第8話 準備②

「じゃ、じゃあ……」


 その声に応えるようにこくりと頷くのが精一杯だった綾乃だが、その気持ちは楓へと伝わったようだ。


「では、また来ます! その時にでも、待ち合わせの日付や時間を決めましょう!」


 楓の嬉しそうな声を聞き、自分も嬉しくなる綾乃だった。綾乃は火照ほてる顔を押さえながらすごすごと店内に戻る。日は暮れ始め、あたりを赤く染め上げていた。




「それで? 天野さんに呼び出されてどんな話をしたの?」


 仕事が終わり、綾乃は咲希に食事へと誘われていた。そしてその食事の席での話は綾乃が突然店を飛び出した理由について、となっていた。

 咲希からの問いかけに綾乃は自分の頬が再び上気するのが分かる。その様子を見た咲希は、


「おぉ? その反応、他に何かありましたな? 沓名さん?」


 何々? と興味津々きょうみしんしんに顔を近づけてくる咲希に綾乃は消え入りそうな声で映画に誘われたことを告げた。


「やっぱり……! いやぁ、天野さんって積極的な人じゃない」


 咲希は興奮気味に口を開いた。そして向かいで食事の途中だった綾乃の両手を取ると、綾乃の目を真っ直ぐ見つめて真顔で言った。


「よし! 準備しようね、綾乃」

「え?」

「初デートの準備。大丈夫よ、私に任せなさい」


 真っ直ぐに見つめられた綾乃は握られた手をほどくことも出来ず咲希を見つめ返す。そんな綾乃の手に力が込められた。


「よし! 張り切っちゃうぞ! デートの日が決まったら絶対に教えてね」


 うんうん、と頷いて咲希は食事に戻った。綾乃は呆然と握られていた両手を見つめるのだった。




それから数日が経過した。映画の公開日も過ぎており、綾乃は大型書店の自動ドアが開くたびにソワソワしていた。


「いらっしゃいませ!」


 綾乃は思わずいつもより大きな声で挨拶をしてしまう。しかしそこに立つ人物が天野楓ではないと確認するたびにがっくしと肩を落としてしまうのだった。そんな日々を何日過ごしただろうか。ある月曜の夜であった。映画公開からは2週間ほどが経過していた。


「いらっしゃいませ!」


 いつものように自動ドアに反応して声を上げた綾乃は、そこに天野楓の姿を認めた。慌てて綾乃は裏へと駆け込む。


「先輩!」

「来たの? オッケー、綾乃は今から休憩に入りなさい」


 咲希は綾乃の一言で事態の状況が飲み込めたようだ。すぐに自分と休憩をかわってくれる。綾乃は急いでエプロンを外すと、外に出て楓の側へと駆け寄った。


「こ、こんばんは」


 思わず声が弾み、笑顔になってしまった綾乃だ。声をかけられた楓は驚いて言葉を返す。


「あれ? 沓名さん、今って……」

「休憩中です」


 にっこりと微笑む綾乃に目を見張った楓は、ここでは何ですから、と綾乃を外へと連れ出すのだった。

 店を出た楓は綾乃が勤めている大型書店の向かいにあった公園へと足を向けた。薄暗くなってきている空の下、2人の間を生ぬるい風が吹いていく。まだまだ秋は遠そうだ。


「そう言えば、ちゃんとした自己紹介はまだ、でしたよね」


 そんな中おずおずと楓が口を開いた。言われてみたら、こうしてきちんと話すのも初めてなのである。綾乃もそれに気付きはっとした。


天野楓あまのかえでです。不動産会社の経理をしています」

「あ、あの、沓名綾乃くつなあやのです。あの書店で勤めています」


 流暢りゅうちょうな自己紹介をしてくれる楓に対し、綾乃は何だかくすぐったさを感じていた。


「なんだか、改めて自己紹介をすると変な感じですね、沓名さん」


 同じくすぐったさを楓も感じていてくれたのか、照れくさそうに声をかけてくれた。楓は今日、忙しさからようやく解放されたとかで、仕事帰りに書店へと立ち寄ってくれたそうだ。そんな話をしていると夜の公園へとたどり着く。

 明るく照らされたベンチを軽く手で払うと、楓はそこへ座るように綾乃に誘いかけてくれた。


「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 すごすごと誘われるままにベンチへと座る綾乃を見て、隣にゆっくりと腰を落としたのは楓だった。

 2人とも腰をおろした所で、楓が本題へと入っていく。


「あの、この前お話した映画ですが。来週の水曜日か金曜日で都合が合う日はありますか? 僕、休みがそこしかなくって……」


 提案された綾乃はゆっくりと自分のシフトを思い出していた。確か、金曜は出勤がなかったはずだ。


「金曜日なら……」


 恐る恐る答えた綾乃に、楓の表情が明るくなった。


「良かった! 休みが合って!」


 その表情につられて、綾乃も笑顔のままそうですね、と返した。


「じゃあ、13時に映画館のあそこ……、上映時間が書かれている看板の前で待ち合わせしましょう」


 楓の言葉に綾乃はゆっくりと頷いた。そろそろ戻らなければいけない時間が綾乃に近づいてきている。


「では、戻りましょうか」


 楓の言葉に綾乃もベンチから立ち上がった。楓は綾乃を書店へと送り届けると、


「じゃあ、来週の金曜日、映画館で」


 そう言って颯爽さっそうと店を後にするのだった。

 綾乃は書店へと戻って初めて自分の身体が熱くなっていることに気付いた。まだ外は暑い。だが、それだけでは説明がつかないくらい火照ほてっていた。


(やだ、何で……?)


 ドキドキする胸の内を悟られないように、急いでエプロンを身につける。そして事務所を出ると、レジに立っていた咲希へと声をかけるのだった。


「休憩戴きました」

「あ、おかえり、綾乃」


 綾乃に気付いた咲希がにっこりと微笑んでくれた。2人はそのままいつも通りの業務をこなすと、あっと言う間に閉店時間を迎えた。閉店作業中でも綾乃の頭の中では休憩中に話した楓との会話がリピートされているのだった。思い出すだけでドキドキする鼓動を抑えながら、業務をこなし、そして閉店を迎える。


「お疲れ様、綾乃」

「石川先輩……。お疲れ様です」

「これから時間、貰ってもいいかしら?」


 ニヤニヤと笑いながら言う咲希に、綾乃はこくりと頷くのだった。




 2人は先日も訪れていた店へと食事に来ていた。注文を一通り終えると、咲希が口火を切った。


「で? デートの日は決まったの?」

「デートって……」


 その言葉に慌てる綾乃。そんな綾乃に咲希はきょとんとした表情を浮かべた。


「どうして? 天野さんと2人で出掛けるんでしょ? 立派なデートじゃない」


 正面からそう言われ、綾乃はどうしたものかと困った表情になる。

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