第37話 ブレイン・イーター

 夜の臨海公園は静かだった。公園といっても整備された道と休憩用の東屋があるくらいで至ってシンプルな造りをしている。崖から数メートル手前に柵が設けられていて『侵入禁止』の看板が立てられている以外は、なかなか雰囲気の良い場所だった。

 僕はすぐに相手の姿を見つける。東屋で黒い影が手を振っていた。

 こんな時間にこの場所にいる人物はひとりだけだろう。

 緊張で足が硬っていた。唾を飲み込み、深呼吸してから歩き出す。

 東屋は4メートル四方といった大きさで、屋根と腰掛けが備えられている。

 壁がないので園内と海のどちらでも一望できた。

 ちょうど月が雲から出てきて明るくなる。照らし出された銀髪の女は神仏みたいな微笑みを浮かべてベンチに座っていた。

 当たり前のように斎庭リエの姿をしている。


「座りなよ、鏑木くん」

「いえ、結構」


 胸の高さで両掌を見せてやんわりと断る。

 座ってしまったら尻ポケットに隠した拳銃を咄嗟に取り出せない。もともと頼るつもりなんてなかったのに、ここにきてホルスターごと借りておくべきだったと後悔する。

 斎庭リエはガニ股で腰掛け、修行僧みたいな印を指で作って両手を組んでいた。リラックスしているのが見て取れる。僕とは正反対だ。


「話をするのは構いません。その前に新咲さんにかけたを解いてもらえますか?」

「なんのことかな?」

「とぼける必要はありません。煌煌館の船越さんから、あなたのことは聞いています」

「あれ? ボクのこと知っていたんだ」

「つい先ほどですけどね」

「まぁ、それなら話が早いね。ところで人間って何分くらい直立していられるか知っている?」

「体幹によりますが新咲さんくらいの年齢ならあと30分といったところでしょう。それ以上は足に血液が溜まってバランスを崩します」

「じゃあ、10分で話を済ませるよ」


 こいつは、新咲さんがちょっとでもバランスを崩せば足元の椅子が落ちて首を吊るという悪趣味な仕掛けを作った。おそらく、入り口のドア開閉や足音が聞こえた時点で前へ踏み出すようなもかけている。

 完全に相手のペースに呑まれていて話が進まない。けれどここで無用な反発をしても危険が増すだけだ。

 制限時間の中で交渉するしかない。最悪、拳銃を使って脅す必要も出てくる。弾丸を武器にするなんて、言葉で戦うフリージャーナリストにあるまじき行為だ。できればやりたくないが新咲ユリの命がかかっているなら仕方ない。


「では、話を聞かせてください。テーマは?」

「魂と死後の世界について」

「スピリチュアルですね」

「実体験さ。録音はしなくていいのかい?」


 僕はスマートフォンを取り出し、ベンチの上に置いて録音を開始する。片手が塞がるのは避けたかった。

 斎庭リエの形をしたそいつは何か言いたそうだったが、すぐに視線を海の方に向けて語り出した。


「人間が人間を食べる事案がもっとも発生したのは海だろうね。船が遭難して食料が無くなれば共食いするしかなくなる」

「メデューズ号のいかだ、 希望の夜明け号、ひかりごけ事件……枚挙にいとまがないですね。キルレシアン航空211便墜落事故だけは特異と言えます。あぁ、ドナー隊遭難事件は同じく雪山での悲劇でした」

「もっと特異な例だと、古代中国には美食としての食人も存在していたさ。向こうの言葉では契人チーレンと呼ぶ。肉だけじゃない。饅頭の皮を人間の血に浸して食べた時代もあったそうだ」

「それと魂にはどんな関係が?」

「焦らないでよ、鏑木くん」


 第6の人格は笑い、僕を見た。

 表情が硬いという自覚はある。こんな無駄なおしゃべりに付き合っている時間なんて無い。

 明確なタイムリミットなんて存在していないのだ。

 新咲ユリの足にいつ限界がきてもおかしくはなかった。


「また、中国の薬膳に同物同治どうぶつどうじという考え方もある。体の悪い部分を治すために、そこと同じ部位のものを食べるってことだね。心臓が悪ければ心臓ハツを、胃が悪ければガツを、肝臓が悪ければ肝臓レバーを。もちろん、牛や豚の」

「つまり、を食べた斎庭さんは頭が良くなったということが言いたいんですか?」

「どうだろうね。以前と変わったことは確かだけど」


 斎庭リエは……いや、彼女の中に巣食う第6の人格・は笑顔を消し、興味なさそうに天を仰いだ。

 僕は、銀髪の女の後ろに痩せた若い男を幻視する。そいつの生前の姿も、死んだ後の頭蓋骨も、写真で見たことがあった。そのときはこんな邪悪さなんて微塵も感じていない。


「船越支部長からは何を言われたの?」

「斎庭さんの中に、死んだ筈の与野村さんの人格が存在している……と。しかも、生前の記憶を正確に引き継いでいると明言していました」

「ボクだって証明するのは大変だったよ。煌煌館の教義を暗唱して、ひた隠しにしている不祥事を全部しゃべって、幹部クラスの連中しか知らない父さんの悪い癖まで話して、ようやく信じてもらえたくらいだからね」

「あり得ない現象です。死人の脳みそを食べて、その人の人格や記憶を継承するだなんて」


 電話越しに聞いた船越の震えた声を思い出す。

 彼は自分が話していることが妄想の類でないことを、どうにかして僕に伝えようとしていた。

 第6の人格は、与野村誠本人であると。

 斎庭リエが苦悶の末に生み出した仮想人格ではなく、この世に与野村誠として生きた精神と記憶がそのまま内部に残っていると、そう説明してくれた。


「けど、目の前にそういう人間がいるんだ。器はリエちゃん、中身はボク。なかなか安定しなかったけど、最近は調子がいいよ」

「もうひとつ、船越さんが言っていたことがあります。煌煌館に身を寄せた斎庭リエさんがどうして軟禁されていたのか? どうしてカウンセラーを付けられていたのか? その理由です」

「へぇ?」

「生き返った与野村誠は非常に危険だ、と。言葉だけで他人をコントロールできると言ってました」

「そんなのはある程度、誰でもできることだと思うよ」

「えぇ、軽度のものであればそうでしょうね。でも、あなたの場合は違います。船越さんたちの前で力の一端を披露したそうですね。あまりにもコントロールする相手への強制力が強く、その気になれば自傷させることもできた。だからと称されました」

「……」

「あなたを観察した結果を話してくれました。まず能力には制限があって、暗示をかけるまで時間がかかります。何度か話したり、会ったりしないとダメだそうですね」

「いやぁ、船越支部長にしては情報の大盤振る舞いだ。ボクが話した以上に、ちゃんとボクの力を理解できているね。父さんに認められていただけあって、あの人はやっぱりすごいよ」

「彼は後悔しています。カウンセラーの川岸涼太さんが自殺したのは、あなたのかけた暗示が原因だったのではないかと疑っているんです」


 最早、どちらの名前で呼ぶべきか僕自身も迷っている。

 斎庭リエの顔をした与野村誠はまた柔らかい笑みに戻った。

 今にも尻のポケットから拳銃を取り出してやりたい。そんな衝動に駆られる。


「先に、鏑木くんから話してくれた方がスムーズに事が進みそうだね。君はボクに何か聞きたいんじゃないかな?」

「僕の取材を受けようと提案したのは、斎庭さんじゃなくてあなたですね」

「そうだよ」


 返答は一瞬だった。考え込む様子すらなく、言葉は薄っぺらで軽い。

 そのことで僕自身の体温が僅かに上がった。

 どうにか表面に出さないように言葉を続ける。


「あなたは僕にも暗示をかけようとした。けれど川岸涼太さんはその兆候を見て、タブレットPC越しの面会を何度も止めていた」

「ご明察」

「だからあなたは先に川岸涼太さんを始末した。カウンセリングを受ける中で暗示をかけ、自殺させた」

「ノーコメントだね。録音されているのに他人への殺意なんて認めちゃいけない。まぁ、立証することは不可能だと思うよ」

「川岸涼太さんがいなくなったことで僕は斎庭リエさんと直に会うことができました。船越さんは現状に頭を悩ませていたから、外部の人間である僕が関わることで何かしらの打開策を得たかったんです。あなたはそれを見越していた。あのとき、信者が暴れたのもあなたが仕掛けておいた暗示ですか?」

「それもノーコメント。暴力沙汰はよくないね」

「あとは斎庭さんの身体能力があって、軟禁状態を脱しました。しばらく僕の家に住み着いていた理由は何でしょう?」

「世の中の動きを知っておきたくてさ。でも、探偵しんざきちゃんに見張られていてやりにくかったよ。まぁ、そのおかげで接触時間が長かったから深い暗示をかけられたんだけどね」

「煌煌館の外部から接触を試みた僕は、あなたにとって都合が良かったわけです。脱走するためのキッカケとして。つまり僕は操り人形だった。違いますか?」

「鏑木くんがどう感じるか次第だよ。リエちゃんへのインタビューは完遂したんだからそれでいいじゃない」


 どう捉えればいいのだろう。心の赴くままではいけないと、そう直観する。

 与野村誠は暗躍をほぼ認めていた。

 ベースとなるのは到底、信じがたい超常現象だ。そこをクリアしてしまうとこれまで振り回されてきたものが何だったのか鮮明になる。


「最後に、僕からは2つだけ」

「どうぞどうぞ」

「いつからあなたは斎庭さんに内在しているんです?」

「スープにされて食べられた翌日だったかな。気付いたら、リエちゃんの中に存在していたんだ。そのときはパニックになったけど、誰も怪しむ者なんていなかったよ。4,000メートルの雪山でみんな死にかけていたからね」

「もうひとつ。あなたは今でも、斎庭さんのことが好きなんですか?」

「あれ? 質問は、そんなことでいいのかな? ボクの目的だとか、暗示の力をどうやって覚醒させたのかとか、色々あると思うけど」


 そんなこと。

 口から出かけた言葉を反芻しそうになって呑み込んだ。

 与野村誠は不満そうだったので回答を促す。


「えぇ、そうです。教えてください」

「リエちゃんのことはまぁ……もう興味はないかな。ボクは肉体的に死んでいるし」


 銀髪の女はつまらなそうにして立ち上がり、東屋を出る。

 僕も無言で後に続いた。

 臨海公園から見える水平線と、耳を撫でる波の音が歪んでいく。

 果たして今の自分が正常かと問われれば自信を持って「はい」と答えられただろうか?

 それほどまでに異質なが側にいて、僕を蝕んでいた。


「そんなことより鏑木くん。今度はボクが魂と死後の世界について話す番だ。キミは伝えることが仕事だろう? ボクが見た向こう側のことをみんなが知れば、肥大してしまった脳を苛むあらゆる苦しみから解放される!」


 既に、この公園に来てから10分が過ぎている。

 もう時間がない。新咲ユリが落下してしまっていないことを力なく祈るしか無かった。

 いや……冷徹に自分の役割に徹しなかったのが悪い。挽回できるとしたらここしかない。


「全てのものは繋がっていて、全てのものは変わり続けていて、その中で多くの脅威からは逃れられず、最後には必ず命の輝きを失う。けどボクは、繋がりから離れて、変わることなく、命の輝きを失った後でも煌煌と生きている! 父である与野村宗一の教えを超えたんだよ!」


 斎庭リエの姿をした邪悪がこちらに背を向けている。

 僕は尻ポケットから拳銃を抜いて、両手で構えた。

 安全装置を外すと同時に与野村誠はこちらを振り返り、驚いたように目を見開く。

 ただし怯えや恐怖は一切ない。まるで理解できないバカを見るようなツラをしていた。


「なんのつもりだい、鏑木くん」

「これ以上、戯言に付き合うつもりはない。新咲ユリの暗示を解け。それからでもあんたの要求は聞いてやる」

「あのサイコパス女の肩を持つのかい? 言っておくけど彼女、ボクと同じかそれ以上に性格が悪いよ。関わると碌なことがないに決まっている」

「関係ないさ。あの子とハジメさんだけなんだ。困っていた僕に手を差し伸べてくれたのは」


 息を吸う。相手の瞳に呑み込まれそうだ。

 暴発するとまずいのでトリガーに指はかけていないが、距離を取ってあるから引き金を引くには十分。

 狙うのは胴体でいい。一番大きな部位だから多少ズレてもどこかに当たる。 


『何をそんなに悩んでいるんですか?』


 新咲ユリの声が脳裏を過ぎる。

 あの日、道具箱殺人事件の取材で煮詰まっていた僕にかけてくれた台詞だ。

 同時に斎庭リエの目が光り、赤い尾を引いて視界の外へ消える。


「えっ……?」


 目で追えなかった。

 唐突に背中から衝撃を感じて吹っ飛ばされ、拳銃を落としてしまう。

 地面に倒れ込んだ僕は背中に乗られて腕を捻り上げられた。凄まじいスピードで背後に回り込まれたのだとようやく気付くが遅い。

 こんな人間離れした身体能力を持っているのは……


「鏑木、ごめん」


 斎庭リエの声が真上から聞こえ、肩が外された激痛に僕は悶絶した。

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