真中食堂 3



 入社以来誰よりも熱心に仕事をし、結果も出してきた。数字だけではない。周囲との連携、顧客からの信頼、自分自身の達成感、全てがうまく回っていた。


 そんな絶好調時に突然私は体調を崩し、一か月以上入院する羽目になった。もちろん過労も病の原因の一つであったが、結果的には不運が重なったとしか言いようがなかった。


 上司からは今まで頑張った分、ゆっくり休めと言われた。内心では大いに焦燥感にかられたが、既にどうにもできない以上、ジタバタして恥ずかしい姿を晒したくなかった。


 黙って体を癒し退院し仕事に復帰してみると、以前の上司は異動になり、代わりにアイツが私の上司として転属していたのだった。


 アイツは爬虫類のような目をして、復帰した私を一瞥すると開口一番、自分の体調管理もできない奴は不要だと言った。


 それ以来、私の不遇のサラリーマン生活が始まった。そしてそれから僅か一年、私はこうして愚痴しか言えぬ木偶の坊と化している。



 体の中に久しく忘れていた怒りがこみ上げ、熱くなるのを感じた。


「あんたは誰なんだ?」


「私はサクラ」


「ここの人?」


 だが私の問いには答えず、小さな笑いの後に、からかうような調子の声が「なんだ、いい顔になったじゃないの」と言った。


 彼女に向かっていたはずの私の怒りは、方向を変え元上司のアイツに向かい、最終的には自分への不甲斐なさへと転じた。しかし、それは決して悪い気分ではなかった。


「あんたの言う通りかもしれない。ありがとう」

「お礼はいいから、そのウインナーを一本頂戴」


 何を言っているのか。一瞬思考が停止している間に入口の扉が勢いよく開いた。


 驚いて顔を向けると、三十年配の丸顔の男が立っていた。


 男は店内を一瞥して私に気付くと、「あ、いらっしゃいませ」とやや上ずった低い声で言い軽く頭を下げた。


 そしてそのまま店の中へ入り厨房を覗いてから客席へ戻り、目を丸くしたまま私の顔を見る。



「もしかして、うちのお袋、どこかへ行っちゃいました?」


「ええ、郵便局へ行くって……」


「またか。困ったもんだ。店にお客さんだけ残してどこへ遊びに行っちまったんだか……。すみません、ご注文は大丈夫ですか?」


「ええ、大丈夫ですよ」


 そう言った直後、私のテーブルに黒い影が舞い降りてギョッとした。


 ショーケースの上で眠っていた猫が目を覚まして、信じられない俊敏さで私のテーブルへジャンプしたのだった。


 音もなく目の前に着地した猫は、間近で見ると灰色というよりは濃い茶色の艶やかな毛並みで、まるで体重がないかのようにテーブルはピクリとも揺れなかった。


 猫は大きな口を開いて私の皿からウインナーを一本咥えると、再び風のように跳んで先ほどまで二人の老人がビールを飲んでいたテーブルの上へ移った。


 間近で見た猫の口は野性味に溢れる白い牙が並び、小さいながらも肉食獣のそれであった。私は驚きを隠せないまま猫を目で追う。


「こら、サクラ。お客さんのウインナーを盗ったな」


 男が拳を振り上げるが、サクラと呼ばれた猫は全く怯む気配も見せず、両手で器用に赤いウインナーを掴んで食べている。その姿に私は違和感を感じた。



 その思いを察したように、男の声がする。


「すみません。それ、うちの猫の好物なんです。すぐに新しいのを作り直しますから」


 私は男の方に目を向ける。短髪で丸顔のこの男性が、おばちゃんの息子らしい。


「いえいえ、どうせ食べきれないんでもういいですから。気にしないでください」


 答えながら両手を大袈裟に振り回し、動揺を隠そうとした。


「いいんですか? すみません。こいつ、普段はこんな事しないんですが……」


 それはともかく、どう見てもこいつは猫ではない。


 普通の猫よりサイズは小ぶりで、耳は丸く鼻が長い。


 どちらかと言えば、猫というよりも鼠に近い風貌だ。かと言って、先ほど一瞬感じた危険な生き物には見えず、穏やかで愛嬌がある。何者だ、これは。



 私がじっと見つめていると、男は笑って説明する。


「こいつは、コビトマングースという動物らしいんです。死んだ親父が十年くらい前にどこかから拾ってきたんだけど。よく懐いて可愛いもんで、お客さんには面倒だから猫と言っているんですけどね。」


「マングースって、あのハブと戦う?」


 このちっこいのが、そんな獰猛な奴には見えなかった。


「いや、これはあのマングースの仲間でも一番小さい種類で、動物園にいる奴は集団で暮らしているおとなしい連中のようですね」


 なるほど。しかし、そんな動物園にいるような動物をこんなところで飼っていていいものなのだろうか。


 しかし、それどころではなく、何かがおかしい。そもそも、この家には他に人がいないのか?


「こいつがサクラ?」


 私がその名を口に出すと、コビトマングースとやらはウインナーを食べる手を止めて、まっすぐに私の目を見た。


 それまで放っていた野性味が一瞬にして去り、聡明そうな瞳が静かに私を捕らえる。


 さっきまで話していたのは、サクラ、お前か。と口に出しそうになるが、いくら酔っていてもそんな阿呆なことは言えない。


 私は残ったウインナーをサクラにやってくれと伝えて、勘定を払い店の外に出た。



 歩いていると小さな雨粒が落ちて来て肌を濡らしたが、火照った顔にはかえって心地よかった。天気のせいか歩く人も少ない商店街をぶらぶらと家に向かっていると、久しぶりに感じる爽快感に足取りも軽くなる。


 たて続けにあおったビールで意識は濁り足取りもおぼつかないが、とにかく何か憑き物が落ちたように心は浮き立っていて、まるで恋人の元へ向かうような心持で、誰もいないボロアパートへ向かっていた。


 実際には憑き物が落ちたのではなく、逆だったのかもしれないのだが。


 慣れない昼酒が妙な白昼夢を見せたのか、いよいよ本格的に精神がおかしくなりかけていたのか、そこのところはよく判らない。とにかくそんなことがあってから、私はこのままでは碌なことにならないという危機感に目覚めた。



 ずる休みの翌日より、やや気を取り直して仕事に向かった。


 退屈な仕事を楽しむには、普通のやり方では無理である。


 必要とされる以上のことに気を配り、ほとんど趣味として徹底的に些細な業務効率の改善を積み重ね、顧客や社内の営業部門との情報交換も執拗に行った。


 平凡な日常業務は緊張に満ちたものとなり、ともすれば私のやり過ぎとも言える完璧主義に対する軋轢が、しばしば面倒な結果を生んだ。


 それでも凹むことなく歯を食いしばって続けるうちに周囲の理解者も増え、気が付くとある時点を境に突如として、嘘のように円滑に業務が回るようになった。


 そうなると、もう止められない。徹底的に磨き上げた美意識の中で完全な業務を行うべく、日々業務に没頭していた。


 不断の努力の甲斐あり、三年後には目的通りに営業の最前線に復帰した。と言いたいところなのだが、世の中そう上手くはいかない。


 結局、不景気による業務縮小に伴い、私はそのまま三年後に早期退職者として会社を去ることになった。


 しかし私の退職に際して、社内でも少しは惜しんでくれる声があった。それは今後の自信に繋がる。そしてよくよく考えてみると、これはあの日のサクラのお陰なのかな、と思い出す。



 退職後一度だけ真中食堂へ昼食を食べに行ったが、店は混雑していてサクラはショーケースの上で丸まって眠っているだけであった。




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