幸運な一日 3


 その店は、駅に近い古い繁華街の一角にある、木造の小さな居酒屋である。


 初老の店主が一人で切り回せるようなカウンター席だけの飲み屋で、常連客を相手に細々と営業している。


 その日も夕方早い時間から店を開けていたが、明るいうちから飲もうという客はいなかった。


 いつものことなので、店主はカウンターの中でその日の仕込みをしながら鼻歌を歌っていると、店の裏口に人の気配がした。


 カウンターの裏にも厨房と小さな座敷があり、ちょっとした宴会にも使えるようになっていた。


 店主が厨房へ入ると、一人の痩せた男が中にいて、流しで手を洗っている。


 店主が誰だ、と小声で呼びかけると、男が顔を上げる。目つきが異様に鋭い。


 男が真っ赤な血に濡れた包丁を洗っているのを見て、店主は声を上げて店の中へ逃げようと一歩下がる。


 そこへ男は素早い身のこなしで駆け寄ると、大声を上げようとする店主の背中を躊躇なくひと突きする。


 店主は背中に包丁を突き刺したまま、厨房の床に転がり動かなくなった。



 東は厨房の中からカウンター越しに客の姿を見つけて、ついいつもの癖で反射的に、いらっしゃいませ、と声をかけてしまった。


「外は警官だらけだよ。いったい何があったんだろうね」


 ぼんやり立っていた客は、そう言って首をすくめる。そして続けて、「別に、俺が追われてるわけじゃないよ」と笑う。


「暖簾も出てたし、もう店を空けてるんだろ。いいよね」


 男はそのまま店の奥へ入って来て、勝手に椅子へ腰を下ろした。


 カウンターの中にいる自分の顔を見ても何も言わないところを見ると、この店の常連客というわけではないらしい。東はそう感じて、ほっと一息つく。


 いや、今日は店を閉めようと思っていたところで、と東は体よく追い返そうとするが、客は笑って首を振り、取り合わない。


 暖簾が出てるから入って来たんだぜ。せめて一杯くらいは飲ませろよ、そう言って東の話を聞こうともしない。


 仕方なく、一杯だけ飲んだら店を閉めますからね、と東は言って男の注文を聞く。いざとなればこの男もやるしかないと、カウンターの下で店の包丁を握りしめた。


 客は出された一合のコップ酒を一息に飲み干して、すぐにもう一杯、と空のコップを突き出す。


 一杯だけと言ったじゃないか。東はそう思いながら唇を噛む。


「せめてお通しを食べるまでにもう一杯くらいいいだろう」


 客は帰る気配すらない。


 仕方なくコップに酒をもう一杯注いでから、東は一度奥に行き、壁にかかっていた白衣を羽織った。


 勝手口に束になって積んであった段ボールを手に取り、それで倒れている店主を覆い隠して、カウンターの中へ戻る。


 冷蔵ケースの中にあるマグロの赤身を慣れた手つきで切って皿に並べて、お通しとして男へ突き出した。


 その時にはもう、二杯目の酒が空になっていた。


 三杯目の酒もすぐ空になり、四杯目を注いだころには早くも男の眼が焦点を失って泳ぎ始めた。この勢いで飲ませていれば、逆に何も覚えていないだろうと東は思い直す。


 やれやれと思っているところへ店の扉が開いて、今度は二人の若い会社員が入ってきた。


 今度も、すみません、今日は店を閉めるんで、と途中まで言いかけたところで酔いの回り始めた中年男が急に立ち上がり、入り口へ手招きをして、二人を店へ入れてしまった。


 東の制止も聞かず店内に入ったふたりは、結局そのまま席に着いてしまった。


 仕方なく二人にビールとマグロを出して、今日は食材の仕入れも少ないので店を閉めようかと思っている、と東は改めて説明をした。



 俺は取り囲んだ警官に問われるままに店の内部の事情を説明すると、すぐさま警官隊が店内へ突入した。


 店の中に犯人の姿はなく、既に裏口から逃げた後だったらしい。


 程なく裏口を見張っていた警官に、犯人は取り押さえられた。


 俺はパトカーで警察へ連行されて事情聴取を受けた後、無事解放された。


 先に帰った古屋は子供が怪我をしたと奥さんからの電話で慌てて帰ったが、大したことなく済んで俺には恐縮している。



 翌日も、あの店の現場で再度警察から聴取を受けた。


 初めに刺された男二人は残念ながら亡くなってしまったが、居酒屋の店主は何とか一命を取り留めていた。


 俺は店で居合わせた不気味な中年男について説明したが、その男について警察は何も把握していない。驚いたことに、途中で店に入って来た二人組の警官も、その時に客は俺一人しかいなかったと明言している。


 しかし俺と一緒に店に入った古屋も、それに何よりも犯人自身が、おかしな酔客がもう一人いたとはっきり証言している。


 あのオヤジは一体どこへ消えたのだろうか。店にはオヤジの飲み食いした痕跡はおろか、潰れた饅頭の包み紙や箱すら残っていなかったと聞く。


 最後に、警官がふと思い出したように、一枚の写真を俺に見せた。それは確かに見覚えのある、潰れたカエルまんじゅうの箱だった。


「そう、これこれ、この箱ですよ。ちゃんとあるんじゃないですか」


 俺が勢い込んで言うと、次に一人の中年男の写真を見せられる。


「なんだ、ほら。やっぱりいたんだ。この人ですよ、間違いない。店にいたその酔っぱらいのオヤジっていうのが、この男です」


 俺はほっとした。これで問題は解決である。


「これは、ここへ来る前に路地でけんかの仲裁をして巻き添えを食い、あの犯人に刺されて亡くなった方の写真ですよ」

 警官が、手にした写真を二度見して確認する。


「だから、この人がここにいて、酒を飲めるわけがないんです。饅頭の箱は、その遺体の横に転がっていたもので、勿論、箱を開けた形跡もありません。あなたがその中身を食べられる筈がないでしょう!」

 警官は、何をバカ言っているんだ、とばかりに俺を睨む。


 俺の顔から、血の気が一気に引いた。


 仲裁に入った不運な男は行きつけの飲み屋へ行ったがたまたま臨時休業で、別の店へ行こうと近所をぶらぶら歩いていたところだった。


 馴染みの店への手土産にと出張先で買った饅頭をぶら下げていたのだが、犯人との揉み合いの中で、箱ごと無残に潰れて路上に落ちていた。そういうことらしい。


「だ、だけど、俺はあの甘い饅頭を無理やり口にねじ込まれて、食べさせられたんだ……」


「それは誰か別の人でしょう。あり得ませんね」


 警官はそう言って黙りこむ。


 結局、その後もあの店にいた酔っ払いオヤジの行方は分からぬままであった。


 余りにも酷い一日になったと俺は思っていたのだが、後から思えば仕事は順調であったし、古屋の子供の怪我も大事には至らなかった。


 亡くなった二人と重傷を負った酒場の店主には本当に気の毒だが、犯人もどうにか捕まり、我が身の安全も無事に守られた。


 そう、一歩間違えば、俺自身の命も危なかったのだ。


 刺した犯人と刺された三人にとっては極めて不運な結果になったのだが、俺にとっては、とても幸運な一日だったと言わざるを得ないのかもしれない。



 了





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