第12話 キルレシアン航空211便墜落事故

 青く高く聳える霊峰が雲を裂き、澄んだ大気が鳴動する。

 信仰篤き人々はそこへ頭を垂れ、神霊が住まう領域に畏敬を抱きながら生活を営んでいた。

 生命は地から天へと帰り、魂の通り道となる山々を穢すことは何人たりとも許されはしない。

 そんな価値観が通用したのは何世紀も前のことで、クリストファー・コロンブスの(勿論、皮肉で言っている)からしばらくの間は、ただの山と成り下がった。列強の蹂躙によって神聖性は薄れたのである。

 そんな南米に存在する古き聖域に、キルレシアン航空が運用するチャーター便が墜落したのは21世紀になってからである。


 原因は天候と整備不良と機長の判断ミス。これらが重なって重大な事故へと発展したことが後に判明している。メーデーが好きだという困った連中からは歪んだ愛を一身に受けた事件だ。

 このチャーター便には日本人3名を含む計40名が乗っていた。


 さて、山岳地帯への航空機の墜落と聞いたら乗員乗客の殆どが助からなかったというのは想像がつくだろう。

 日本でも航空機史上最悪の事故が発生したし、飛行機の事故に対するイメージは悪い意味で揺らぐことはない。なお、犠牲者数は単機による事故として最大であるが、2台が絡んだものではテネリフェ空港で起きた惨事がそれを上回る。これは余談だが……


 キルレシアン航空211便墜落事故では35名が亡くなった。5名は奇跡的に助かったのである。

 そのうちのひとりが『奇食ハンター』という番組のロケで現地を訪れていた斎庭ゆにわリエだった。


 ここで注意したいのは、チャーター便が標高4000メートルを超える山肌に墜落した時点では奇跡的にことだ。そのうち10名は衝突時の怪我が原因で間もなく亡くなり、残り22名の命は時間をかけて少しずつ失われていった。

 この死亡者リストの中には与野村誠よのむらまことの名前が載っているが、詳しくは後で述べる。

 墜落現場は生物も植物も気配がなく、雪と岩と風が支配する過酷な環境下だった。あるものは助けを求めて下山中に滑落し、あるものは寒さに凍えて眠るように死んだ。


 この事故に遭った者たちは牧師であったり、電気技師であったり、体育教師であったり、様々な職業に就いていた。彼らは彼らなりの知恵で死者を弔い、飛行機に残っていた物資を集め、穴を掘ってビバークした。

 バッテリーをショートさせて火花を起こし、座席を燃やして暖を取り、断熱材を体に巻きつけて寒さを凌いだ。こうして懸命に助けを待ったのだ。


 事故発生直後から捜索が開始されていたにも関わらず、キルレシアン航空211便の行方は分からなかった。ようやく見つかったのは墜落から3週間後である。

 生存者が飛行機の残骸を雪の上に並べて「HELP」の文字を作ったのを、空軍機が発見したのだ。

 すぐに救助隊が編成され、4名が助け出された。だがこの中には斎庭リエが含まれていない。


 斎庭リエは麓の村まで降りていた。現地の言葉が分からぬ彼女は飛行機事故のことを記した手紙を託され、助けを求めたのである。

 持ち前の体力と身軽さを生かし、生き残った人々を救おうと、4000メートルの雪山を降りたのだ。

 装備を揃えた登山家でも遭難することのある難所を、彼女は断熱材で作った服と鋼板を曲げて作ったピッケルと、犠牲者の服から編んだロープで、乗り越えたのである。


 結果として命懸けの行軍は不要だったかもしれないが、その行動力と勇気は褒め称えられるべきだった。

 いや、憔悴しきって病院へ運ばれ、どうにか立てるようになって帰国した時点では英雄として歓迎されていた。

 それが長く続かなかったのは与野村誠の遺骨が帰国してからである。彼の頭骨は割られていた。

 それが事故によるものではないとし、斎庭リエは真実を発表した。


「脳みそで作ったスープは淡白だった。調味料がなかったから」


 敢えて当時のコメントをそのまま引用する。僕個人は、これは仕方のないことだったと考えている。

 食料となるものは何もない。容易に降りることもできない。気温は常にマイナスで風が吹き荒れている。

 そんな環境で生存者5名が3週間も生きていられた理由は、ちょっとでも想像力があれば分かるだろう。


 雪は天然の冷蔵庫だった。

 飢えが限界に達したそのとき、牧師は埋葬した遺体を掘り起こした。

 己の罪深さ、浅ましさ、それらを神に詫びて話を始めた。生存者たちは説法に耳を傾けたものの殆ど全員が反対した。


 生き延びるために亡くなった人の遺体を食べよう。

 牧師はそう告げた。寒さと飢えで彼が狂ってしまったのかは定かではない。

 しかし狂気の選択こそが生存への唯一の道だった。幸いにも生き残りの中に猟師が居たから解体が容易で、尖った金属片は包丁の代わりとなった。


 最初は損壊した部分からちょっと肉を剥ぎ取り、火に炙る程度だった。

 これを拒んだものは数日のうちに飢えて死んだ。食べなければ体温は上がらない。当然の結果である。

 口にした者でも咀嚼はできず、飲み込むか吐き出すかだった。指や腕の肉は筋力があるせいか硬くて噛み切るのが困難だった。


 次に、皮を割いて内臓を取り出した。猟師は「狐なら肛門から皮を割いて内臓を引っ張り出すんだが」と告げ、淡々と作業を続けた。

 胃や腸は雪で揉んで洗った。こうして骨と皮だけとなった遺体は再び埋葬され、牧師が弔った。

 内臓は串に刺してよく焼いた。不思議と塩っぽい味がした。


 このとき、誰もが「調理すれば胃に収めることができる」と薄々感づいていた。

 より原型から遠く、手の込んだ形にすれば、人肉食の罪悪感と嫌悪感が薄れる。

 栄養を取り戻した生存者たちの思考は明瞭になっていく。山を降るアイデアも次々と湧き出てきた。


 雪を溶かせばいくらでも水はある。

 弱った消化器系にはスープの方がいい。

 食の最適化が図られ、この状況で最も優れた料理が決まった。


 人間の脳をスープにする。脳は柔らかくて骨もない。頭骨を割る手間はあったが、他の部位ほど処理が必要なく、調理時間が格段に短い。

 皆がしばしの間、文明を忘れた。生への渇望はそれほど強く、理性の枷は儚く脆い。


 僕の勝手な想像だが、斎庭リエはそれほど抵抗感がなかったのかもしれない。

 彼女は普段から番組でゲテモノを食べさせられてきた。その中にはサルや羊の脳味噌が出てきたこともある。

 哺乳類の脳味噌を食べた後の斎庭リエは決まって食糧となった動物の真似をしていたが。


 斎庭リエは生き残るために、人間を食べた。

 その中にはマネージャーである与野村誠もいた。

 羽間伸二の話を聞いた限り、二人は付き合っていた可能性もある。


 だから。あのとき。

 記者会見で人肉食を認めた。

 与野村誠の脳味噌をスープにして食した、と。


 それから斎庭リエは世間からバッシングを受けて芸能界から姿を消した。

 今は、与野村誠が信者だったという煌煌館に身を寄せている。




 ・・・・・・・・・

 ・・・・・・

 ・・・




 僕の部屋でポニーテールの女子高生が、なんとも居た堪れない顔をしながら原稿に目を通している。

 原稿というにはあまりにシンプルだから、あらすじだと考えて欲しい。

 ともあれ、探偵気取りの新咲ユリは「はぁ……」と大きなため息を漏らした。


「盛大に首を突っ込んだ気分はどう?」

「意地悪なこと言わないでくださいよ。想像していたよりもグロテスクな案件というだけです」

「黙っていたら勝手に解決されそうだったからね」


 コーヒーを淹れて差し出してやると、新咲ユリはシュガースティックを遠慮なく3本も溶かしてから飲んだ。

 お茶請けのせんべいの塩分で中和して、しばらく天井を眺めてから続ける。


「鏑木さんは、元アイドルの斎庭リエにインタビューしようとしていたわけですよね」

「そうだね。どうにか居場所を突き止めたけど、まともに話を聞けていない。カウンセラーだという男が邪魔なんだ」

「ぶっちゃけてしまうと人肉食なんてあまり珍しくありません。例えば色素欠乏症の人の肉が不死の妙薬だという迷信があって、殺されるなんて事件が海外では多発しています」

「そういうのを未開だと憤るのが、この国の人だからね」

「去勢手術で切られた男性器を食す闇パーティが国内で開催され、警察に摘発されたこともあります」

「男としてちょっと想像したくないなぁ」

「それは別としてキルレシアン航空211便墜落事故は極限状況でした。その場にいなかった人間たちの倫理観を斎庭リエに適用して裁こうとするのはアンフェアです」


 アンフェアときたか。

 実にアンフェアな推理力を持つ新咲ユリが口にすると滑稽な気もする。


「一応、確認しておきます。鏑木さんのクリア条件というのは、斎庭リエの記事を完成させることですよね」

「あるいは諦めて降りるという選択肢もあるけど」

である鏑木さんはそうしませんよ」

「そうだね」

「では、煌煌館のクリア条件はなんでしょうか?」

「僕に記事を書かせないことじゃないのかな」

「それならば最初のインタビューの時点で断ったはずです。それにも関わらず、一度はOKしたのに今は監視なんてしています。おそらく大学の駐車場で警告状を送ってきたのも彼らだと思います」

「つまり、途中から向こうの状況が変わったと」

「そうなりますね。うちのコワーキングスペースで鏑木さんのことを監視し始めたタイミングから考えると……」

「与野村誠のことを探り始めた辺りかな」


 彼は脳味噌をスープにされた男で、もう死んでいる。

 調べられたらまずいことでもあるのだろうか。ただのマネージャーではなさそうだけど。


「事態は硬直しています。楔の一撃を撃ち込むのが得策です」

「女子高生なのに言い回しが渋いんだよなぁ」

「気にしないでください。鏑木さんがコンタクトをとった中で、最も斎庭リエに近い人から攻めてみましょう」

「カウンセラーの川岸涼太?」

「その通りです」

「一度は個人的に会ったけど、煌煌館を変に刺激しそうだな……」


 彼は勤め先の医院には黙って、煌煌館の依頼を受けている。その辺りの事情など関知しないつもりではいるが、また顔を出したらトラブルに発展しそうだ。


「会う必要はありませんよ。調べてみるだけでも案外、役立つ情報が手に入るかもしれません」

「例えば、どんな?」

「う〜ん、敢えて川岸という人がカウンセラーに選ばれた理由でしょうか。クライアントとカウンセラーは露骨に相性が出るという話を聞きます。斎庭リエと相性が良い何らかの原因があるのでは?」

「スランプで何もしないよりマシかな。ところで新咲さんは、これからどうするつもりなの?」

「もちろん、鏑木さんに協力しますよ」

「……事情を嗅ぎ回る手間を省いて、さっさと手を引いてもらいたかったんだけどなぁ」

「それはありません。何故なら私もですから」


 探偵気取りの女子高生は楽しそうに笑ってくれる。

 僕は内心穏やかではなかったし、説得する方法も思いつかなかった。

 荒れた胃にブラックコーヒーが染みる中、僕はハジメさんに連絡した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る