Primula at Pascha

1

わたし知ってるのよ、姉様のことヤー ズナーユ シト スーチラスエス マヤー スィストラ


 復活大祭パスハの午後十時前、姫様は少したどたどしいロシア語で仰いました。


姉様は……自殺された。アナ パコンチラ ジズニ サムォビストヴォム自ら川に身をお投げになったのだわアナ プレーグノラ ヴェ リェカー アット セヴャー


 後半はほとんど決めてかかるような口調にございました。


 なんとお答えしたものか決めあぐね、わたくしは柵の向こうの桜草プリームラに視線を逃したのでございます。


 荒川河畔の田島ヶ原さくら草公園。国の天然記念物にも指定される桜草が手付かずの自然として残っている、国内でも稀有な場所にございます。


 眩しいほどの日差しを受け止め養分と変えるべく、桜草は葉を広げてございました。緑の中に点々と紫色の可憐な花を咲かせて、ときおり吹く風に揺られていたのでございます。


 青春のはじまりと悲しみ。

 少年時代の希望。

 初恋。

 あこがれ。


 私は桜草の花言葉に答えを求めたのかもしれません。たしかに、それは姫様の姉君あねぎみであらせられたの運命を、一一年前の真実を暗示しているかのようにも思われました。


 ――ほら、あなたも来なさいよ。ぽかぽかして気持ちいいわよ。


 あの方は草むらに仰向けになったまま、私をお誘いになったものでございます。あの日も大変な陽気で、あの方はブレザーを脱ぎ草むらの上に敷いてピクニックシートの代わりにしてしまわれました。


 ――知ってる? 埼玉って年間の快晴日数が日本一なのよ。いままで知らずその恩恵を受けていたわけね。


 あの方は私に同意をお求めになるかのように、仰いました。少し赤みがかった髪と、虹彩が向日葵のように浮かび上がった瞳の持ち主様でございました。


 ――別所にお屋敷を建てた曾祖父様ひいおじいさまには感謝しなくちゃね。お陰でわたしはこの青空を、太陽を享受することができる。サンクトペテルブルクではきっとこうはいかないでしょう?


 あの方は遥か北西の旧帝都の空を想像するかのように瞼を下ろされました。


 ――曾祖母様ひいおばあさまはきっとこの青空を渇望されていたでしょうね。家族で捕らえられ、幽閉されて、その名が示すように自由と解放を求められたでしょうね。


 あの方はそうしてときおり、ご自身のルーツに思いをお馳せになることがございました。


 その身に流れる、高貴な血筋。その呼び声に耳を傾けになられるかのように。


 いまにして思えば、それはあの方を縛り付ける鎖でもあったのだとわかります。ご自身のアイデンティティについてお悩みになられたこともあったことでしょう。 


 黒い瞳、オーチィ チョールヌィエ情熱的な瞳オーチィ ストラースヌィエ

 燃えるような、そして美しい瞳オーチィ ジグゥーチィエ イ プリィクラースヌィエ

 何と私はお前を愛していることかカーク リュブリュー ィヤ ヴァース何とお前を恐れていることかカーク バィユース ィヤ ヴァース

 きっと私は悪い時にズナーチ、ウヴィーヂェル ヴァースお前と出逢ってしまったのだィヤ ヴ・ニェドーブルィ チャース


 十代の半ばにさしかかった頃から、あの方はときおりそのような歌を口ずさんでございました。『黒い瞳』というロシアの民謡にございます。一九世紀末にイェウヘーン・フレビーンカが詩として発表したものに後年、С・ゲルデリがフローリアン・ヘルマン作曲『オマージュ』をあてがって楽曲とし、ロシア革命後に国外へ亡命したオペラ歌手シャリアピンが補稿しレパートリーに加えたことで世界的に有名となった経緯がございました。


 ――わたしには、よくわからないけれどね。シャリアピンは故郷への郷愁を込めて歌ったのでしょうけど、わたしは直接ロシアを知ってるわけでもないし、こんな燃えるような恋をしたこともない。


『黒い瞳』の歌詞はロマの女の黒い瞳に魅入られた男の情念を歌い上げるものでございました。


 ――いずれ、わたしたちも身をもって経験するのかしら。故郷を離れる悲しみを。その身を滅ぼすような情熱を。


 あのとき、あの方はどのような表情をしていたのでしょうか。どのような声で、私に語りかけてくださったのでしょうか。十年以上経ったいまとなっては、うまく思い出すことができません。


 あの方と過ごした日々は、もはやダビングにダビングを重ねたVHSテープのように不鮮明でノイズ混じりのものとなっていました。二度と戻らない日々。残されたのは、コピーのコピーでしかない記憶。唯一、鮮明に思い出せるのは――


 ――彼らが来るアニー イドゥート


 いまでも耳にまとわりつく、あの声。私に助けを求める、あの方の声。私が最後に聞いた、あの方の声。


 ――あの子にはまだ姉のことは伏せておいてくれまいか。


 姫様に物心がつき、自身に一〇歳上の姉がいたことを知るようになった頃、旦那様は私にそうお申し付けになりました。


 ――あの子が分別のつく年頃になったら、我々から話す。だから、それまでは――


 旦那様は私に遠慮なされるように、お気を遣われになるように仰りました。


 あの方と同じ年に生まれ、同じお屋敷で育ち、同じ学校に通っていた私に。


 誰よりも長い時間、あの方の隣にいた私に。

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