第15話 兄、参上

 曇天。


 今にも泣き出しそうな雲の下、僕は虚な目をして空を見上げていた。天気予報は外れたのか合っているのか、これから降るのかも。


 情報処理で潰れそうな頭と疑心暗鬼でぐちゃぐちゃな視界を、少しでもスッキリさせようと、普段は飲まない炭酸水の二酸化炭素を飲み、シュワシュワした爽快感と一緒に洗い流して欲しかったが、正直、指先が冷えただけだった。


 下校は基本1人だ。愛奈甘がくっ付いてくるけど、帰る約束をしている訳じゃないし、直も部活がある。


 友人が多いとは言えないが、友人には恵まれていると思う。大人数で群れるより、腹を割って話せる人の方がいい。


 今はイヤホンを付けない。頭がさらに圧迫されるから。


 今日何回目になるのかわからない自己嫌悪に陥りながらも、雪の絨毯を踏み固める。


「………………………はぁ………」


 気分が乗らないのも無理はない。なんたって、今から紗藤家にお邪魔するのだから。


 見慣れた光景だとしても、身内といえど、住んでいない家に入るのは、少なからず緊張するものだ。それが愛奈甘の家となれば尚更。


 しかし逃げるつもりはない。それぐらいの覚悟は、姉貴に打ち明けた時点で決めていた。


 それでも決心が揺らぐというか、「まだ引き返せる」なんて考えが、僕の足を鈍くさせる。


 雪はそこまで深く無いはずなのに足を取られ、底無し沼にハマったように歩くのが遅い。


 砂漠で彷徨う旅人か、変な歩き方をするゾンビのように、ノロノロと歩く。


 囚人の足につけられた鉄球が、僕の足にも付いているのではと思うほど、足が重い。


 それでも何とか、紗藤家の前に着いた。


 昨日も来た。一昨日も来た。しかし入るのは何年振りか。


「…………………………」


 息を呑む。


 心臓の鼓動が体全体に響くほど、強く早く、血が巡っている。つまり、僕は緊張している。


 敷地に入って、2、3段の段差を上り、玄関に着く。


 鉛のように重く、微に震える指で、僕はインターホンを押す。


『ピーンポーン』


「……………………………………」


 無機質な電子音が、スピーカーから流れる。


 インターホンのマイクに拾われてしまうのではないかというほど、心拍音か大きくなる。


 少しの間静寂が流れる。


「……………………………………」


 しかしその静寂は、数分間も続いた。


 念のためと思い、もう一度インターホンを押す。


『ピーンポーン』


 帰ってくるのは無機質な電子音のみ。人の声は聞こえない。


「……………………居留守、か……」


 どうやら、あちらに話す気は無いらしい。


 それならそれで、別にいい。無理強いをしてはいけない。それじゃあ説教と変わらない。


 肩を落としながらも、不思議と胸を撫で下ろし、それでも心に引っ掛かり、なんとなく、本当になんとなく、正面から見える愛奈甘の部屋を見てみた。


 窓から覗いていたのか、一瞬、閉じていたカーテンが揺れた。


「……………………………………」


 今の僕に出来ることはこれくらい。あとは愛奈甘がどうするか、どう思ってどう行動するかで決まる。


 数日前のように仲良し義兄妹になるか、このまま薄れて消えて、瘡蓋かさぶたになるか。


 僕は…………、


 謝りたい。それだけ。


 仲良くなろうと、絶縁しようと、どっちでもいい。


 謝罪したい。謝りたい。ただ、それだけ。


「あれ、佑暉?」


 急に声を掛けられたから、ビックリした。


 そして声を掛けた人を見て、ビックリした。


「久しぶりじゃん。ちょっと身長伸びたんじゃない?」

「………………………兄さん……」

「ウチに何か用事?」


 最後に会ったのは、去年の年末年始だから、約一年振りか。


 くたびれたヨレヨレの短髪に、黒縁の眼鏡。手入れが行き届いてないのか、わざとなのかわからない、少し生えてる顎の髭。


 シワが深くなり、前よりおじさんに磨きがかかってるが、間違いない。間違えるはずがない。


 本当に血が繋がっているか疑いたくなる、目の前のイケメンおじさんは、「栗花落 ゆずる」改め「紗藤 譲」。


「用事がなくても上がってけ。そんな所に立ってたら風邪ひくぞ?」

「…………………………うん」


 僕の兄で、愛奈甘の父だ。




 「とりあえず座れ」と言われ座布団に座り、「コーヒー飲めたっけ?」と言われ「砂糖あれば」と答える。


 不思議な気分だ。


 緊張しながらリラックスしているというか、凄く痛いけど気持ちいいマッサージを受けているみたいだ。


「ビックリしたよ。出張から帰って来たら、家の前に佑暉がいるんだから」


 兄さんは電子ケトルのお湯を口の細長いコーヒーポットに移し、あらかじめ挽いてある豆をドリッパーに入れ、ゆっくりとお湯を入れる。


「急に帰って驚かせようと思ったら、逆に俺が驚くハメになるとは」


 濁ったお湯がポタポタと垂れ落ち、徐々にかさを増す。


「はい。熱いから気をつけてね」

「…………ありがと」


 スティックシュガーとミルクが横に添えられたコーヒーカップを受け取り、目の前に置く。


「母さん元気?」

「父さんも姉貴も元気だよ」

「え?未空も帰って来てるの?」

「うん。まあまあ賑やかだよ」


 去年の正月程ではないけど。


 それに、今は愛奈甘と喧嘩してるから、そこまで賑やかでは無い。


「そっか。せっかく近場に越して来たんだし、俺もちょくちょく顔見せないとな」

「母さん心配性だもんね」

「言えてる」


 コーヒーに砂糖とミルクを入れ、スプーンでかき混ぜる。兄さんはブラックで飲んでいる。


「最近学校は……って、佑暉3年生だっけ?」

「再来月から大学生だよ」

「…………そっか。早いなぁ、子供の成長って」


 兄さんもちゃんと老けてるよ、なんて冗談は言えなかった。


「…………学校は楽しいよ。成績はもう大学に行かないから、みんな遊び半分で」

「大体はそんなもんだよ。高校生でいられるのもあと僅か。最後の青春かもしれないんだから、各々謳歌して、後腐れなくさ」


 ブラックコーヒーをズズズと啜る。


「それで、何か悩み事でもあるの?」

「………………どうして?」

「顔に書いてある」

「………………………………」

「ってのは嘘で、佑暉がウチに来ることなんて滅多にないし、いつにも増して元気ないから、そんな所だろと思ってね」

「………………………………」


 なぜわかった。


「そりゃあ佑暉の倍以上生きて、佑暉が生まれた頃から知ってるからね。それぐらいわかるよ」


 いや、心の声は読まんといてよ。


「察するに、愛奈甘となんかあったとか?」

「まぁ、そんなとこ」

「なるほどね」


 丸裸とはこの事。血の繋がり故とはいえ、いささか鋭過ぎないか。


 コーヒーを飲む兄は、さっきの茶化すような顔色ではなく、キリッとした澄まし顔をしていた。


「愛奈甘、昔から佑暉にべったりだったから反動が大きいんだろ」

「……………………ん?」

「親が口出しする内容じゃない。若い子に任せた方がいいと、頭では十分わかっているんだけどね……………」

「えっ、まって」

「ん?」

「愛奈甘からなんか聞いた?」

「いいや。経験と勘」

「…………………………………」


 姉貴にも勝てないが、兄さんにはもっと勝てない。


「俺が出来るのは、せいぜいサポート。あとは2人がどうするか、どうしたいか、だからね」


 僕の目を見つめながら、兄さんは言う。


「相談役なら買って出るけど、空いてる?」

「いや、昨日姉貴に聞いてもらったから………」

「その割にはスッキリしない顔だけど?」

「今日、人に相談できない事を言われたからさ」


 2件ほどね。


「そっか。残念だね。甘酸っぱい青春聞けると思ったんだけどなぁ」

「………………………姉貴の時も思ったけどさ、実は楽しんでない?」

「そこに娯楽的興味が無いと言ったら嘘になるけど……」


 そこは嘘だと言ってくれ。


「嬉しいもんだよ、相談されるって。打ち明けてくれるってのは、信頼の証だからね」

「…………………………………」

「俺に出来ることは、今はこれくらい。佑暉の相談に乗る事と、家の鍵を開けて、愛奈甘の部屋まで行けるようにする事」

「…………………はい?」

「あとは2人がどうしたいか、だからね?」


 そう言って兄さんは飲み終わったコーヒーを片付け始める。


 僕の目の前には、ミルクと砂糖入りの冷えたコーヒーが、スプーンを入れられた状態で、一口も飲まれず置かれている。

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