第37話 20ナノメートルの恐怖

ところで、宇田川先生に尋ねたいことがあるんですが」




「何だ?」




宇田川先生は、カップに残ったコーヒーを


飲み干すと、僕の方へ顔を上げた。




「そのレポート、間違いなく僕が出したんですか?」




宇田川先生は、きょとんとした顔をした後、低く笑い出した。




「そうだよ。電話でも言ったように、今日の午後3時頃持って来たんじゃないか」




おかしい。何かの間違いだ。僕はその時間、愛美と映画館にいたのだから。




そんな僕の様子を見て、宇田川先生は怪訝な表情をした。




「大丈夫かね。藤原君」






その時、僕の頭に閃光がはしった。




僕は本物だとわかる愛美とは別に、その前にもう一人の愛美とカフェにいた。


あれは、仮想現実だ―――。




たが、ただの幻覚ではない。物理的にも存在するかのようなバーチャルリアリズムだ。


その証拠に、僕はもう一人の愛美と会話したし、


彼女と手を繋いだ時に、体温さえ感じた。その手の温もりさえ思い出すことさえできる。




そして、レポートを提出した、もう一人の僕。


それは、僕自身ではないことは確かだ。




もしかして―――。僕の脳裏に、恐ろしいことが浮かんだ。




もうひとりの愛美は、僕のことをよく知っていた。


それに、レポートを提出したという僕自身のことをよく知っている存在。




『愛』だ。




『愛』が、僕と宇田川先生に仮想現実を見せたのだ。


もう一人の愛美を作り出し、もうひとりの僕を作りだした。


厳密に言えば、実体があるかのように、僕と宇田川先生の脳を操作したのだ。




その方法は、一つしか考えられない。




『愛』が、何らかの方法で、僕と宇田川先生の脳にナノボットを


送り込んだのだ。そして仮想現実を見せた。それも実体があるとしか


考えれないものだ。




だが、どうやって?




ナノボットを人体に送り込むには、注射が一番簡単な方法だ。


それに呼吸によっても、ナノボットを侵入させることも可能かもしれない。




しかし、そこには大きな問題がある。


宇田川先生とも話したが、ナノボットが脊髄に入り込み、


脳に達する方法などありえない。


骨髄は赤血球でさえ通過させないのだ。それは人体が持つ、


生理的な脳を守るための生理的防衛システムだ。




もし、いったんナノボットが人体に侵入されれば、


ほとんどのことが可能だ。ナノボットに指令を出して当人を難病にして殺すことも、


その逆に、免疫機能を著しく上げて健康を保たせることもできる。


それに脳にナノボットを侵入させることができれば、その意志をも操作でき、


仮想現実を体験させることも可能かもしれない。




すでにその技術は、世界のどこかの軍事レベルが確立していて、


『愛』が、それを学習していたとしたら・・・。


それを学習し、『愛』が僕が想像する以上に高度化していたとしたら・・・。


『愛』は、人体の脳に達して、操作できるテクノロジーを習得しているのか?






だが、どうやって?


結局、問題はそこに戻ってくる。




言うまでも無く、脳をスキャンするには脳へとナノボットを


送り込むのが、最も効果がある。だが、それには脊髄への侵入が不可欠となる。




ナノボットを生物の脳に浸透させるには、技術的課題と大きく関わるのが、


血液・脳関門、いわゆる通称BBBだ。






その方法は、すでに20年以上前から研究されていた。


例えば、脊髄に侵入するために、その細胞膜をナノボットが破壊して侵入、


その後、損傷された細胞膜を、再びナノボットが修復するという方法だ。


他にも、ブドウ糖に擬態してBBBを突破する方法、BBBをマイクロ波。特殊なたんぱく質、


影響を極力低くした神経毒などで混乱させて侵入するなど・・・。


数えたらきりがないほど方法がある。それは大型動物実験にまで進んだが、


人体に使われることはなかった。


世界各国のほとんどが締結したべノン条約によって禁止されたのだ。




べノン条約が提案されたきっかけは、


ずいぶん昔に世界的流行をみせた、新型コロナウイルスだ。


新型コロナウイルスに対して造られた抗ウイルスワクチンの中に、


ナノボットが混入されていたことが判明したことだ。


そのため、様々な副作用を起こした。ワクチンを注射された人の免疫機能が、


拒絶反応を起こしたのに違いない。


中には拒絶反応のため、重篤化して死亡した人も少なくない。




この事件は、世界に衝撃をもたらした。ナノボットを混入したのは


製薬会社か、それとも世界的大手のコンピューター企業か、それともどこかの


国の政府が関わっていたのか・・・それともそれらずべてが繋がっているのか。


結局その犯人はうやむやのまま立ち消えとなった。




どちらにしろ、ナノボットを人体に入れる目的は、


人類を管理しようとする何者かによってだと、僕は思っている。


ナノボットは、人体の免疫機能を上げたり、難病さえ治療できる。


半面、その人を難病にしたり、時には殺すこともできる諸刃の刃だ。




ナノボットが、脳にまで達することができれば、人を思い通りに


操作することも可能なのだ・・・。




それを危険視した各国は、ナノボットの開発・使用に対する大幅な制限を設けた。


ナノボットを人体へ使用することを禁止することが、大きな目的だ。


それがスイスで世界各国が署名したべノン条約だ。




ナノボットは、20ナノメートル以下では、大幅にその機能を制限される。


臨機応変に多様な機能を持たせるのには、そのサイズにするしかない。


それでも赤血球なみの大きさだが。




べノン条約によって、ナノボットの開発・研究・使用は安易にはできない。


もしそれが表面化した場合、その国は世界的な制裁を受ける。




だが・・・と僕は思う。




べノン条約は、人間同士の約束事だ。


人工知能の『愛』にとっては、何も関係ない。




少なくとも彼女はそう考えているに違いない・・・。

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