第二章 自分だけが輝くシステム
小学生の小さな顔にそよ風が当たる。気持ちいい。でもすぐに止んでしまう。
まるで首を振る扇風機みたいだ。そのせいで目の前に広がる海にはいくつものシワができてる。すぐに平らになる。
「お父さん、あの船だけ、仲間はずれだね」
「そうだね、アン。あれは随分大胆なスキッパーだね。天才か、素人か、どっ
ちかなのだろうな」
私と父が立つ突堤からレース中のヨットの群れが見える。お風呂にアヒルのおもちゃを放り込んだみたいに、白いセールがピョコピョコ揺れている。とても急いでいるようには見えない。どうやらヨットが帆を張っているあたりでは風が穏やかなようだ。
そんな中、一つの白いセールがアヒルの群れと逆方向に進み出した。カタツムリのように少しずつ遠ざかって行く。
ヨットレースは決められたコースをいかに効率的に回るかどうかの戦いだ。
特にヨットが進めるのは風上に対して四十五度の角度までだ。だからレースコ
ースが風上に設定されると、競技者はヨットを右に左に切り返して進まなけれ
ばならない。タッキングという操舵法だが、まどろっこしい。ちょうどあみだ
くじを逆に登っていくようなものだ。近道はない。
そしてレース海面に吹く風を読み、的確にコース取ることで大きく順位は違ってくる。
ただ厄介なのは風のパターンだ。気象条件や地形、気温などいろいろな条件で変わってくる。おまけに風は目に見えない。これを競技者は読み合うのだ。
だが、レースはそれだけでは勝てない。同時にライバルとの駆け引きが重要なのだ。ヨットレースには複雑なルールがある。選手たちはいろいろな選択肢を考える。その結果、どちらかというと群れを作って優劣を競うことになる。
ところが、一艇だけ群れから離れて行くのだ。風を探してギャンブルに出たようだ。
このように風が弱いレースの場合、ちょっとした突風を掴むと一気に相手を抜くことができる。しかし、大体においてその確率は低い。このブローという風の流れはレーサーにとって予測外できるものではなからだ。
もちろん、海鳥の中には海面の温度差を捉え、上昇気流やそれによって生じるブローのありかを見つけるものがいる。どうやら界面の温度差や空気の様子が見えるらしい。なんでも赤外線を捉える特殊な目を持っているといわれている。
でもそれも鳥の世界だ、人間ではない。
そう思っている間に白いアヒルの群れは最後のレグでノロノロと競い合って
いた。中でもひときわ白く、シミのない綺麗なセールのヨットが先頭に立って
いる。
しかし、あいかわらず風は弱く、観ているこっちが焦れったくなる。
「!」
声のない驚きが襲った。一つのセールが信じられないスピードで滑走してくる。
あのはぐれヨットだ。遠目にもトラピーズに出ているクルーと船体の外側に体重を目いっぱいかけているスキッパーの姿が見える。セールいっぱいの風を受け、船体が飛沫を上げる。切っ先は波を切り裂く。
速度を上げたヨットは海面から浮き上がり船底が見えるくらいだ。その光景
はまるで学校で習ったハレー彗星の写真みたいだった。
真っ黒な星空を背景に白い尻尾を引き連れて彗星が進撃する。夜空の星々は
その女王の姿をにひれ伏している。
「彗星みたい」思わず小学生だった私は呟いた。
「まるでキュゲスの指輪だ」
横に立つ父がつぶやいた。そのトーンは奇妙な響を伴っていた。
父の顔を見上げた。食い入るようにレースを眺めている。手にはレース選手のデータを書いた紙がある。セール番号と出場選手表を見比べているようだ。
そのまま「彗星」はアヒルの群れを差し置いてゴールラインまで一直線にすっ飛んで行った。ホーンの音がする。はぐれ「彗星」が勝ったようだ。
「お父さん、あれ、かっこいいね。アンもあんなふうにやってみたい」
「アン、あれは特別だよ。お父さんもどうしてあんな操舵が出来るのか知りた
いよ」
「わかった、わたし、出来るようになるよ。そうしたら、お父さんに教えてあ
げる」
「そうだね。その時は、お父さんに知らせてくれ。いつでもアンのところに飛
んで帰ってくるからね」
「約束だよ」
「ああ、約束だ」
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