【第2章・レミングどもの心中】『喜瀬川エリカの遺書』

 しばらく、妙な沈黙が場を包む。さっきとはまた別、ある種のカタルシスの伴う沈黙だ。

 寒い。

 今更、そんなことを思う。おれは無言で襦袢を脱ぎ、布団を剥がしてくるまる。それに対し、彼女はなにも言わなかった。彼女は妙な間を持て余し、おれの履歴書を手に取る。

 そして、まじまじと眺めた。熱は、だいぶ冷めたようだった。

「あんたは?」

「おれ? なにが?」

「さぞ立派な恋愛遍歴をお持ちでしょうね。あんな質問するくらいですもの。ここには書いてないけれど」

 当たり前だ。

「大したことはないさ。今年で御年三十一で、今まで付き合ったのはたった一人。純情なもんでね」

「一人」

「そうだ。たった」

 半ニヤケで、当てつけがましく彼女にいう。

 そうだよ、たったひとり。だはは。

 おれの言葉を聞いてしばらく考え、喜瀬川は言った。

「ふぅん。ふぅーん。へぇー。よかったわねぇ。あたしはやっぱりあんたが嫌いだわ」

 彼女は言った。言葉尻は凍てつくほど冷たい。

「モテなさそうだと思って優しくしてりゃあ、つけあがって」

「優しくされた記憶がないぜ」

「こんなもの」

 ――そうだ。

 履歴書の書き方なんてのはとうに忘れてしまったが、破り捨てられるほどの代物ではなかったように思える。一生懸命書きましたよ?

「あんた、ふざけてんの?」

 金髪の女は言った。つんと生意気な小鼻が、気の強そうな気性をよく表わしている。嫌悪感たっぷりに歪んだまゆ毛も、ソーキュート。

 おれのタンセー込めて書いた履歴書は破かれ、足元に散乱する。

 その惨状は。喜瀬川エリカの個人的私怨、おれの落ち度なしで巻き起こった。

「出ていきなさい。不採用。不採用よ」

 彼女はおれの布団をひきはがし(細腕のくせして、バカ力だ)、横っ腹に蹴りを入れてくる。アバラが軋む。おれは、痛みに顔をしかめ、地べたに転がった。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 アバラは別に構わないが、不採用は困る。

「おれが誰と付き合おうが、関係ないだろ」

「ただ、気に喰わないの。何が悪いの」

 正義は彼女にある。この場を無音声で見れば、誰だってそう思う。それだけ、喜瀬川は超然とした、理屈を超えた自身に満ち溢れている。

「あのね、こっちだって慈善事業じゃないの。嫌いなやつの運転で、のんびり大貧民なんか出来るもんですか」

「大貧民はやめてくれ、現実だけでたくさんだ」

「何でもいいわ。さ、出ていきなさい。野良犬」

 横たわっているおれの腕を掴み、無理やり引きずる。野良犬より、打ち上げられたやせっぽちのいるかのようだ。抗えず、彼女に引きずられるまま出口まで追いやられる。

 喜瀬川はおれに唾を吐きかけた。それはキラキラと輝いて、美しく泡立ち、頬にかかる。不思議と腹が立たなかった。

「次生まれ変わって、人間だったら愛してあげるわ。犬」

「……」

 ――ぶーん、ぶーん。

 冷蔵庫の唸り。

 ――ぶーん、ぶん。ぶんぶんぶんぶんぶん。

 冷蔵庫が、さらに強く唸りをあげる。唸りが加速する。もう、常軌を逸している。冷蔵庫は大きく震え、まるでうがいをしているようだった。

「ちょ、あれヤバいんじゃないか」

 おれは冷蔵庫を指さすが、彼女はこちらから視線を逸らそうとしない。

「なによ」

「あれ、いいのか。なんかすげー音しているぞ」

「……あんたには関係ないわ」

 ――ごうん。

 冷蔵庫は、眠りについたかのように静まった。そして、冷蔵庫の扉がゆっくりと開いた。冷気が、霧のように噴き出す。

「採用でいいんでねーの?」

 しわがれた男の声。ひょうひょうとした響きだ。冷蔵庫の中からせかせかと這い出してきたのは、小柄な老人。

 派手なテラテラとしたピンクのボブの髪に、縁が水色のサングラスに、アロハシャツ。

 喜瀬川はその老人を一瞥し、「おかえりなさい、ジジィ」と素っ気なく言った。

「ジジィでない。おじいさまやと言うておろうが」

「未来はどうでしたか、性欲涸れ果てジジィ」

 性欲涸れ果てジジィ。いや、ジジィは性欲涸れ果てても許してやってよ。

 老人はおれを見た。とても嬉しそうに見えた。

「百年後の未来は……そうじゃなぁ」

 演技がかったジジィ口調。ふざけてやがる。

 あぁ、それにしたってこいつらは一体何の話をしているんだろう。

「人間は皆、猫ほどの大きさになっておりましてな。それにしても、冷蔵庫って人が入るには狭うこざいますね」

 それは、このじいさんの夢の話だろうか。三文以下のSFですよ、それじゃあ。

「ね?」

 老人は、おれに金歯をむっとむき出して笑いかけた。悪趣味な風体だが、金歯を中心にコーディネートしたのなら、マッチしているかもしれないっすね。

「おれ、トラです。今度から運転手をさせていただくことに……」

「不採用って言ってんでしょ!」

 改めて自己紹介をするが、喜瀬川はそれを強く否定する。

 チャンスを逃してなるものか。

 老人は高笑いして、おれの目の前に来る。

「わしぁ、社長じゃ。社長が採用と言えば、採用ですわなぁ」

 ……お、まじ?

「で、ですよね! いや、社長、さっすが」

 おれは訳もわからず、おべっかを並べる。太鼓持ちの方が調子出る。

「それでええか、喜瀬川?」

 喜瀬川は不満を隠そうともせず、顔をはっきりとしかめた。

「あたしがダメだって言っても、言うこときかないじゃないですか」

「そりゃあ、そうですな。おっはっは」

 老人は、妙な笑い方で、あっけらかんと笑う。喜瀬川の不機嫌には、慣れているようだ。

 喜瀬川は誰とも視線を合わせようともせず、大股で部屋を出ていった。

「……」

 おれは社長の顔を見て、にんまりと笑ってみせる。社長もそれに合わせて、歯ぐきをむき出して笑う。

「トラくん」

「はい、なんでしょう」

「シクヨロ」

「……はい」

 くそ、喰えないジジイだ。ま、とりあえずシクヨロです、社長。

 なにがどうであれ、おれはこの会社に運転手として雇われることになった。


【第2章・了】

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