第20話


「誰が不潔なんです。一体何を考えてらっしゃるんですか、エリーゼ様。屋根に上っていただけです」

「クレヌ様!?」


 窓枠に足をかけて中に入って来たのは眼鏡も帽子も外したクレヌだ。呆れたように腰に手を当てエリーゼを見てきたので、いたたまれなくなり部屋を出るべく踵を返したエリーゼ。ドアに手をかけようとして、その手を取られた。


「用があったからいらしたんでしょう?」


(近い近い!!)


「おや、随分といい香りがしますね。これは?」


 首筋に顔を近づけるクレヌから思わず距離を取る。だが、手は繋がれており思ったほど遠くへはいけない。せめてもの抵抗で視線だけは外してみる。


「シ、シャスターです! こちらのお母様にかしていただきました!」

「シャスターですか? シャスターにしても、いい香りすぎやしませんか? コート家でお会いした時も、そう思って不思議ではいたのですが……」

「き、きっと私にはシャスターが合うのでしょうね!!」


 そう慌てて返すと、腑に落ちてはいないクレヌが訝しげな表情でエリーゼを覗き込んできた。


「それで、なんのご用でしょうか?」

「それは、その……」

「その、なんですか? 『折角謝ろうと思った』のではないのですか? 何をです?」


 クレヌを「不潔!」と冤罪で罵った言葉はしっかり聞かれていたようだ。謝ろうと来たのを分かっているクレヌは少々強気に笑っている。そんなクレヌを見ると、エリーゼは言われた通りにする気が失せてくる。負けたようで嫌なのだ。


「……謝りません!」


 再びクレヌから顔を背け、エリーゼは頬を膨らませた。


「だって、謝ろうという気がないのに謝るのは変でしょう? 人に言われて謝るのは違うものね。私が謝っていいと思ったら謝ります!」


 もう決めた! と言わんばかりに言い切ったエリーゼにクレヌは呆気にとられた。


「エリーゼ様、世間ではご令嬢の鑑だと評判でしたが、実際は違いますね。勝手に動くし、拗ねるし、へそは曲げるし……」


 盛大にため息をついたクレヌは、呆れてはいるがどこか面白そうに口元に微かな笑みを湛えている。笑いたいのを我慢しているようだ。


「だって、お父様たちが納得するようにお勉強していれば、魔導師の方を護衛に雇ってくれると思っていたの。まあ、それが違うと気付いた今となって思えば、不必要な努力だったわ」

「そうですか? 努力なされたエリーゼ様だから、プロチウム殿下は仮とはいえ婚約者役を頼んでその見返りに私が護衛に就くことになったのです。ある意味願いは叶っていますよね? それでも努力した甲斐はないと仰いますか?」


 自信ありげにそう言うクレヌ。

 確かに、稀代の天才クレヌの護衛など、どんなに願っても叶わないものだろう。だが、クレヌとプロチウムが同一人物かも知れないと知っている今なら、尚の事この状況が異常だという事が分かる。だって、一国の第一王子が貴族令嬢の護衛など聞いたことがない。


(そもそも、何故プロチウム殿下がクレヌ様なのよ。クレヌ様と言えば、戦にだって駆り出される方でしょう? 王子なら戦の先頭をきってもおかしくないけども、魔導師として一つの駒として扱われるなんておかしいわ)


 エリーゼの手を握ったまま自信ありげに返事を待っていたクレヌだが、一向にエリーゼが口を開かず思考の海から這い出てこない状況に、顔に困惑の表情を湛え始めた。


(クレヌ様、強引で自信ありげだけど、こうやって不安げな顔もするのよね。無表情がベースのプロチウム殿下とは違うわ)


 そうクレヌの顔をエリーゼがじっと見つめると、クレヌは視線を彷徨わせた。そうして、不安げな表情はどこかへいってしまい、真剣に真摯な対応をしようという真面目な顔つきになった。エリーゼの手を離し、何か言いたげな無表情のクレヌ。


(こういうところはプロチウム殿下そっくりね。本当に、この人プロチウム殿下なのかしら……)


 手を離されても、無表情でも、無言でもこの空間が全く寂しくないし苦ではない。むしろ心地いいと思ってしまう。目の前の人物に好意的な感情を抱く自分を自覚したエリーゼは、改めて自分の役割をおさらいした。


(プロチウム殿下が硲の森を色づかせた子を見つけるまでの婚約の防波堤よね。それで、プロチウム殿下とクレヌ様は同一人物だとしましょう……。クレヌ様の好きな方も、硲の森を色づかせた子。だから、私はどちらも好きになったらいけないのよ。なによ、こんなはずじゃなかったのに。クレヌ様と旅ができて楽しかった、で終われると思ったのに……)


 少し前の自分の予想とは違う展開に、エリーゼは思わず零してしまう。


「プロチウム殿下の婚約者役だなんて、引き受けるんじゃなかったわ……」


(そうすれば、クレヌ様にもお会いしないし、プロチウム殿下がどういう人か知ることもなかったのに……っ!?)


 いまだ思考の海から出てこないエリーゼの肩を誰かがものすごい力で掴んだ。勿論クレヌしかいないのだが、いきなりの衝撃にエリーゼが思わずクレヌの顔を見ると、そこにはひどく顔を歪ませたクレヌがいた。


「なんでそんなこと仰るのですか!? そんなに、プロチウム殿下がお嫌ですか、それとも、私がですか?」


 ギュッと力が入るクレヌの手。痛さに顔を歪めるも、クレヌは一向に手を離してくれない。それどころか、理由を言えと言わんばかりに睨みつけてくる。その怒気に「え、と。あ……」と、エリーゼが口ごもると、次第に眉が垂れ、口が歪み、目にはうっすら涙のようなものが見え始めた。


「あの、ご心配なく! お役目はきちんと果たしますから! 仮の婚約者は破棄しませんから大丈夫ですよ?」


 それでも一向に表情が変わらないクレヌ。よほどエリーゼの仮の婚約は大事なようだ。


(まあ、あのフルーエルト公爵家にグイグイ来られたらプロチウム殿下も蔑ろにできないものね……。でも、この町の一件でフルーエルト公爵家の存続は危ないんじゃないかしら? そうなれば、プロチウム殿下の心配事も減るのでは?)


 そうまっとうなことを考えていたエリーゼだが、「エリーゼ様!」と、クレヌの手に力が入り慌ててとりなそうとした。


「だ、大丈夫ですよ! 硲の森を色づかせた方が見つかるまででしょう? 私もその方にお会いしてみたいのです、なので、見つかるまではきちんとお役目は致しますから! ですから落ち着いて手を離してください! 痛いです」

「あ、申し訳ありません」


 怒られた犬のように一気にシュンとしたクレヌ。視線も床に落ちてしまった。

 エリーゼがクレヌが離したところを手でさすっていると、「何故……」と、いうクレヌの覇気のない声が耳に入って来た。


「何故、エリーゼ様がその彼女に会いたいのですか?」

「それは……」


 言いかけてエリーゼは口を閉じた。自分がその子を知っているという事は何故だか知られたくなかった。でも、「それは?」と話の続きを望むクレヌに押され、エリーゼは一気に口を動かした。


「昔の話です。森に入って見つけたウサギのお墓を作ろうとして奥まで進んだときに、魔導師の女の子に会いました。顔はよく覚えていませんけど……。その子は私が持っていた種から花を咲かせてくれたんです! それに触ったら森が一面雪に埋もれましたよ。その翌日硲の森が色づきました。両親は誰だか知っているみたいなんです。私が聞いても教えてくれないですけど、クレヌ様……じゃなくて、プロチウム殿下がお聞きになれば教えてくださるかもしれません。今度父に聞いてみてください」


 本当は誰にも言うつもりなどなかった昔の出来事。あれ以来魔導師も魔法も憧れで、世間で言うように怖いなどとは思ったことなどない大事な思い出だ。


 だが、折角話したのに、訊いた張本人は「そうですか」とか、「それはいい思い出ですね」とかプラスの評価はしてくれないようで、ただただ固まってエリーゼをじっと見ていた。そして、震える口で、やっと一言口にした。


「エリーゼ様は、何故その相手の事は覚えていないのですか?」


 当然だろう。それだけ記憶しているのなら、どんな人だったかまで鮮明に覚えていてもいいかもしれない。でも覚えていないのだ。親にも呆れられたがこればかりは仕方ない。


「分からないのです。どうしても顔は思い出せないんです。声だけしか覚えていなくて……。お父様には『馬鹿素直すぎる』って呆れられましたけど」

「『馬鹿素直すぎる』? アブソリュート伯爵がそうおっしゃった?」

「はい」

「エリーゼ様、もしかしてその時、その魔導師の子供に『私の事は忘れて』って言われていませんでしたか? そしてそれは嫌だと泣いて相手を困らせた挙句に、『私だけ忘れるなんてずるい!』と駄々をこねた」

「さあ? 本当にその辺は覚えていないのです」


 『私の事は忘れて』と、言われて本当に忘れていたのなら、父親の言う通り馬鹿素直すぎる。そんなことがあるのだろうかと記憶を遡るも、どう頑張っても思い出せない。

 そうエリーゼが唸っていると、クレヌが「なるほど、これは、確かに、馬鹿素直すぎる」と呟いた。


「クレヌ様まで酷いです!」

「……酷いのはどちらだ」

「何ですか、その言い方」


 エリーゼが非難の視線をクレヌに向けると、クレヌが距離をつめてきた。「ん?」と後ろにさがるエリーゼだが、すぐ後ろはドア。もうこれ以上は下がれないエリーゼの顔の横に、クレヌが髪をくすぐるように顔を近づけた。


「いえ、でもこれで納得しました。どうりでシャスターの香水がこんなに香りがよくなって、人に懐かないはずのワックスが懐くはずだ」

「な、何がです!? 一人で納得してないで、教えてください!」

「一つだけ教えてあげますよ。ワックスの繁殖にはシャスターの実が必須なのです。それは硲の森が色づかないと得られない貴重な実ですよね? そして硲の森が色づくためには氷結魔法が必要です。だから、ワックスたちにとって、硲を色づかせられる氷結魔法が使える人間は特別な存在なのですよ」


 そう言うとクレヌはエリーゼから急に距離を取った。されには横にずれて、ドアを開けると、「さあどうぞ」と退出を促したのだ。


「どうぞ、お部屋にお戻りください」

「え!?」

「少し考えることができました。というか、時間をください。平常心を保てているうちにお戻りください」


 そう言って「おやすみなさい」と、言いクレヌは勝手にドアを閉め、鍵までかけた。


「……どういう事!?」


 追い出されたエリーゼがアミナの部屋に行くと「謝らなかったの!?」と、大分怒られたが、部屋にはおかせてもらえた。


(何だったのよ!!)

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