魔法の杖 4



「その世界が、壊されているのね」麗子が静かに尋ねた。


「そうだ。今、僕らの世界は共感力のない異質な力に浸食されている。このままでは、全てが「白の国」に塗りつぶされてしまう」


「時間はどのくらいあるの?」


「この世界での時間には、何の意味もない。どこからでも、いつからでも、僕が来たところへ行くことができる。だから、じっくり考えてくれて結構。ただし、君たち五人全員が揃わなければ意味がない。君たち五人が集まった時に、初めて発揮される力がある。だからぼくはあれから三十五年も後の今日、ここへ来たのだよ」



「じゃあ、私も行くわ」


 麗子は決意を固めたきっぱりとした口調で言った。


 中学三年になって生徒会長をしていた麗子は、子供のころから冷静な判断力を備えていた。


 文科系の科目が得意で、小さな体にパワフルな行動力を持ち、周囲を明るくして先頭に立ち引っ張る力を持つが、その分一人で空回りして突っ走るきらいがあった。


 京都の大学へ進学し、そのまま今でも京都市内に住んでいる。大学教授の夫と二人暮らしだが、子供はいない。


 麗子自身は大学の図書館に勤めながら、得意な外国語を生かしてボランティアで観光ガイドなどをしている。


 古代史が専門の夫は留守がちで、研究室の助手やゼミの女子学生との間で様々な噂が絶えなかった。


 夫婦仲は特別悪いわけでもないが、お互いに家にいる時間は少なく、すれ違いの暮らしが続いている。


 今更夫の浮気を暴いて責める気にもならないが、自分がいなくなっても夫が悲嘆に暮れるとは、到底思えない。


 最近考えていることは、人間の思考や行動の動機となる感情が、肉体が発するホルモンなどの化学物質に深く関わっていることについてだった。


 記憶や感情を司る脳の電気的な働きですら体内の化学的な物質の分泌に支配されているのだとしたら、肉体を持たない幽霊や心霊現象などは存在し得ない。


 生物としての実体がないところには、何の感情も思考も生まれないのだ。


 生物化学的な揺らぎとは無縁の人工知能であるコンピュータープログラムと、生物として長い時間をかけて進化してきた人間の思考は、どこがどう違うのだろうか。


 しかし肉体という枷から解き放たれた思考が本当に存在するのなら、それはいったいどんなものであろう。生物としての脳が処理できない領域、次元を超えて、時間と空間を超越した時に得られる思考とは。


 もしも人間の思考が肉体と切り離されたときに、どう変化するのか。それには深い興味があった。



「それなら私だって」

 すずが多少の戸惑いを見せながら言った。


 すずは名古屋で一人暮らしをしている。夫とは三年前に死別し、この五人の中でも一番身軽な存在だと自分では思っていた。


 しかしこの異常な状況ですぐに答えを出すことなどあり得ない話で、ただただ茫然と話の行方を見守っていた。


 すずは名古屋の大学へ進学して名古屋の会社へ就職し、そのままずっと名古屋で暮らしている。結婚して二男を設けたが、二人とも既に就職して家を出た。


 突然の心筋梗塞で夫を亡くしたのは三年前で、それ以来名古屋のマンションで一人暮らしだ。今は名古屋市内の調剤薬局で働いている。


 今でも運動神経の良さを発揮して、子供が小さいころからのママさん仲間とバレーボールをやっているが、最近は体が重く辛くなってきた。そろそろバレーも引退しようかと思っているところだ。


 早くに妻を亡くした男は早死にし、夫を亡くした女は逆に生き生きと長く暮らすと世間ではよく言われている。


 すずのさっぱりした性格からして、友人たちもきっとそうなるだろうと考え、機会を作っては食事や観劇などに誘ってくれている。


 夫と子供がいたころはのんびり旅行に行くこともできなかったが、今では生活費に困ることもなく女同士で気楽な旅に出ることもできる。周囲からは元気そうに見えて、これは長生きするよとからかわれるのが常だった。


 しかしすず自身は、今でも突然夫を失った悲しみから抜け出せずにいた。


 静かな夜に、夫と二人の息子と暮らした部屋に一人でいると、気が狂いそうになる。


 しかしそれは、誰にでもある将来への一抹の不安と過去の思い出への寂寥感により一時的に精神が不安定になっているだけのことだ。


 普段の自分は愉快な仲間と明るい人生を楽しんでいる。この生活を捨ててまで、わけのわからぬ戦いに身を投じるなどあり得ない。漠然とそう思っていた。


 三人の話を聞いているうちに、すずの内部で何かが変わった。


 深夜に目覚めた一人ぼっちのベッドの上で底知れぬ不安に怯えて泣き崩れるとき、その涙の根元には、一人で残された孤独と、一人でさっさと逝ってしまった夫への非難と、亡き夫への圧倒的な恋慕があった。


 この思いを抱えたままでは、この先一生、何をしていても心から楽しいと思えることはないのではないか。


 それならばいっそ、自分もこの友人たちと共に異国へ旅立ってしまいたい。ガタがきて昔のように走れなくなったこの重い体を捨てて、新しい夢を追いかけてみたい。


「私は気楽な一人暮らしだからね。いつでも行かれるよ」


 すずは余裕のない笑みを浮かべる。



「どうしてみんなそんな簡単にそんなことが言えるわけ?」


 奈美恵は自分以外の四人が次々に名乗りを上げて、事の成り行きに驚いていた。


「別に簡単な気持で言っているわけじゃないよ」


 美紀が語気を強めて言うと、他の三人も同じようなことを口々に言う。


 奈美恵は黙って考え込んだ。


 奈美恵は東京都内に住む四十九才の平凡な専業主婦である。


 長男は二年前に大学を卒業後、就職して独立した。一つ年下の長女は同居しているが、長男より先に短大を卒業して就職している。


 今は仕事が忙しくて家にいる時間は少なく、滅多に顔を見ることもない。


 奈美恵より二才年上の夫はいわゆる社畜で、仕事が趣味の男である。仕事以外にはこれといった楽しみもなく退屈な人間だが人柄は極めて穏やかなうえ、やはりほとんど家にいないので喧嘩をすることもなく平穏な家庭だ。



 奈美恵は中学生の時に父親の転勤で東京へ来て以来、ずっと東京暮らしが続いている。


 現在の趣味はランニングで、暇を見つけては東京近郊のハーフマラソンなどに出場している。いつかはホノルルマラソンを走るのが夢だ。近所の主婦仲間は多く、一緒にスポーツジムに通ったりお酒を飲んだりと何の不満もなく暮らしている。


 十年ほど前、家族で名古屋へ来た時に時間を作ってこの町へやって来たことがある。


 その時にはまだ美紀がこの店を始めたばかりで、すずと麗子は都合が合わずに来られなかったが、夜になって駆けつけた綾と三人で夜遅くまで飲んで騒いだ。


 気が付けば名古屋へ戻る電車もなくなり、奈美恵はこの店のソファーで仮眠して翌朝早い電車で夫と子供の泊まるホテルへ戻ったのだった。それ以来の来訪である。


 そういえば、そのころはまだ家族で旅行をしていたのだと不思議に思う。


 今の崩壊しつつある家庭は自分が辛うじて支えている。だが子供が小さいころは年に一度か二度は家族旅行に出かけていたし、夫も運動会や学芸会やらに当たり前のように参加していた。


 奈美恵は努めて目を背けてきたが、夫が今のようになったのは、その時の旅行帰りに起きた一つの小さな事件がきっかけだったように思う。




  

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