第23話 月の兎

 金属片をシャベルの代わりに雪を掘る。岩肌に当たっても掘り続けた。薄っぺらい鋼板はあっという間にひしゃげてしまう。それでも構わず岩を殴った。衝撃が伝わって手に巻いた布の下から血が滲んでくる。

 筋肉が伸びては縮み、血が巡り、体温がどんどん上がっていく。

 これが無駄なエネルギーの発散だという自覚がある。ろくに寒さも凌げない、食べ物もない、下山もできない。そんな標高4,000mの雪山においてバカバカしいことをやっている。けれどやめられなかった。


 深さが足りない。

 別の場所を探す。

 繰り返しているうちにようやく大人ひとりを埋められる穴ができた。

 他の乗客は誰も手伝ってくれなかった。手伝って欲しいと声をかけることもしなかった。


 与野村よのむらくんの体をそっと中へ横たえる。雪と石ころをそっと上にかけてやると申し訳ない気持ちになってきた。

 手を合わせて目を瞑っていると牧師が近づいてききた。私は現地語がわからなかったので、電気技師のフリオを呼んで英語に訳してもらう。といっても語学に堪能でないし、彼もメインで英語を使っているわけではないので翻訳には不安があった。

 フリオは急増のリュックでガチャガチャと金属音を鳴らしながら来てくれた。

 日焼けした肌で体格もいいのに、妙に気が小さい彼は辿々しく会話の橋渡しをしてくれる。

 牧師は弔いをしたいのだという。

 私は「与野村くんは信仰している神が違う」と伝えたつもりだが、果たして理解してもらえたのか。そもそも煌煌館こうこうかんという日本の新興宗教団代は英語で何と呼ぶのだろう?

 Glitter Houseかな? キラキラしている屋敷?


 結局、断ったのに勝手に祈られてしまった。

 その上、鉄骨を組み合わせた十字架まで立てられてしまう。埋葬という重労働には手を貸さず、さも死者を送ったかのような素振りに私の苛立ちは募っていく。


「リエ、怖い顔、してる」


 フリオに話しかけられ、ノープロブレムとジェスチャしておいた。

 私がしたのと同じようにフリオは手を合わせて目を瞑る。これが日本流の弔いだというのを彼は理解してくれたようだ。


「ダンナさん、残念。悲しい」

「うん」


 乗客たちは何故か私と与野村くんを夫婦だと勘違いしていた。与野村くんも「そうです、妻です」みたいに話していたせいで誤解を解く暇もなく、この世を去ってしまった。

 私も面倒なので否定しないようにしている。


「僕も、妻いる。子供も、いる。悲しいの分かる」

「ありがとう」


 彼が優しいのは、墜落事故からずっと知っている。

 フリオは若いから体力に若干の余裕があり、助かろうとする意思も強くて飛行機の残骸から使えそうなものを集めるのも手伝ってくれた。それだけでなく弱っている人を励ましたり、怪我人を運んだり、無線が使えないかと修理を試みたり、色々と仕事をこなしてくれる。

 しかし、牧師の決めた平等な食料分配のせいで、大きな体格に見合うだけのエネルギーが補充できておらず最近はすっかり弱っていた。


「向こうから雲が流れ込んでくるわ。これから天気が荒れる。早くベースキャンプに戻った方がよさそうね」


 私が指した先では、青い空に向けて急激に灰色の雲が流れ込んでいた。遠くに見える山の頂上に裂かれ、雲は回り込みながらこちらへ移動している。雪はともかく、風が辛い。体感温度が一気に下がって動けなくなってしまうのだ。

 そうなる前に防御体制に入る。といっても、かき集めたガラクタを蓑虫みたいにペタペタと纏う惨めな姿になるだけ。温かくはないし、死ぬかもしれないけど、何もしないよりは随分とマシなのだ。


 フリオはキョロキョロと周囲を見回す。おそらく、他に誰もいないことを確認したているのだろう。

 他の連中はだいたいベースキャンプでうずくまっている。資材運びをしてくれる人は殆ど寒さと飢えで死んでしまった。

 猟師だという老人だけは拾い集めた金属片を研いで包丁を作っているかもしれない。その刃物のおかげで布を裁断できるのだからありがたいものだ。


「リエ、聞いて。このままだと、みんな死ぬ。助け、来る前に」

「……」

「偵察の戦闘機、僕らに気付かなかった。みんな、もう死んだ。だから冬キケン、春になったら死体拾う。そう考えているかも」

「じゃあ、どうするの?」

「山、降りる。助け、呼ぶ。まだ生きている」


 至極当然な結論に達したフリオは顔をグイッと近づけて訴えかけてくる。

 私だってそう考えていた。けれど現実問題として、ちょっと間違えば滑落しそうな山の頂上から安全に降りるのは不可能なのだ。

 道もわからないし、風が強くて氷点下に達している。

 今、私たちが奇跡的に生きているのは僅かな食糧を積んでいた飛行機が近くにあって、ぎりぎりだけど風を凌げる場所が確保されているから。


 もしも下山して、夜を迎えたらどうなるか?

 極寒で真っ暗闇の中では人間なんて数時間も持たない。凍えて死ぬか、足を踏み外して落ちて死ぬか。


 仮に下山に成功したとしても近くに住む人を探さなければならない。これは、私の経験からすれば、川さえ見つければなんとかなるように思えた。どんな国でも水の流れる近くにはほぼ必ず村落があるものだ。


「下山には道具が必要よ」

「道具、ダイジョウブ。作った」


 肩から下げた布包みを広げ、フリオは道具とやらを見せてくれる。

 楕円形の金属の輪に紐と小さな刃を取り付けたものが2つ。顎を限界以上に開いた骨格標本みたいな形だ。

 これはアイゼンだろう。靴底に縛り付けて使い、刃を岩や氷に突き立てて滑らないようにするためのものだ。

 さらにピッケルが2本。L字に曲がった先端が鋭利で、ズシリと重い。持ち手には布が巻いてあって落下防止のストラップまで付いていた。

 どちらも店で売っている品から比べれば急増品に過ぎないが、使えそうではある。


「テントも、ある。ダンネツザイで寝袋も、作った。ロープもアル」

「もしかして、猟師のおじいさんが?」

「そう。エドゥアルド、器用。僕も手伝った」


 あの猟師の名前を初めて聞いた。金属を研いだり削ったりしているところは何度も見かけていたし、裁断用のお手製ナイフももらったけど、まさか登山道具まで自作しているとは思わなかった。

 おかげでエドゥアルドという老人に対しての印象が変わる。


「生き残り、エリがイチバン強い。エリなら山、降りられる」

「でも食糧がない」


 人間は生きているだけでもカロリーを消費する。

 動くとなればなおさらだ。エネルギーは食事で得て、脂肪に蓄えられる。途中で力尽きては元も子もない。

 フリオはまた別の包みを取り出す。開けると中にはパンやら菓子やらが詰まっていた。


「節約して、きた。だからこれをリエに」

「まさか食べなかったの?」

「少し、だけ食べた」


 牧師がしている食糧だった。それを我慢してきたのだという。身体が大きいフリオは他の人間よりも余計に食べなければならないというのに。


「僕は、また、家族に会いたい。だから死なない」

「奥さんと子供のこと愛している?」

「うん、愛している。帰りたい」

「そう」

「リエは?」

「私は家族と仲良く無いから」


 実家の青果店なんて継ぎたくなかったし、あんな場所で骨を埋めるのはごめんだった。野菜や果物を売って生活するなんて真っ平。もっと自分らしく輝ける場所で戦いたい。

 だからアイドルに強く強く憧れた。大勢を惹きつけて、刹那的だけど美しくて、あぁいう人間になりたいと思った。

 オーディションに応募して運良く合格し、東京に出て芸能界入りした。けれど『奇食ハンター』なんて変なキャラ付けで売り込まれるなんて想像もしていなかった。

 人生経験としてはこの上になく豊富だったけど、親にはどう思われているのか……

 実の娘がテレビで奇声をあげて羊の脳みそや、乾燥させた昆虫の粉末を食べている姿をプラスに考えるわけもない。

 多分、お父さんもお母さんも私が乗っている飛行機が墜落したことをニュースで知っているだろう。勘当同然で出て行った娘なんか気にしていないかも。


「リエ? リエ、だいじょうぶ?」

「あ。うん。平気」

「ダンナさん、最期までがんばった」

「うん。そうだね」


 死んだ与野村くんを夫だと間違えている。確かに一緒にいた時間は長かった。

 けど分かり合えたことはなかったと記憶している。いつだって勝手な男だった。


 そうだ、勝手である。

 勝手に死んで勝手に言いたいことを言い遺して逝った。

 ポケットに仕舞い込んである与野村くんの遺言を思い出す。おおよそ正気の状態で書いたとは思えなかった。

 しかも、私に言い聞かせるために仏教説話まで一緒に記してある。

 悟りだのブッダだの話していたから、もしかして与野村くんは仏教徒だったのだろうか?

 あるいは他の宗教も研究していただけなのか?

 本当によく分からない男だった。


 その彼が遺書の中で持ち出したのは『月の兎』だ。

 飢えた老人を救おうと自らを火に投げ出し、食糧となった兎の物語……




『……このように兎は老人のために犠牲となりました。類型の民話は世界各地にあります。なんらかの動物が自らの命を差し出し、他の命を繋ぐことは慈しみを持つ生物が至る真っ当な結論だと考えます』


『僕は足をやられて自力で動くこともままなりません。痩せ衰える日々の中、白銀の死の世界でも心穏やかで在るために瞑想をしていました。風の音が聞こえなくなり、肌が寒さを感じることもありません。僕は死にかけている僕を遠くから見ていて、その意識はこの雪山よりもずっと高くまで飛べます』


『ようやく悟りが開けたかもしれません。今なら父の言っていたことが分かります。全てのものは繋がっていて、全てのものは変わり続けていて、その中で多くの脅威からは逃れられず、最後には必ず命の輝きを失います』


『でも輝きを継ぐことはできる。煌煌こうこうとした命はどこまでも繋がる。僕はただ凍えて死ぬのではなく、繋がりを持って


『僕こと与野村誠は、斎庭リエが生命を繋ぐためであれば、僕の死後に遺体をどのような目的で損壊しても構いません。罪にも問いません。その意思をここに表明します』

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