インターネットカフェ ほーむ高田馬場店

 今日降りた駅は新宿ではなく、山手線内回りで二つ前の高田馬場。早稲田口を出て早稲田通りを早稲田大学の方へ三分ほど歩くと、一階に喫茶店が入っているビルが見えてくる。喫茶手には客は数えるほどしか見えず、でっぷりとした中年男がガラケーを片手にやかましい関西弁で話をしているのが店の外からでも目立った。このビルの二階、三階が今日ヘルプで出勤することになったほーむ高田馬場店だ。


 慢性的に続いている物販の在庫数と実際の売り上げ個数の違いに、ほーむ高田馬場店店長の加納さんが真剣に調査を始めたのは遡ること二週間前。原因は大学生のスタッフ二名が小腹の空いた時にカップ麺やスナック菓子を、ばれやしないだろうとたかをくくりこっそり食べていたというなんともお粗末なものだった。しかし二人が一緒に入る時に限って在庫数に差が生じることに気付いた加納さんが、ブースの影から隠れて二人の勤務実態を観察していると、周囲を注意しながらレジを打たずにカップ麺を受付裏に持っていき、美味しそうに頬張る姿があった。「もしかしたら後でレジを打つのかもしれない」と一旦は二人の行動を黙認していのだが、結局その日二人は帰るまでその分の会計を済ますことはなかった。後日、加納さんが二人を追求すると白々しくも「レジを打つのを忘れてしまったんです」と苦しい弁明をしたが、当然二人ともその場で解雇された。

 そのため新しいスタッフを採用するまでは各ほーむ系列店からヘルプを招集することとなり、倉柳さんに頼まれた僕が今日、中番で出勤することとなった。

 ほーむ系列店といえどパック時間やパック料金、物販、ドリンクなどは各店舗に異なり、各店舗独自の習慣、作法などがある。同じ“ほーむ”であるが“アウェイ”の感は否めない。

「こんにちは。どうも新宿店から来ました森永です。あ、ハルさんどうもご無沙汰です」

「おお、森永君、久しぶり」

 ビートルズが掛かる中、出迎えてくれたのは高田馬場店のハルさん。田島という名字からタージマハルを経由して“ハル”と呼ばれている。毎年一月に催されるほーむ系列店スタッフ合同親睦会、そして定期的に行われるスタッフ会議という名の各店舗の店長、シフトリーダーが集まるミーティングで何度か会ったことがある。上背は普通だが、浅黒い肌に盛り上がった筋肉が並々ならぬ威圧感を放っている。また彼はほーむ系列店スタッフの間で有名な武勇伝を持っている。

 およそ一年前、高田馬場店に一人の男が基本料金で入店した。男はその後十二時間滞在していたがハルさんともう一人のスタッフが接客をしている最中、延長料金を払わずに正面の出入り口から走って逃げ出したのだ。突然の事態に驚きながらも追跡を始めたのはハルさんだった。男は逃げ切れると思ったのだろうが、追跡をしたハルさんが高校時代に四百メートル走でインターハイの決勝に出たほどの俊足の持ち主であり、現在はプロの格闘家を目指し、日々ジムで肉体を苛め抜いている男であることを知っていればそんな愚行は犯さなかっただろう。二人の肉体のポテンシャルの差はみるみるうちに距離を縮め、ほーむ高田馬場店から三百メートルほど離れた神田川に架かる橋の上で、ハルさんに捕らえられた。組み伏せられた男は肩で息をしながら「もう逃げません、もう逃げません」と弱々しく喘いでいたという。

「いやあどうも、スタッフ会議以来ですね。しかし馬場店も一度に二人いなくなるとけっこうきつくないですか?新宿店と違って二人体制ですし」

「そうなんだよ。早く新しいスタッフ採ってもらわんとね」

「そういえば加納さんって今日いるんですか?」

「いや、店長は今日休み。だからゆっくりしようぜ」

 店長がいないと羽を伸ばすというのは、やはりどこの店舗でも同じ様だ。


 ハルさんは「ヘルプで来てもらったんだから必要ないよ」と言うが、せっかく高田馬場店に来たのだから、ここの連絡ノートを読んでみたい。頁を開くと、一番新しい連絡事項はカップヌードルのシーフード味の在庫が切れたこととなっている。その少し前には加納さんによって例の二人の大学生が解雇されたことが長文で綴られていた。またさらに遡ると「二十番ブースのリクライニングチェアに泥酔した客が嘔吐してしまったため、臭いが完全に無くなるまで二十番は閉鎖して下さい」という内容を見つけた。僕も何度か嘔吐物の処理をしたことがあるが、あの作業はなかなかきつい。チェック欄に比嘉という名前を見つけた時、僕はあの事件を思い出した。

「そういえばあの白蟻詐欺事件の彼ってまだいるんですか?」

「ああ比嘉ね、まだやってるよ。やっぱりあれ有名なんだ」

 そういってハルさんは相好を崩した。

「あれは伝説ですからね」

「いやはや、同じ高田馬場店スタッフとしてお恥ずかしい」

 “シロアリ詐欺事件”というのは高田馬場店スタッフ比嘉君が、シロアリの駆除業者を名乗る男に騙され、売上金十五万円を巻き上げられてしまった珍事件のことである。

 ある日つなぎを着た四十代と思しき男が加納さん不在時の高田馬場店を訪れた。

「加納さんからお話伺ってませんか?いやあおかしいな。でも大丈夫ですよ、ちゃんと領収書渡しますんでどうぞご安心下さい。では一応念のため名刺もお渡ししておきましょう」などと堂々たる説明をされた比嘉君は男の演技をすっかり信じてしまい「すみません、話がこっちに伝わってなかったみたいです。十五万円ですね、少々お待ち下さい」と言い、レジの中の現金をあっさり渡してしまったのだった。その後比嘉君は高田馬場店に現れた加納さんに「店長、シロアリ駆除業者が来たんでちゃんと十五万円払っておきましたよ」と報告をしたのだが、何も知らぬ加納さんはまるで事態が飲み込めず「え?何の話」とただただ狼狽えていたという。当然その後警察に届け出たのだが未だその詐欺師は捕まっていないらしい。そのエピソードは僕に映画“スティング”を連想させる。

「あのことに触れられると比嘉、ひどく恥ずかしそうにするのよ。当たり前だけどさ。俺なら耐えられないね」

「新宿店にも連絡ノートを通して知られることになりましたからね。倉柳さんも『馬場店には間抜けな奴がいる』と笑ってましたよ」

「間違いないね。あ、森永君も好きなの飲みなよ」ハルさんはそう言うとドリンクバーの方へ手を向けた。

「じゃあお言葉に甘えて」

 せっかくだから新宿店にはない物を飲もう。僕はアップルティーのボタンを押した。

「馬場店は新宿より種類少ないでしょ」グラスの氷をストローでかき混ぜながらハルさんが言う。

「確かに新宿はもう少しありますね。ちょっと前にコーンポタージュが新しく入って他のスタッフが喜んでました」

「コーンポタージュは確かにいいな。俺も今度加納さんに言ってみよう」

「ここって加納さん公認ですか?」

「もちろん。さすがに物販を勝手に食べたらくびにされちゃうけどね」ハルさんは笑った。


 徐々に高田馬場店の料金やブースなどに慣れ始めた十九時過ぎに一人の男が来店してきた。さっそく僕が案内しようと前に出るとハルさんに制された。

「シャワー空いてる?」

「はい大丈夫ですね。基本料金でよろしいですかね?」

「うん」

 簡単なやりとりを済ませた後、常連と思しき男はそのままシャワー室に向かって行った。

「いわゆる“シャワーだけ”ってやつですか?」

「そうそう、うちじゃ“シャワー男”と呼ばれてる。他にもそういう客は何人かいるけどね」

「へーうちも全く同じようにシャワー男って名付けてますよ。考えることはみんな一緒ですね」

「そうなんだ。ちなみに今入ったあいつは二代目。馬場店じゃ現在五代目までいる。別に襲名しているわけじゃないんだけども」

「馬場店は代で数えてるんですね。歌舞伎みたいでかっこいいなあ」

「新宿はどうなの?」

「うちはシャワー男アルファ、ベータ、ガンマ、オメガですね。でもベータはもう来なくなっちゃいました」

「おお、なんだかよく分からないけど知的だ」

「ちなみシャワーマダムというのも一人いますよ。実際マダムかどうかは知りませんが」

 ほーむ系列店の全店舗には宿泊をする客向けにシャワー室が完備されている。シャワー室の利用には料金が掛からないため、ブースを全く使わずシャワーだけを利用してそのまま退店する常連たちが新宿店にも僅かだが存在する。十五分以内に受付まで戻ってくれば基本料金の百円しかかからないので、そこらの銭湯を利用するより遥かに安上がりだ。バスタオル、歯ブラシ、化粧水などが揃ったシャワーセットなる商品も三百円で販売しているのだが、シャワー目的でしか来店しない客のほとんどは、その類いのものを持参しているらしくシャワーセットを購入することはまずない。

「うちじゃシャワーの間は伝票を預かることになってるけど、その辺は新宿も一緒?」ハルさんが伝票をパソコンの側の小さなかごに入れた。

「そうですね」

「まあ今のシャワー男の場合、預かるとかそういう問題じゃないけどね」

「今の方、えっと二代目はよく来るんですか?」

「週5は来るね。と言っても毎回百円しか会計しないから、うちにとって大した客ではないんだけど」

「確かに。あ、戻ってきましたよ」

 髪が全く乾いていないままシャワー男は早くもフロアに戻ってきた。ドリンクバーでオレンジジュースを一気に飲み干すと、慌てる様子も無くレジの前にやってきた。

「お会計百円ですね」

 それが当然であるかのように、シャワー男はポケットから出した百円玉をトレーに乗せてさっそうと帰っていく。

「おお」僕は男が受け取らなかったレシートを見て驚いた。そこには滞在時間十四分と記されている。

「いつもこんな感じだよ」

「しかしよく十五分ぎりぎりで出られますね。体内時計すごいな」

「俺の記憶では最初に来ていた頃は三十分近く掛けてたんだよ、でもその内もっと早く終えるコツを覚えて、いつの間にか必ず十五分以内に退店するようになった。今じゃどうしても二百円は払いたくないんだろうね。もしかしたら防水の時計かなんか持ち込んでいるのかもしれない。俺だったら二百円払ってもシャワーぐらいもっとゆっくり浴びたいね。見たでしょ、髪も体も全然乾いてなかったじゃん」

 改めて先ほどのシャワー男の様子を思い出す。貧乏な僕でもシャワーくらいはちゃんと浴びたい。

「馬場店もシャワー室使ったらすぐ清掃に向かいますよね?」

「そうだね」

「じゃあ僕清掃してきます」

「悪いね、じゃあよろしく頼むわ」

 ハルさんを残して三階のシャワー室に向かう。

 階段を上り終えた辺りでぐーぐーと大きないびきが聞こえてきた。隣の客からクレームが入らないか少し心配だ。

 シャワー室に着くとサンダル、靴下を順に脱いだ。シャワー室を清掃する時に感じる不快感は新宿店も高田馬場店でも変わらない。排水溝に絡まった髪の毛やらを取り除き、内壁のぬめり、水垢などをスポンジで磨き、最後にシャワーで洗い流す。またシャンプーやボディソープなどの残りが少なくなっていれば補充もしなければいけない。

 シャワー室から出ると有線はビートルズからヒップホップに変わっていた。ハルさんの好みなのかもしれない。三階の奥から聞こえてくる大きないびきは、先ほどのビートルズよりは違和感がなくなっている気がした。


 出入り口から現れたのはほーむ高田馬場店店長の加納さんだった。今年三十歳のはずだが、かなりの童顔のため大学生と言っても十分通用する。

「おはようございます」

「やあ森長君、わざわざ今日は悪いね」

 加納さん曰く、もともと今日は高田馬場店に来る予定ではなかったのだが用事が早く片付いたため顔を出しのだという。

「馬場店に来るのは初めてだっけ?」

「そうですね、中野と吉祥寺はありますけど」

「なるほど。新宿と比べると暇じゃない?」

「いやあどうですかね。客はもちろん新宿の方が多いですけど、その分あっちは三人体制ですから」

「そっかあ。倉柳はちゃんと頑張っている?」

「僕が言うのもおかしいですがしっかりやってますよ。ただ最近は盗難事件が起きててそれに頭を悩ませてます」

「あれ、大変みたいだねえ。うちはこの前片付けたけど」

 加納さんが苦笑いをする。

「なんですか盗難事件って?」

 ハルさんも話に加わった。

「八月くらいから新宿で盗難事件が立て続けに起きてるらしいんだよ」

「そうなんです。ちょっと前もサラリーマンが財布盗まれちゃって」

「へえ、新宿も大変だ。逃げる奴を捕まえるのは得意だけど、犯人が分からなきゃどうしようもないな」

 武勇伝を誇るハルさんも肩をすくめる。

「しかし倉柳も新宿が好きみたいねえ」

「と言いますと?」

「実は業務のマンネリを解消するために吉祥寺の店長と倉柳を交代させようという話があったんだよ。でも倉柳が頑に拒否してさ。結局今のままだよ」

 初めて聞く話だ。

「まああいつはもともと新宿のバイト上がりだし、今の店舗への思い入れは他の店長よりも強いのかもしれない」

 倉柳さんがそこまで新宿店に愛着を持っているとは少し意外な感じがした。

 社員となり新宿店の店長に抜擢された頃は十二時間労働も当たり前で月三百時間労働も珍しくなかったらしい。売り上げを伸ばすため常に頭を悩ませていたという話は聞いていたが、最近の倉柳さんの働きを見る限りそれほどの熱意は決して感じない。ひょっとすると逆に新宿店にいる限りは気楽に働けると思っているからこそ、新宿店に留まることに固執しているのかもしれない。

 加納さんは少し迷ったような表情を見せた後言った。

「ハル、少しの間一人でも平気?ちょっと森永君と話したいことがあって」

 ハルさんはパソコンを見て答える。

「今はそんなに人いないから大丈夫ですよ」

「ありがとう。もしなんかあったら電話ちょうだい。じゃあ森永君、ちょっと話したいことあるから下の喫茶店行こう」

 そう言うや否や加納さんは一階の喫茶店に向かい、僕はその後を追った。高田馬場店では店長室がないため、こみいった話をする時は下の喫茶店を使うのだという。

 席に案内されると「どうせ経費だから好きなもの頼んでいいよ。もし腹減ってたら軽食でもなんでもどうぞ」と加納さんに促された。空腹だったが加納さん相手に厚かましいところは見せられない。

「じゃあアイスコーヒーで」

「オッケー」そう言うと加納さんが手を挙げた。すぐにウェイトレスがやってきた。

「アイスコーヒー二つ」

 煙草に火を付けると加納さんは神妙な表情で語り出した。

「これは絶対ここだけの話にして欲しいんだ」

 このような言葉で始まる会話はだいたい深刻なものになるので、僕は少し気を引き締めた。


「この間ね、品川店の店長と少し話をしたんだけど、ちょっと気になることを言っててさ」

 品川店店長の重たそうな一重瞼とやり過ぎとも言える細い眉を思い出した。

「だいぶ前、品川店の店長と倉柳が二人で飲み歩いたらしいのね。あの二人はプライベートでもけっこう仲良いからさ。その時にだいぶ酔っぱらった倉柳が『奢るからキャバクラに行こう』とか言い出したらしいんだよ。それを聞いた品川店の店長が冗談で尋ねたんだってさ。『お前最近ずいぶんと羽振りがいいな。なんか悪いことでもしてんじゃないのか』って。そしたらあいつは何も言わずににやにやと笑ってて、それがなんとも怪しかったとか」

 一瞬の間の後、加納さんは更に続けた

「さっきも話したように、新宿店でけっこう前から盗難騒ぎが起きているよね?」

 加納さんの言わんとしていることに僕は驚いた。

「もしかしたら倉柳さんが犯人じゃないかってことですか?」

「いやいや、早まらないでくれ。たださっきも話したように倉柳は妙に新宿店にいることを固執してるし、今話した品川店の店長の話もあるしね。もちろん俺もあいつとは長い付き合いだから信じてる。でも馬場店でも結局物販を盗んでたのは身内だったしさあ。あれはけっこうショックだったんだよ。あの物販盗んでたスタッフ、二人とも一年くらい働いててしっかりやってるように見えたんだよねえ。あの件を思い出すとどんな奴でも疑ってかからないといけないと思ってさ」

 会話の冒頭で感じた予感は正しかった。まさか加納さんの口からこんなことを聞かされるとは。

「しかしそれだけのことで倉柳さんを疑うのっていうのはちょっと…」

「それから他にも気になることがあるんだ。二ヶ月くらい前に打ち合わせで新宿店に行ったのね。その時に五階の店長室から偶然あいつの話し声が聞こえてきてさ、その会話の中に『大丈夫、ばれやしないって。何のために俺がここにいるんだよ』っていうのがあったんだよ」

「ええ…」

「あいつ地元の練馬では昔けっこうなヤンキーだったらしいし。もちろん今はちゃんと更正してるはずだけど」

 その話は聞いたことがある。以前吉祥寺店にヘルプで行った時にスタッフの人が教えてくれた。あまりにも嘘くさいが倉柳さんは“練馬四天王”の一人として恐れられていたとも聞いた。

「そういういろんな要素があってね」

「うーん、そうですね。それで僕は一体何をすればいいんですか?」

 加納さんは咥えていたストローを口から放した。

「森永君には特に何かしてもらおうっていうわけじゃない。ただ念のため倉柳の行動に少し目を見張っていてもらいたいんだ、念のためね」

 加納さんは念のためを強調した。

「あと一応もしまた盗難が起きたら俺にその時の状況を出来るだけ詳しくメールで連絡して欲しい。これがメールアドレス」

 そう言って名刺を渡してきた。インターネットカフェほーむ高田馬場店店長 加納健一郎。

「わかりました。本当にこれといって何もしなくていいんですよね?」

「もちろん。そして最初にも言ったことだけどこの話は極秘で頼むね。もちろんハルにも言っちゃ駄目だよ。これはまだ統括本部長と俺と森永君しか知らないから」

 そう言って残りのアイスコーヒーを一気に啜った。

「じゃあそろそろ行こうか。あんまり空けちゃハルにも悪いしね」そう言うと加納さんは伝票を手に席を立った。

「ハルさんに訊かれたらなんて答えればいいですかね?」

 少し考えた後加納さんは口を開いた。

「新宿店の売り上げとか、接客方法とかそんなことを訊かれたって答えればいいじゃないかな?」

 僕は頼んだアイスコーヒーを半分ほど残したまま加納さんの後を追った。「ありがとうございました」とウェイトレスの声が後ろから聞こえてきた。


「ハル、悪かったね」

「いえいえ」ドリンクバーの清掃をしていたハルさんが答えた。

「じゃあ俺はもう帰ります。とりあえず森永君、今日はありがとう。またよろしくね」

 そう言って加納さんはほーむ高田馬場店を去っていった。よろしくという言葉が少し気を重くさせる。

 加納さんを見送ったハルさんがさっそく尋ねてきた。

「さっきの話ってなんだったの?」

 あまりにも予想通りの展開に僕は用意していた答えで返した。

「いや大した内容じゃなかったですよ。新宿店の売り上げとか接客方法とか」

「ふーん。俺はてっきり新宿で起きてる盗難事件のことを訊かれてるのかと思ってたよ」

 ハルさんは案外勘が鋭いのかもしれない。

「そういえばそれもちょっとだけ訊かれました」

 少しだけ気まずくなった僕は清掃が溜まっているのに気付き、ダスターと消毒用エタノールを持ってフロアの奥に逃げるように向かう。

 途中ですれ違った中年男は長期間体を洗っていない者特有の臭いを発していて、新宿店の常連焼き鳥の不潔な姿を思い出させた。


「おはようございます」

 時刻は二十三時十五分。高田馬場店の中番の退勤時間は新宿店のそれよりも三十分遅い。現れた眼鏡を掛けた若者は僕を見て少し驚いたようだ。

「どうも、新宿店からヘルプで来ました森永です」

「あ、どうも」

「森永君、こいつが噂の比嘉だよ」

 噂の比嘉君との初対面だ。度の強そうな眼鏡の奥にぱっちりした二重瞼が見える。

「ちょっとハルさん、まさか例の件言っちゃったんすか?」

 タイムカードを切った比嘉君は嘆くように尋ねた。

「心配すんな。どうせ最初から新宿店にも知れ渡ってるらしいぞ」

「本当ですか?新宿店には行けねえや」愚痴るように言うと比嘉君は着替えるため三階へ向かった。

「あいつ間抜けだけどなかなか面白い奴なんだよ」

「なんとなく分かります」

 少しするとさらにもう一人遅番のスタッフが現れた。僕とハルさんは比嘉君たちに引き継ぎを終え、着替えを済ますと高田馬場店を後にする。

「お疲れ様でした。ではまた」

「お疲れ様でした」

 一階の喫茶店はやはりこの時間には閉まっている。さきほどの加納さんの話を思い出して少しだけ気分が重たくなった。

「今日はどうだった?」ハルさんが尋ねてきた。

「いやあ慣れないと妙に疲れますね」

「分かるよそれ。俺も吉祥寺行った時とかそうだったもん。別に嫌なスタッフがいたとか、鬱陶しい客がいたとかではないんだけど、やっぱり“ホーム”がいいよな」ハルさんは大きく頷く。

「そうですね」

 高田馬場はこの時間になると昼間とは変わってだいぶ人通りが減っている。ここが朝まで人で賑わう歌舞伎町とは異なる点だ。

「あ、どうも」

 ハルさんはコンビニの前で缶チューハイを片手にフランクフルトを頬張っている小柄な男を認めると軽く挨拶を交わした。

「知り合いですか?」

「馬場店の常連だよ。“ロッキー”って言うんだ」

「へえ。ボクシングをやってるんですか?そんな風には見えないなあ」若かりしスタローンの精悍な顔付きを思い出していると、隣でハルさんが鼻で笑った。

「違う違う。一度あいつが使ったブースになぜだかグラスに入れられた生卵があってさ。ロッキーでスタローンが生卵をジョッキに入れて飲むシーン知らない?それからあいつはロッキーだよ」

 振り返るとロッキーは缶チューハイを飲んでいた。仮に飲んでいたのが生卵ジョッキだったとしてもボクサーという雰囲気は微塵も感じられない。

「何やってる人なんですか?」

「さあ?俺もよく知らない。ただ中番の帰りに早稲田通りを歩いているとたまに出くわすんだよね」

「ああたまに新宿でもありますね」逃亡犯が古本屋に入っていく光景が頭に浮かんだ。

 やはり高田馬場でも客とスタッフの関係性はあまり変わりがないようだ。滅多に交わることの無い客とスタッフの延長線。このくらいの関係性がちょうど良いのかもしれないが。

「じゃあまたよろしく頼むね」

「こちらこそです。お疲れ様でした」

 ハルさんと改札で別れると、ちょうどやって来た山手線に急いで乗り込む。車窓から見えた早稲田通りの明かりは靖国通りを思い出させた。

 加納さんもハルさんも良い人そうで一緒に働いたとしてもきっとうまくやれるだろう。比嘉君も面白そうで、ハルさんの話だと客層も新宿より良いかもしれない。ただそれでも僕もやっぱり“ホーム”がいいと思った。

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