第8話 しあわせよ、かたつむりにのって(by実璃)
「切迫早産の危険があります」
診察室で、私たちがそう告げられたとき、菜瑠は妊娠八ヶ月だった。
昨日の夜、いつものように細心の注意を払いつつ、触れあった後、菜瑠がお腹に少し張りを感じると言うので、念のため受診したところ、そのように言われたのだ。
妊娠八ヶ月といえば、赤ちゃんのほとんどの臓器は完成しているけれど、まだ呼吸機能が未発達だ。
また、体温調節や免疫機能も弱く、体重も2000g前後であることから、もしも赤ちゃんが早く生まれてしまった場合、即NICUに入院する必要があるとのことだった。
診察の結果、菜瑠の場合は、まだ入院まではしなくてもいいとのことで、次の診察日まで自宅で安静にするようにとの指示が出た。
「えっちしすぎたかなぁ……」
家に帰るなり、菜瑠がそう言ってため息をつく。「ベビちゃん、ごめんね」と言って、しょんぼりした様子でお腹をなでる。
「菜瑠……ごめんね。今日からは安静にしないとね」
「うん……さみしいけど……仕方ないよね」
私は菜瑠の髪をなでて、頬にキスをする。菜瑠もお返しに、私の首筋に吸い付いてくる。いきなりそういうことされると、こちらの心臓が早速もたなくなるから困る。
「そこは反則だからだめ」と止めたら、「実璃は敏感すぎるんだよ」などと言って、いたずらっ子のように笑っていた。
「しばらく動けなくてつらいと思うけど、赤ちゃん産まれたらなかなか休めなくなるんだし、今のうちにゆっくりしてなよ」
「そうするー。あ、たまってたアニメ観ようー。あ、この本も読んでなかった」
私はたまっていた食器を洗いながら、そんな菜瑠のようすを見守る。今日は病院の付き添いといって、念のため一日休暇をいただいてきたから、この隙に、たまっていた家事を片付けてしまわないとな、と思う。
このところ、菜瑠は本当に、大人になったなぁ、と思う。
まあ、ママになるんだから、大人になってくれないと困るんだけど。
でも、学生の頃のあのわがままっぷりに比べたら、今の菜瑠の姿は本当に奇跡みたいなものだと思う。少なくともあの頃の菜瑠のメンタルだったら、飲酒や喫煙を我慢することすら、できなかったに違いない。
「実璃ーーー。お腹すいたー。ごはんまだー?」
「はいはい。ちょっと待ってて」
菜瑠が一歩も動かなくて済むように、ベッドのすぐそばにテーブルを置いて、そこへ食事を持っていく。
菜瑠もそうだけど、多分、自分自身もそうなんだろうな。
学生の時の私は、菜瑠が他の男たちと付き合っているときも、ずっと自分をごまかして、平気なふりをして、そのせいでやさぐれて。誰のことも心から愛さないし、付き合うこともなくて。
ただ菜瑠の世話を焼いて、表面上は友達として菜瑠のために身を引いているように見せながら、その実は、自分の感情に蓋をして、自分のことばかりしか考えていなかったのだから。
あとになって、実は菜瑠も私のことをずっと好きでいてくれたと知ったとき、私は自分のエゴのせいで、自分自身のみならず、菜瑠のことも傷つけてしまっていたんだということを知った。
あの頃、もっと早く、菜瑠に想いを伝えていたら、とも思う。そしたら、菜瑠は純平と付き合うこともなく、純平があんな死に方をすることもなかったかもしれない。
だけど、もしそうだったなら、ベビちゃんに会えることもないのだから、人生というのは難しい。
純平には悪いけど、私たちはしあわせにならないといけないから。これから生まれてくる新しい命のためにも。
菜瑠のところへ食事を持っていくと、懐かしい曲がかかっていた。
『しあわせよカタツムリにのって』という、学生のときに歌った、合唱曲だった。
「しあわせよ、あんまり早く来るな……」
菜瑠も私も口ずさむ。
やなせたかし先生の詩はいいなぁ、なんて思いながら。
「ベビちゃんも、かたつむりにのって、ゆっくりおいで」
「慌てることはないからね」
どちらからともなく、そんなことを言って、そっとお腹を撫でた。
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