【拾参】
*
それから更に10日ほど経過した。体はすっかり動くようになり、出された膳の中身は米びつが空になるまで平らげることができるようになった。
(機は熟した――)
動くならば、今しかない。確信した
侍女達がいなくなったのを確認すると、寝衣を脱ぎ捨て、小袖を着込み、馬に乗るための袴を履いた。馬術のためではなく、裾が絞ってあり、動き回るのに都合がいいためだ。総髪にした頭の上から、鶴の小袖を被る。
『お牟宇――』
10日ほど前の、母の泣き顔が思い浮かぶ。
『そなたの身に何ぞあれば、母は生きていけませぬ。どうか、どうか……!』
気丈な母の泣き顔を見たのは、はじめてだった。
部屋の隅の燭台が、揺らめく。ぼんやりとした灯りに、牟宇姫は魂を吸い込まれそうになった。慌てて、唾を飲み込む。
(まだだ。まだ、この命、誰にもやるわけにはいかぬ――)
政宗にもらった短刀を抱き寄せながら、御簾を払い除けながら外に出る。睨みつけるように辺りを伺っていると、顔の上に何かが落ちた。月の光にうっすら照らされたそれは、結んだ文――投げ文らしい。慌てて天井を見上げても、当然誰もいない。常人に分かるような穴は空いていないというのに、一体誰が。月の光に照らされた下で、広げた文に目を落とす。
【沢門にて、お待ち申し上げる】
見た記憶のある女文字である。
(侍女に書かせたのか……?)
常々牟宇姫に対しても「文字くらいは自分で書けるように」と言いつけていた
間違いなく、罠である。五郎八姫は、本気で牟宇姫を殺すつもりなのだ。今まで惜しみなく向けられた笑顔すべてが偽りだったのかと思うと、鼻の奥がつんと痛む。しかし、行かなければ、政宗への誓いを違えることになる。交わした杯を裏切ることは許されない。たとえ牟宇姫が死んだとしても、武家の者に二言はない。
(せめて、すみの顔を見てから行こう)
数日前、すみを診に来た薬師は、覚悟を決めておくように、と言っていた。曼殊沙華は体に入れた量が多いと、意識が戻らないこともままあるらしい。手を尽くしてくれたことは分かっている――しかし、そんなことを言う薬師が許せず、牟宇姫はやぶ医者め、と罵りながら追い出した。
(わたくしが決める覚悟は、命を捨てる覚悟、それだけじゃ。誰かを失う覚悟なぞではない――)
すみの部屋を覗く。病人がいるのを誤魔化すために焚かれた、香の匂いが不快に漂っている。
「すみ、入ります――」部屋に入った牟宇姫は、え、と声を漏らして固まった。
「すみ……?」
すみが寝ていたはずの褥は、もぬけの殻だった。慌てて敷布に触れた。布の表面には温もりがなく、誰かが眠っていたとは思えないほど、冷えている。
(すみ、まだ起きられないはずなのに……。どこに行ったの……)
人を呼んで来なければ、しかしもしかしたら厠へ行っているだけかもしれない。どう動くべきか頭を悩ませていると、目の前にまた、例の結び文が落とされた。中を開くと、
【怖気づいたか】
と、記されている。
(馬鹿にして……ッ)
牟宇姫は天井を睨みつけた。隙間などない、手入れの行き届いた板に向かって、高らかに宣言する。
「あなたの思うとおりになど、なるものか! そう、そなたの主に伝えておくがいい!!」
皮肉を言うすみの顔を思い浮かべながら、牟宇姫は庭に降り、館の外へ出た。深夜に部屋を抜け出したためだろうか。高揚感にも似た不思議な感情を覚えずにはいられない。
望月が、地面を照らす。館が青白く輝く光景を目にしながら、牟宇姫は鞘に彫られた雀の羽を撫でた。
屋敷から随分離れた時だった。
「――姫」
「ひっ」
息を呑みながら、短刀から鞘を引き抜く。
「く、来るなっ! わたくしを、誰と心得ておるのじゃっ!」
力任せに、ぶんぶん空を切りながら短刀を振り回す。すると、何かが切れる音がした。実際には大したことはないのだが、体験したことのない手応えに牟宇姫はうろたえた。
「……ッ
「く、
掌を押さえていたのは、
「す、すまぬ」牟宇姫は髪を結っていた藍の結布を解いた。根本を元結できつく結んであるため、総髪が崩れることはなかった。「少し脅かすだけのつもりで、本当に怪我をさせるつもりはなかったのじゃ」
「分かっております」宗昭は痛そうな顔をしているくせに、なぜか安堵していた。「姫がご自分を守れるお方で、ようございました」
「……馬鹿」
牟宇姫は頬を膨らませた。
「そなたは、怒ってよい立場なのに。いきなり斬りつけられて……怪我までさせられて……」
掌を包み込むように、結布を結ぶ。出血はそれほどでひどくはなく、鮮血が結布に滲み出すこともなかった。
「……ところで、熊。なぜここに……?」
「御屋形様から、姫をお守りせよ、と」
やはりか、とうんざりする。政宗には、宗昭には知らせなくて良い、とはっきり言ったはずだった。
「某は、知ることができてようございました」
「……手柄を挙げられるから?」
「そのようなもの、どうでもいい」牟宇姫の言葉を斬り捨てるが如く、宗昭は叫ぶように言った。「俺は、姫を守りたい。だから、御屋形様に教えていただけて嬉しゅうございました。……でも、姫に知らせていただけなんだこと、とても悲しゅうございました」
宗昭の腰には、刀が居座っている。宗昭は元服した――と言っても祖父の後見を得ながら、恐る恐る政務をこなしている、童である。慣れぬ獲物を手にした宗昭は、眉根を悲しそうに下げていた。
(こういう顔は、
牟宇姫は宗昭に返事をせず、歩き出した。後ろからもうひとつ心地よい足音がついて来る。そのお陰で、部屋を抜け出した緊張感は解れ、牟宇姫はゆっくりと地面を踏み締めて行った。
*
ゆっくりと、沢門へ向けて足を進める。しんと静まり返った一帯は、虫の鳴き声ひとつ聞こえない。生ぬるい風だけが、牟宇姫と宗昭を一瞬抱き寄せ、揶揄するように離れて行った。
足場が良いとは言えない道をゆっくり踏み締める。
「姫、転ばぬようにお気をつけて」
分かり切った忠告を受け取りながら、前方を見つめる。石垣の上に、ぽつりとかがり火が見えた気がした。
牟宇姫は悲鳴を上げる間もなく、その場に転げた。宗昭が上から覆い被さる。地面に隠された勢いで、輿を強かに打った。松明を投げつけられたのだ。
足元が、ごう、と音を立てて燃え上がる。揺れる火の向こうに、般若の顔が見えた。華奢な方からして、女であることは間違いなかった。あの背丈は……思い浮かびかけた人物の名を、牟宇姫は振り払う。まだ決まったわけではない。
「――目的は、なんじゃ」
般若は答えない。焔の向こうで、ただ立ち尽くしているだけである。しかし、その手には小太刀がある。宗昭は腰の刀を抜いた。般若はそれを合図に、こなれた動作で飛び上がる。牟宇姫は咄嗟に身を縮めたが、般若が火を飛び越え、宗昭に斬りかかる方が早かった。牟宇姫のすぐ傍で、火花が散る。宗昭の目の前に、刃が振り下ろされた。だが、般若の女の方が圧倒的に刀の扱いに慣れている。宗昭は徐々に押されつつあった。
牟宇姫は短刀から鞘を払った。――は、いいものの、どう扱うべきか分からない。無我夢中で振り回せばいいのかと悩んだ時、
「――動いては、なりませぬ」
聞き慣れた声が響き渡った。顔を上げるよりも先に、般若が吹き飛んだ。宗昭が刀を落とし、後ろに尻餅を突いた。牟宇姫は、自分の前に現れた女人の身のこなしにまず驚き、続いて、駆け寄って来た姉の姿にまた驚いた。
「牟宇姫、無事どしたか?」
息を切らした五郎八姫と、その侍女であるたいが駆け寄ってくる。五郎八姫は何も答えられない牟宇姫の様子を眺めると、優しく微笑んだ。
「五郎八様、どうしてここに……」
五郎八姫は牟宇姫の頬をそっと撫でた。
「思たよりも敵の動きが早うて……。遅なってまいました」
五郎八姫は、牟宇姫の額に自身のそれを重ねると、「無茶は、あかんのえ」と叱咤した。「あんたになんかあったら、悲しむ者は大勢いてはるんや。私は勿論、父様も、お山の方も……。危ないこと、二度としいひんで」
五郎八姫の双眸は、まっすぐだ。だからこそ牟宇姫が目を反らすことを赦さず、姉姫の言葉は体中にしみ渡って来る。
「私達は、誰かにいつも守ってもろてる。そやさかい、そのことを誰よりも感謝して、自覚せなあかんのや。今はまだ、そなたは伊達家の姫の名しかありまへん。やけど、生きて行けば、生家だけ大切にしとけばええちゅうわけでもない。守らなならんものが増えていくんや」
五郎八姫は牟宇姫の傍から離れた。項垂れた宗昭の傍に近寄る。よく見ると五郎八姫の腰には小太刀があり、牟宇姫同様に馬乗り袴を履いていた。
「
宗昭の肩がびくりと揺れる。宗昭が伏せるよりも先に、五郎八姫が言葉を浴びせた。
「ようやってくれました。我が妹・牟宇姫を守ってくださった恩、一生涯忘れまへん」
「否」
宗昭は苦しそうに顔を歪め、拳を地面に打ち付けた。
「某は、何もできませなんだ。牟宇姫をお守りになったのは、某ではありませぬ。一の姫様の……」
「そやけど、そなたが姫を守ろうとしてくれた事実は変わらへん。そなたがいいひんかったら、牟宇姫は間違いのう殺されとった」
「時を稼いだだけにございます。一の姫様がいらしてくださる、ごくわずかな間だけ……」
「そう。そなたは、時間稼ぎはできた。時間稼ぎだけはな」
断言された宗昭は、項垂れた。五郎八姫は、妹の許婚を冷たい目で見降ろした。牟宇姫が今まで向けられたことのない、感情が一切ない表情である。
「悔しいか」
宗昭は、顔を上げなかった。
「やったら、強ぅなり。――これはお願いやなしに、命令や。そなたは、牟宇姫を託せる男やと、父上も私も思えたお方。そやさいかい、強なってくれな困る。角田は国内といえども、呼ばれてすぐ駆け付けられるほどやないさかい。そなたひとりでも牟宇姫を守れる男になりなされ」
宗昭が今まで学んだのは、今世の――戦なき世――の武芸である。型は美しくとも、戦国乱世では到底通用しない剣術だ。
五郎八姫が徳川に嫁いだのは戦国の世――別れたのもまた、戦国の世のことである。戦を目の当たりにした五郎八姫だからこそ、宗昭にかける言葉には重みがある。
「お方様」
五郎八姫が顔を上げた。釣られて、牟宇姫も顔を上げる。
「
五郎八姫が踵を返した。柊、と呼ばれた女は、般若の女に刀を打ち据えそのまま取り押さえていた。先ほど見た時、柊は一切の容赦なく、般若の肩を斬りつけていた。般若は転げ、面ごと顔を地に打ち付けていた。ひびが走り、ぱりんっ、と音を立てて般若面が割れる音が響き渡った。
「姫――」恐る恐る、割って入ったのは宗昭であった。宗昭は額に汗を浮かべながら、牟宇姫に掌を差し出している。牟宇姫は迷うことなく手を取り、引き起こしてもらった。
「なぜだ、柊ッ!!」
般若面の、悲痛な叫びが響き渡る。憎悪にも似た感情がぶつけられているのは、五郎八姫に対してでも、牟宇姫に対してでもない。柊と呼ばれた女に対してであった。
牟宇姫と宗昭は、互いが無事であることを簡単に確認するとすぐに手を離し、騒ぎの方に近づいた。
「そなた、上様の命に背き……そこの外様どもに従うたと申すのか!!」
燃え上がる炎に照らされ、女の顔がはっきりと浮かび上がる。牟宇姫の胸の裡にも、ひびが走った。
「なぜ、そなた達がそこに……」
般若面の間から顔をあげたのは、伊達家を去ったはずのおりである。しかし、牟宇姫が驚いたのは、おりだけではなかった。
「……すみ……――」
すみは苦々しそうに、青白い顔から一層血の気を失せさせながら、小太刀を落とした。炎が爆ぜる音と、刃が地面に落ちる音が牟宇姫達を包み込んだ。
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