第五章 落日のように立ち上がれ

「おはようございます、瀬戸さん」

「アンさん、いつも早いね」


 私は平日午前中すぎまでとりあえず在籍している精密機器メーカの事務所で

仕事を済ます。といってもいくつかの伝票処理、電話受け、それに誰も来ない

が事務所の留守番役を仰せつかっている。

 何しろ、この精密機器メーカーの事務所は全員で7人しかいない。ほとんどはセールスエンジニアだ。その会社が販売するコピー機のメンテナンスをしている。

 といっても毎日、お客のところに顔を出し、挨拶し、トナーが切れかかっているとか、機械が汚れていないかチェックする仕事だ。だから朝出勤してきて、道具が詰まったバッグを抱え、社用車にのって出かけてゆく。その後、事務所は空っぽになる。自分がたった一人、窓際の席に座っているだけなのだ。


 そんな生活にも変化が出てきた。土日は朝からマリのヨットクラブに顔をだす、平日の午後も時間が有ればスクールで手伝いをするようになっていた。

 集まってくる子供の相手をし、船を下ろす手伝いをする。そうしているうちに子供もだいぶなついてきた。

 ある朝、一人の女の子が私のところにやって来た。

 手にはちょっと古いヨットの雑誌を持っている。


「お姉ちゃん、有名なんだね」


 その子が冊子の真ん中頃のページを開く。しっかり掴んで中身が見えるように掲げる。

 そこにはレーザーラジアル・ワールドで優勝した自分の特集が乗っていた。

「今までの日本人選手にはなかったパワーで強風をねじ伏せる。それ以上に潮を正確に読む力が強み」

 と、書いてある。そして、

「オリンピックに出ることが夢です、このワールドの勝利を次につなげたいと

思っています。」

 写真の私は悩みのない顔で答えていた。


 ふと、顔の横に気配を感じた。マリが覗き込んでいる。

「へぇ、あんた、有名人じゃないの。なんでこんなところにいるの?」

 ギョロッとした強い目がすぐ脇から私の目の底を貫いてくる。

「レーザーラジアルはオリンピック種目から外されたんです」

 思わず、本音をそのまま吐き出してしまった。普段、用心深い自分には無いことだ。

 マリの眼力はまるで嘘発見器だ。

「オリンピックに出たいの?」

 マリが、急に目をそらす。心なしか声も小さくなった。それにしても、大きな目でぎょろりとされると蛇に睨まれたカエルみたいな気持ちになる。ちょっとやばい。

「いや、そうなんです」

「どうするつもりなの?」

 マリはいつも先を急ぐ。そして躊躇する間もなく相手は本音を吐かざるを得なくなっているのだ。

「470で、出たいです」

「パートナを見つけないとね」

「マリさん、あなたと出たいんです」

「もう引退したんだよ。いい人紹介するよ」

 有無を言わさぬ流れに持ってゆく。

 私はまるでラフティングボートから急流に落下した観光客みたいだ。必死で言葉のはしにすがりつく。


「私はクルーをやります。マリさんなら勝てます」

マリはため息をついた。


「先生たち、オリンピックに出るんだ」

 真っ黒に日焼けした小さな男の子が大声を出した。

「出ないよ」

 と、マリ。そっけない。

「先生は上手なんでしょ?なら頑張るのが仕事だよって、お母さんが言ってた

よ」

「ほら、もうレッスンが始まるよ、あなた達、着替えたの?」

 マリが怖い顔で睨んだ。

「うわ、やべぇ」

パンパンとマリが手を叩いて子どもたちを更衣室に追い込んでゆく。事務所の机にはちょっと古いヨット雑誌が、夏休みに入った教室の黒板消しのような姿で、光を斜めに浴びながら残っていた。

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