第27話 脳みそのスープ

 目を覚ますと岩壁に背を預けていた。天蓋と呼ぶにはみすぼらしい布に囲まれ、隙間風が頬を撫でる。すっかり見慣れてしまったベースキャンプの光景だった。

 焚き火が近くにあるから温かかったけど、火の番をしているのは与野村くんだった。幽霊の彼には消火能力なんて無いだろうに。

 起きあがろうとしても体にまったく力が入らない。二の腕から先が痺れて感覚が麻痺していた。足も同様に太ももから先が反応しない。


『僕がいるせいで決断が鈍っているのかもね。しばらく消えておくよ。けど、また会おう。ふもとで……』


 スーツ姿の与野村くんは「バイバイ」と手を振り、天蓋をすり抜けて消えてしまった。また、空の上を逆さまに疾るメデューズのいかだに帰ったのだろうか?

 こうなると一人きりである。泣こうにも舌が喉に張り付いて声が出ない。私が情けない喘ぎを何度か繰り返していると医師がやってきた。

 死んだ目で一瞥し、目を逸らして虚空を見つめる。


 医師は私に語りかけてきた。

 意地を張らずに食べるべきだと。

 その言葉は全部、宙に浮いて滑って消える。なんの重みもない。

 考えるのは与野村くんのことだ。どうして、私を。どうして、私なんかを。

 何度繰り返したところで幽霊野郎は答えないし、自問しても何も浮かんでこない。

 ただただ自分が弱っていく。もう踵を返すことのできない位置に達したけど感慨はなかった。

 意地でも下山してやろうという気概は折れている。


 どれだけ意思が強かろうと、魂が気高くとも、身体が強靭だろうとも、

 どれかが欠けたら、どれかが残りを補う。

 補える範囲を超えたら、ぜんぶが沈む。

 今のわたしは自分のすべてがダメになっていた。

 

 けれど、どうだろう。

 ふと想う。すべてが繋がっているのなら……

 考える力は衰えているのに頭は冴えている。矛盾していた。


「与野村くん」

「……彼は死んだよ」

「ドクターには見えていない。与野村くんは、

「リエ、それは幻覚なんだよ。ダンナさんのことは残念だが……」

「消えなくていいわよ、与野村くん。いつもみたいに鬱陶うっとうしく付きまとってくれていいの」


 医師が視界から消える。確かにそこに立っているけど、フィルタがかかったように見えなくなった。

 代わりに「しばらく消える」と宣言した与野村くんの幽霊が現れた。

 本当に現金な奴だ。ヘラヘラ笑ってやがる。こっちはお腹が空いて気が立っているのに。


『リエちゃん、気が変わったの?』

「与野村くんばかり一方的に条件を押し付けてくるのが納得いかない」

『あぁ、そういうこと?』

「山を降りたら答えるなんてアンフェア。今すぐ答えて」

『ニンジンはゴールにぶら下がっていた方がいいと思うよ』

「ゴールまで走るためにニンジンが必要なの」

『正論だね。答えてもいいけど…… イエスかノーしか言わないようにするよ。閉じた質問をしてね』


 またしても妙な条件を付けてくる。こうやって自分が絶対に不利にならないように立ち回る小賢しさが、いかにも与野村くんらしい。

 栄養が足らないせいで視界は暗いのに、生え際の後退した彼の姿だけがクッキリと見えた。

 ちょっと遠回りしてから本命に入ろう。

 死にそうな私も策を弄することにした。


「ねぇ、『奇食ハンター』の企画は気に入っていたの?」

『ノー。リエちゃんはもっと正統派のアイドル路線で売っていくべきだと考えていたし、社長に直訴したこともある』

「本当に私を煌煌館こうこうかんに入信させたかったの?」

『イエス。別に芸能人ならリエちゃんじゃなくてもよかったけどね。僕には信者集めのノルマがあるんだ。学生時代から結構がんばって勧誘しているけどなかなか成功しないのが悩みでね。芸能事務所のマネージャーになったのも、芸能人を入信させれば信者が入れ食いになると思ったからなんだ』


 こいつ、さらりとノルマって言った。

 それにとんでもない理由で私のマネージャーをやっていた……

 もう怒るだけの気力も無いし、なんだかこのタイミングは的外れな感じがする。


「仕事は楽しかった?」

『イエス。予想外のことばかりで楽しかったよ。リエちゃんと一緒に世界中を飛び回って、色々な経験ができたからね。おかげでに近づけたと思う』

「この世界って、本当にすべてが繋がっているの?」

『イエス。でも説明は難しい。自分の苦しみと向き合っていけば自ずと見えてくるよ』

「命は……最期に輝きを失うんだよね?」

『イエス。これはまぁ、子孫を残すことが僕たちに刻み込まれているせいでもある。世代交代をしない生物は環境に適応できなくなって絶滅してしまうらしいよ。そんな当たり前のことが悲しかったり、苦しかったり、そう感じるように進化してしまった人間の脳は控えめに言ってバグっているよね』

「与野村くんは死ぬとき、悲しかった?」

『ノー。僕は、当たり前のことを受け入れられるから大丈夫』


 しばらく、沈黙した。

 与野村くんはジッと待っている。

 寒さは和らいで光が徐々に溢れてきた。

 死が近い。生き物の部分がそう告げてくる。


 でも、当たり前のことなんだ。

 そう思うと気持ちが軽くなって身体から抜け出してしまいそう。


「いちばん…… 大事な質問をするわ」

『なんだろう? 緊張するね、そういうふうに言われると』


 リラックスした表情とは真逆のセリフを吐き、与野村くんは膝を突く。

 岩に背を預ける私と目線の高さを合わせたのだ。

 掴み所のない黒い瞳が私を捉えている。


「私のこと、好きだったの?」

『……えっと』

「イエスか、ノーか」


 頬を指で掻いて与野村くんは目を逸らした。こんな困った顔するのは、生きていたときですら記憶にない。

 まったく、よく出来た幻覚である。

 

『リエちゃんと仕事していて楽しかったよ。そりゃ、最初は芸能人を捕まえて入信させれば一般の信者も増えるだろうし、父さんの課したノルマもクリアできて少しは見直してもらえるかも……なんて考えていたけど』

「閉じた質問したのに」

『パスするよ。さ、次の質問は?』

「答えて」

『いつになく厳しいね……』

「今死ぬか、山を降りた後で死ぬか、決めかねているの」


 ついには、与野村くんは頭を抱えて唸り始めてしまった。

 中学生か、お前は。そんな反応されると私の方が恥ずかしくなってくる。


『これでノーなんて答えたらリエちゃんが恥かくでしょ? 実質、選択肢ないよね?』

「痩せこけて死にかけてる女に恥もなにも無いわ」

『けどさぁ、アイドルだよ? リエちゃん、アイドルなんだよ』

「羊の脳みそで食レポするのはアイドルじゃない」

『あら、そう?』

「そうよ。さっさと答えないと本当に死ぬわよ、私」

『それは困るなぁ……』

「で、どっち?」


 おかしくて笑い出しそうだった。こんなに狼狽する与野村くんを見れるなら、もっと早く聞いてやればよかった。


『答えは出ていると思うよ。だって、飢え死にしそうなのにこっそり食料分けて、なんだったら僕の遺体で焼肉してもいいって遺言状まで作ったんだから』

「そういうみたいなの好きじゃない。ハッキリ言って」




・・・・・・・・・

・・・・・・

・・・




『好きだよ。一緒にいるうちに情が移っただけだと思うけどね』

「最悪に一言余計なんだから……」




・・・・・・・・・

・・・・・・

・・・



 そんな夢を見ていた。

 すぐ近くに医師が居た。もう与野村くんの姿はない。

 私はエドゥアルドを呼んで欲しいと伝えた。


 肉を噛み切るような力は残っていないし、固形物を胃が受け付けてくれそうにない。

 だから私はオーダーしたのだ。

 人体でもっとも柔らかくて、ボリュームがあって、食べやすい部位を。

 その部分を体力がない者でも食べられるように調理して欲しいと。

 

 老猟師は私の頼みを聞いてくれた。

 白い髭の下で、彼はボソボソと神へのゆるしを呟いていた。

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