幻想酒場放浪記 第九夜 真中食堂

真中食堂 1


 

 遠く微かに聞こえる電子音に心が騒ぐ。


 急がねば電車に乗り遅れると、ホームを走り出した。


 発車の合図は次第に大きくなるが、電車は一向に近づかない。迫る音量に耐え切れなくなった私は、ベッドの上で目を開いた。


 地球へ帰還したばかりの宇宙飛行士のように体全体が重く、動くのが億劫だった。ベッドサイドのテーブルにやっと手を伸ばし、時計の音を止めた。布団の中で寝返りを打つだけで節々が軋み、疲労感に襲われる。


 調子が悪いのは肉体だけではなかった。半覚醒の心も深く沈んでいて、意識は重力の底を漂っている。不調の原因は何かとぼんやり考えるが、二日酔いではないし、風邪の兆候とも少し違う。


 体を覆う強大な圧力に抗い、木偶人形のような体をどうにか起こした。最初にしたのは、新鮮な空気を求めて部屋のガラス窓を開け放つことだった。



 外からどっと流れ込む冷たく湿った空気に息が詰まる。予想外の刺激に鼻の奥だけが先に覚醒して痙攣するが、精神は眠ったままのようで働かない。


 帰還した宇宙飛行士であれば肉体は重くとも心は高揚にときめくところであろう。だが、私の場合は重力の強い間違った惑星に降り立ったような困惑に包まれていた。


 外は暗い曇り空で、いつ雨粒がばらまかれてもおかしくないような、秋霖の朝である。


 私は気力が萎えたまま窓から目を逸らし、肩を落とす。寝癖の酷い髪を両手で押さえつけながら、狭い部屋の中を潜水作業員のようにずるずると歩いた。


 頭の芯が痺れるように痛いが、動けないほどでもない。無精髭を剃り顔を洗って熱いコーヒーでも飲めば、いつものように体も頭も目覚めるだろうとは思う。


 だが、そう思ってはいても、その日は何故か体が意志に逆らうように動けない。何よりも、電気カミソリの騒音を耳にすることに耐えられそうにない。


 本当に何もできない、駄目な朝だった。



 やがて躊躇した末に会社へ電話を入れて、仮病を使って仕事を休んだ。実際動けないのだからこれは病気ではないか、とも多少思うが、ただ眠いだけのような気もする。


 結局、そのまま重力との戦いに敗れて昼過ぎまで布団の中でごろごろしていた。


 いい歳をした社会人のやることではないが、最近何においてもやる気が起きず、無気力な日が続いている。これはもしや鬱病の兆候かと、少しだけ悩む。


 そのころ私は二十代の後半に差し掛かったところで、本来ならそろそろ責任の重い仕事に追われて、のんびりずる休みをしている暇などない状況のはずだった。


 実際、会社の同期たちはそれなりに多忙な中で愚痴をこぼしながら、せわしい毎日を送っている。


 彼らの瞳は輝きを放ち、その言葉からはプライドが滲み出て、実に鼻持ちならない。巻き起こる羨望と嫉妬心に身を焦がされる私は、ただ悶える。


 だが、そんな素振りを外へ出すことはできない。


 春の人事異動で突然閑職に追われて以来、無為に半年が過ぎた。私はアルバイトでもできるような単純な事務作業に就いている。


 初めは焦燥感にかられて苛立ったが、人間は環境に適応して現代まで生き延びた動物である。最近は怠惰な日々にもすっかり慣れて、辟易としながらも気楽な日常を送っていた。


 午後になると、腹が減って眩暈がする。これが生きている証なのだと思えば、何とかしなければいけない。


 しかしカップラーメンを作るために湯を沸かすのも億劫で、投げやりな気分で傘も持たず、薄着のまま外へ出た。


 近所にある商店街には馴染みの牛丼屋やラーメン屋が数多くあるのだが、今日はそんな気分ではない。


 幸いまだ雨も降っていないので、以前から一度行ってみたいと思っていた古い定食屋まで足を延ばした。



 真中食堂はその名の通り、さびれた商店街の真ん中辺りにある地味な定食屋だ。


 夜になるとあまりお行儀がよくない地元の親父どもが集まり気勢を上げているので、近寄る気もなかった。


 だが昼飯時となれば、別だ。外の看板に並ぶ家庭的な定食メニューの安さは独り者にとってなかなか魅力的で、常に気になっていた。


 店のガラス戸に下がった営業中の札を確かめ、恐る恐る古い引き戸を開けた。


 想像以上に年季の入った木造の店内に一瞬ひるんだが、おばちゃんの「いらっしゃいませ」という優しげな声に励まされて店内へ足を踏み入れた。



 平日の午後二時前という時間なので、店は空いていた。


 古い木造家屋の一階が店で、二階が住居なのだろう。厚い木のテーブルと背もたれの低い角材を組んだ四角い椅子の並んだ店内は、昭和の匂いが濃い大衆食堂だ。


 入って右の奥に古いガラスのショーケースがあって、色あせた料理のサンプルが店の歴史を物語っている。ケースの上で丸くなって眠る灰色の猫までもが、昭和の時代からの忘れ物のように見えた。


 左奥のテーブル席に腰を下ろし、壁に並んで貼られている食事のメニューを順に目で追った。


 先ずは定番ハンバーグ定食、それからとんかつを筆頭とした揚げ物定食各種、目玉焼き定食にハムエッグ定食、ウインナー定食。更にピーマン肉詰め定食、生姜焼き定食となかなかのメニューが並ぶ。


 和食系では焼き鮭定食、秋刀魚開き定食、たらこ定食、とろろ定食、肉豆腐定食など。最後は期待通りのカレーライス。



 色々あるようで、それなりに限定されたメニューであることがわかる。


 メニューに麺類はない。天ぷらや丼もの、そして生ものも見当たらない。この店では天丼やお刺身が食べられないのだった。元々は洋食屋さんだったのだろうか。


 私はなんとなく気になったウインナー定食を注文した。五百五十円だった。


 注文が済んで暇になると入口の上にある小さな古いテレビを見上げたが、午後のワイドショーの喧騒に気分が追いつけず、視線を下ろしてぼんやりと店内を見渡した。


 私とちょうど対角線の隅に座った二人組の痩せた老人が、昼間からビールを飲んで静かに話し込んでいる。


 ああ、これだ。私は思った。せっかくの休暇である。ずる休みであっても休みは休み。ここは昼酒などするのが良かろう。だが、おばちゃんは奥の厨房へ引っ込んだままだ。



「あの、ビールを一本もらいたいんですが……」


 立ち上がってショーケースの脇から厨房を覗き、遠慮がちに声をかけた。別に遠慮する必要もないのだが、慣れない昼酒に肩身の狭い思いが先に立ち、気後れする。


 おばちゃんは前掛けで手を拭きながら出て来て、アサヒとキリンがあるから、そこから好きなのを出して、と細い指で差し示す。


 その先を振り返ると、私の腰かけていた椅子の背後にガラス扉の冷蔵庫がどっしりと鎮座していた。


 冷蔵庫からキリンのラガーを引っ張り出しているうちに、おばちゃんが栓抜きとグラスを持って来た。ビールを注いで手酌で始めると、奥から小鉢を一つ運んできて、テーブルに置く。


「はい、これはサービス。ご飯ができるまでつまんでてよ」


「あ、どうもすみません」


 私が軽く頭を下げると、おばちゃんは豪快に笑って厨房へ戻った。



  

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