君は夕日に照らされて

「僕には女性というものが分からなかった。人間の繁殖に必要なものだとは知っていたけれど」


 生き物としての認知はしているが、女性の心理は拓馬には分からない。つまりあの小説は拓馬の独断と偏見で描かれたものだということだった。


「男の性欲の哀れな被害者でもあると思っているよ」


 拓馬が語るその女性へのイメージは自分が与えてしまったものかもしれないなと春は苦い汁を飲む思いをした。確かに世の中の認識では力関係で男が優位に立つ場合が多いとされている。しかしだからといって虐げられるのがいつも女性だとは限らない。性的な被害を受けるのはなにも女性だけではないのだ。


「男と女は対等じゃないと思うの?」


 拓馬の意見を真っ向から否定できず、春はそんな問いをした。


「人間である以上、対等な関係なんて存在しないんだ。力を持つ者が弱い者の上に立つ。どの世界でもきっとそうでしょう?」


 何か大切なものが欠けている拓馬が語る世界というのは、なんだか正しいような気もした。


「上に立つことを生きがいにする奴もいるけれど、僕は何に対しても無気力でおまけに母親もいなければ愛をくれた人もいなかった。時々襲ってくる大きい波のような希死念慮に流されそうで、それに抵抗する意味すら分からなくなって虚しくなる」


 (小説を書くことにまで意味を求められるのなら、僕は書き連ねることすらやめてしまう)


 小説は拓馬の感情の掃きだめだった。


「キリスト教は、信じているの?」


 マリアに陶酔する主人公は拓馬自身なのかと春は思った。


「知識として知っているだけ。神を信じられるほど高尚な血液は僕には流れていないよ」


 拓馬のその言葉の本意は、キリスト教などの宗教とは縁遠い、葬式仏教の日本人として生きている春にはよく分からない。


「でも、女性は丸くて柔らかくて綺麗だ」


 拓馬は春に微笑んで言った。


「愛に濁りがなくて、好きな男のためなら自分の身も心も差し出そうとする。それに男は甘えて満たされ傲岸不遜に」


 女を美化する拓馬が、女にだまされた経験のない無垢な思春期の男の子に見えて春は憫笑した。


「濁りはあるのよ。身も心も差し出す相手を見る目は、間違いなく濁っている」


 拓馬の恋愛経験のなさが手に取るように分かった春は、もしかすると今の拓馬の中の世界の女というのは自分のような女だけなのではないかと思い、陶然と空を見上げた。


「女性は相手に染まってしまうから。相手が汚れていればすぐに汚く染められてしまう」


 元彼と付き合っていた時、まるで自分の意思かのように元彼の好みに自分を変えていたことを春は思いだした。相手の色に染まることが幸せだ、と春は思っていた。けれどそれは他人から見れば、哀れな恋愛中毒者の末期症状なのかもしれないなと春は自分をせせら笑う。


「そうね」


 相手に侵食された自分の色は中々元には戻らないのだと、別れてから春は知った。付き合う前の自分を取り戻せたらどんなにいいだろう、時折そんなことを春は思う。


(軽率に人を信じ好きだと言えていた純真なあの頃が、なんとも愛おしい)


 春が取り戻したいあの頃の自分と拓馬は少し似ている。だから自分は拓馬を放っておくことが出来なかったのだろう、そう思うと春は異様に腑に落ちるのだった。


「でも春さんは綺麗だよ。間違いなく、誰よりも綺麗だ」


 真っすぐ曇りない眼で春を見る拓馬。その輝きすら春にとってはかけがいのない物のように思えた。どうかこれから拓馬の周りに取り巻く女性が、拓馬を陥れるようなことをしない人であって欲しいと春は切に願う。


「何言っているのよ」


 男が心の成長過程で年上の女性に憧れを持つのは良くある話だろう、と春は拓馬の言葉を流した。


「まだここに居るでしょ? 元彼が」


 拓馬は春の心臓を指さして言った。膝を抱えて不服そうに拓馬は頬を膨らませる。春は苦笑いをして何も答えない。


「早く追い出しちゃいなよ。そこには春さん以外、誰もいなくていい場所なんだよ」


 春はさっき見た夢を思い出した。さようならと告げ消えていく元彼、けれど今もなお元彼の存在は確かに心にあった。追い出したくても、春の中に大切な人として居場所を設けてしまう自分がいる。

 

「もう少し一緒に居たいの。ダメかな」


 情けない、と膝を抱えて俯く春は顎で自分の膝の冷たさを知った。


「俺いるのに?」


 自分を傷つけた人を何故思うのか、と拓馬は内心憤りを感じている。その怒りは無自覚な嫉妬であり、春が思うほど可愛らしい感情ではなかった。


「生身の人間はダメよ。すぐどっか行っちゃうから」


 もう誰も信じられないの、そう言わんばかりに春は拓馬の気持ちを拒否する。


「必要がないからいなくなるんだよ。それに例え失ったとしても大事な部分は残るし」


「大事な部分って?」


 春が聞き返すと拓馬は空を見上げて数秒考えた。


「さぁ?」


 けれど答えは出ず、そんな気のない返答を拓馬はした。


「てきとうに話しているでしょ」


 春の呆れた顔に屈託のない笑顔を浮かべる拓馬。けれど春には拓馬の言葉がなぜか正しいように思えた。


 




 二人は一日中公園で自然を堪能し、日が沈むころ帰路に就く。夕ご飯は何がいいか、そんな他愛もない話をしながら二人が帰っていると道すがら大きな川の上にかかる橋を渡った。その途中、拓馬は川をじっと見つめ何かを考えているようだった。その切なげな横顔を見て、春は拓馬が自然豊かな場所で伸び伸びと生きることを望んでいるように春には見えた。


 川を眺める拓馬は芥川龍之介の「大川の水」という作品を思い出していた。


(今日という美しき思い出をこの川と共に覚え、自分がこの川が存在する現世を愛するきっかけになればこれ以上の幸せはない)

 

 川の呼吸を感じて、自分の呼吸も愛せるならば希死念慮なんて忘れられるかもしれない、拓馬はそんな希望を生まれて初めて持った。夕日で赤く照らされた川は今日一日の拓馬の心の色付きを表しているかのようで、それが春に知られてしまうのは嫌だと思うと拓馬は少し足早になる。


 けれど夕日に照らされるいつもは黒い春の髪の毛が茶色く見えた時、春が自分の色に染まってくれたような気がして、拓馬はそれを確かに仕合せと感じた。またも自分を男だと認識させられる感情が芽生えたことで、性的な想望の腹黒さを知ってしまう。


「楽しかったね」


 拓馬の気も知らずそう笑顔を向ける春。

 

(嗚呼、美しさの権化とは、決して華美に飾ったものではない。川のように静かに流され、時に汚され激しい濁流になる。そんな抵抗することなく運命を受託する姿こそ、秀麗ではないだろうか)


 春に出会ったころは知る由もなかった、自分がこんなにも表情が変化させられるということに拓馬は驚嘆しながら、微笑みを春に返した。


「今日はカレーがいいな」


「じゃあ買い物して帰ろうか」


 これがきっと仕合せというものだ、二人の関係性の不透明さを抜きにすれば、二人の間に不満は存在しない。もしかしたら、このまま一生この幸せが続くのかもしれないと春は思い始めていた。


 しかし何かから目を逸らし疑念や蟠りを持って関係を構築した先には、思い描く幸せは存在しない。実際日が経つごとに春は拓馬の希死念慮に触れないように恐怖心まで抱き、目を背けることに罪悪感を持ち始めた。


 そして新しいことを知る瞳の輝きは拓馬から段々薄れ、現実を見る暗然たる眼差しを見かける折りが増えていく。陰陰滅滅な拓馬はこの生活に飽きを感じ、自分が特定の人間と関係を築き絆を深めていくことに向いていない人間だと身をもって知る。言うならば、温故知新という言葉が自分には最も程遠いと拓馬は自覚し始めたのだった。

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