いつも臆病っていうか、腰が重いの。なのにぬるま湯に浸かって文句ばっかり。こんな自分が嫌になるわ」


「そこまで言わないけど、勿体ないっていうか、歯がゆいのよ。翔子は絶対に仕事ができる子だもん。優しいし、同僚にも好かれるし。翔子にはもっといい職場が絶対あるから!」


 春菜の強い口調の裏には、心配が見え隠れしていた。

 そのとき、尊が優しく翔子に微笑みかけた。


「コツを教えましょうか?」


「え?」


 尊の一言に、翔子だけでなく春菜も興味津々といった顔になる。尊が冗談めいた口調で二人の顔を見回しながら囁く。


「二つあるんです。一つはね、面接の前に自分にこの仕事がつとまるかなぁって不安に思ったら、その職場にいる自分を無理矢理にでも想像するんですよ」


「想像、ですか?」


 呆気にとられる春菜に、尊が笑う。


「やってみると、意外と勇気出ますよ。『きっとこんな仕事するんだろうなぁ』って想像するんです。なんとなく自分が働いているのが想像できたら、きっとその職場である程度はやっていけます。後は自分の努力次第ですけど」


 彼は力強く、翔子に頷いてみせた。


「自分でリアルに想像できることは、大抵叶うんです」


 私はにんまりとした。それは彼がこの琥珀亭で得た座右の銘だと知っているからさ。

 催眠術にでもかかったような顔で、翔子が何度も頷いている。春菜が、わくわくしながら訊いてきた。


「それで、もう一つのコツは?」


「これは俺の友人が言ってたんですけどね。目の前の仕事を天職にしちゃうんです。天職に出逢える人なんて、滅多にいません。天職を探すより、そのほうが手っ取り早いでしょ?」


「でも、それって難しいですよね」


 戸惑う翔子に、彼が勇気づけるように言った。


「それがね、簡単にする方法があるんです。さっき、翔子さんは『ぬるま湯に浸かって、文句ばっかり』って言ってましたよね」


「あ、はい」


「わかりますよ。どうしても嫌いなところとか、不満なところに目がいっちゃうじゃないですか」


「そうなんです。気がつけば誰かに愚痴とか文句ばっかり言ってて、相手もうんざりするってわかってるけど止められなくて。そんな自分が嫌いなんです。ぬるま湯から飛び出そうともしないまま、そこでぬくぬくしてるくせにね」


 落ち込む翔子に、春菜が言う。


「嫌いになんてならないよ。私も愚痴聞いてもらってるじゃない。だけど、心配はするんだからね」


 翔子の顔がいくらか明るくなった。


「ありがとう、春菜」


 いい友達じゃないか。尊も微笑ましく、彼女たちを見ている。


「ねぇ、翔子さん。今度の職場では愚痴を言いそうになったら、好きなところを無理矢理にでも数えるといいですよ」


「好きなところですか?」


「そう。頭の中ででもノートにつけてもいいんです。何でもいいから『いいな』とか『好きだな』ってことを見つけていくんですよ」


 尊が腕組みをした。


「例えば、この店で言うなら『いろんな人と出会える』とか『お酒に詳しくなる』とか」


 すかさず、私がチャチャを入れてやった。


「生涯の伴侶と出逢えたとかな」


「お凜さん、真面目な話をしてるのに、からかわないでくださいよ!」


 尊の顔が赤く染まり、二人の女の子がわっと笑い声を上げた。


「まぁ、要は好きなところを見つけるのが上手になればいいんです。そうすれば、きっと気持ちが違いますよ」


 まだ赤い顔でそう締めくくる尊に、春菜がニヤニヤして言う。



「それって恋愛でも同じかも。恋してるうちはそうだもんね。仕事に恋すれば、恋愛上手になるかもね。マスターみたいに」


 尊の耳たぶが再び赤くなるのを見た真輝が、笑いを堪えている。春菜も翔子も、腹の底から笑っていた。

 やっぱり、女の子には笑顔が一番だね。そう思ったとき、尊が目を細めた。


「翔子さん、職場でもその笑顔をずっと忘れなければ大丈夫ですよ。女の子の笑顔は資格よりも大事なときがありますよ」


 尊は私と同じことを考えていたらしい。私はにやりとして、ウイスキーを喉に流し込んだ。

 彼女たちのグラスの残りが少ないことに気づいた真輝が「何かお作りしましょうか」と訊ねた。

 二人は顔を見合わせて真輝にこう言う。


「お任せで」


「かしこまりました」


 真輝はそっと微笑み、冷蔵庫から生クリームを取り出す。他にもライムとジンジャー・エールを取り出すのが見えた。

 真輝が材料をシェイクすると、二人は頬を染めて「わぁ、バーに来たって感じ」と喜んだ。


「どうぞ」


 真輝が春菜に銅製のカップに入れた『モスコー・ミュール』を差し出した。翔子の目の前には『グラスホッパー』という名の、緑色のショートカクテルが置かれる。


「あ、さっぱりしてて美味しい!」


 春菜が喜ぶ隣で、翔子も口許を綻ばせた。


「こっちはチョコミントみたい」


 二人は互いのカクテルを味見して、顔を見合わせて笑う。真輝がそんな二人の仲むつまじい姿に、思わず微笑んだ。


「翔子さん、その『グラスホッパー』はバッタを意味するんですよ」


「そうか、緑だもんね」


「転職、きっとうまくいきますよ。バッタにあやかって、次のステップに跳んでいけますから」


「ホップ、ステップ、グラスホッパーね」


 酔ってきたのか、春菜が軽快に笑う。


「なにもバッタみたいに自分の身長の何倍も跳べって言ってるんじゃないんだから。人間なんだから三段跳びでいいのよ」


「走り幅跳びみたいに?」


「オリンピック目指せって訳じゃないからね。ちょっとでもいいのよ。少しずつ勢いつけて、ちょっと思い切って跳べばいいんじゃない? 仕事も恋愛も」


 翔子がにっこりした。


「ふふ、そうね」


 そして、グラスの脚をそっと指でなぞった。


「私、今ならぬるま湯から思い切り跳べる気がするわ」


 ふと、春菜がカップを持ち上げて、真輝に訊ねた。


「こっちの『モスコー・ミュール』はどんな意味なんですか?」


「こちらは直訳すると『モスクワのラバ』なんです。元々はジンジャー・エールではなくジンジャー・ビアで作る強いカクテルなので、ラバに蹴られたように強い酒って意味もあるんですよ」


「よし、じゃあ私がラバの足で翔子の背中を思いっきり蹴ってあげるわ」


「蹴るんじゃなくて、押してよ」


 翔子は呆れたような顔をしたが、ふと春菜に笑みを向けた。


「いつも、ありがとう」


 すると、春菜が笑う。


「お互い様よ。知らないのね。私がどれだけ翔子に助けられているか」


「そう?」


「そうよ」


 二人は黙ったまま微笑み合い、そして酒を飲んだ。

 あぁ、いつかの私とあの人みたいだ。

 春菜と翔子の姿に、思わず真輝の死んだ祖母を思い出し、胸の奥が熱くなった。


 彼女の名は遥という。顔立ちも声も、真輝にそっくりだった。先代オーナーが真輝を可愛がったのは、そのせいもあるだろう。

 彼女がチェロを弾く姿は、女神のように美しかった。儚げに笑う、粋な女でね。孫の大地に一番最初にチェロを教えてくれたのも、彼女だった。

 優しくて、温かくて、それでいて弱かった。私も春菜のようによく発破をかけたもんだよ。

 私は琥珀亭の先代オーナーに思いを寄せていたが、この店に初めて遥を連れてきたとき、「あぁ、この二人は惹かれあうな」という予感がした。

 その予感は命中し、やがて先代オーナーと遙は結ばれたんだ。私たちはそれぞれに苦悩し、背中を押し合い、そして笑いあった。

 そりゃあ、まったく妬まなかったといえば嘘になる。私は本当にあのひとが好きだったからね。

 でも、どんなに醜いどす黒い雲が心をすっぽり覆い隠してしまった気がしても、平気なふりをしていたんだ。だって、私の大好きな二人が幸せなのは嬉しいのも事実だったから。

 それでも、人の心はそんなに簡単に割り切れるものじゃないだろう?

 けれど、二人が結婚した日。

 その晴れ姿が、私の心に光明をくれた。

 何故かはわからないが、自然と「これでよかった」と思えたんだ。それくらい、彼らは一緒にいるのが自然だった。そう、ここにいる真輝と尊のように。


 メーカーズマークを手の中で揺らしながら、私はふと唇の端に笑みを浮かべた。

 私は遥たちの幸せそうな姿に思った。遥たちとより長く一緒にいられる時間を、私は手に入れたのだと。それが嬉しく思える自分がいることに安堵したっけ。

 同時に、今までは愛情が欲しいばかりに、それを見ないふりをしていた自分にも気がついたんだよ。そのとき、私は自分が寂しかったんだと知った。

 あのとき、しゃんとしていられたのは何故か、今ならわかる。皆に祝福される姿を見送る私の手をそっと握ってくれた、あの男のおかげだったんだ。


「僕もメーカーズマーク、好きですよ」


 そう言って、琥珀亭で話しかけてきた人懐こい男の手。

 やがて、その男と共に、私は人生を歩むことになった。


 カクテルを飲み交わす春菜たちを見ているうちに、私は珍しく、隣の誰もいない席が無性にがらんとして見えた。

 嗚呼。みんな、先にいってしまったからね。

 私はメーカーズマークの香りを吸い込みながら、人知れず笑う。

 明日にでも墓参りに行こう。きっと、あいつは草葉の陰から笑うね。「お盆はまだ先よ。相変わらずせっかちなのね」ってね。

 真輝にそっくりな、あの柔らかい声で。

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