幻想酒場漂流記 第五夜 結城亭

結城亭 1


 沙織が松田と名乗る謎の多い男と会うのは、これが三度目になる。


 最初に会ったのは鉄道事故で急逝した親友の葬儀の席で、その時はまともな話もできなかった。


 葬祭場の出口近くに集まっていた沙織の友人たちと立話をしていた松田が、突然振り返って自分を見た時の思いつめたような瞳が印象に残っている。


 親友が鉄道史に残る大きな事故に巻込まれた夜、最後まで一緒にいたのが沙織であった。


 街で買い物をしてちょっと贅沢な夕食を食べ、バーでお酒を飲みながら話しているうちに時間は過ぎて、大慌てで満員の最終電車に飛び乗り胸をなでおろした二人である。


 沙織は自宅のある駅で別れ、親友は三つ先の終着駅で降りる予定だった。そして電車は終着駅に無事に辿り着くことなく、事故は起きてしまった。


 親友が就職の内定をもらっていた会社の社員であるというその松田という男のことは、後に思い当たる節があり納得する部分もあった。


 大学内では全く浮いた話のなかった親友が、唯一嬉し気に語っていた男性の存在を、改めて思い出したのだ。



 事故から一年が過ぎ、マスコミが遺族の声や安全対策などを再び盛んに報道する中、沙織のもとへ一通の招待状が届いた。


 墨で丁寧に宛名の記された封筒にある差出人の名前は、居酒屋ゑびす、とある。


 聞いたことのない店だった。それは数日後にその店で催される夕食会への簡素な招待状であった。


 招待客は全部で四人。一人は松田で、他の二人も松田を通じて知り合った知人だ。それは、ある店との係わりで生まれた、微かな繋がりであった。



 一年前の事故から三週間ほど過ぎた土曜の夕刻だった。


 沙織は地図を頼りに一人で駅前通りを歩いていた。賑やかな商店街の大通りを数分歩いて目印のビルを見つけ、右側に並行する旧道へと折れる。


 すぐに道は緩やかに曲線を描き、次第に生活の匂いのする裏通りとなった。


 表通りの喧騒から離れるに従い、薄暗い似たような街並みが延々と続くようになった。やがて、狭い曲がりくねった道の先に、巨大な木造二階建ての建物が浮かび上がった。


 その辺りは古風な建物が多く残る一角で、唐突に出現したその建物は、周囲の地味な木造家屋を見下ろすような堂々とした造りで異彩を放っている。


 結城亭という立派な看板には、割烹料理と刻まれている。


 しかし入口脇に立つ派手なお品書きに目を止めると、秋のお奨めコースは庶民的な価格で、内容も割烹料理とは呼べない多彩なメニューが並ぶ。実際には現代的な居酒屋なのかもしれない。


 沙織はやや安心して、その店の暖簾をくぐった。


 木の引き戸を開けると古い銭湯のような広い土間で、恐る恐る靴を脱いで、木の簀の子に上がった。


 奥の壁面に並ぶ下足箱へ自分で靴を入れたが、きっと昔はここに下足番がいたのであろう。


 そんなことを思いながら、磨き上げられた板の間を踏みしめた。冷たい床の感触に警戒心が上がる。


 薄暗い店内はひっそりとしていて、廊下の先に個室の戸口が並んでいるのが見えた。


 奥から現れた白髪の男性店員に予約をした松田の名を告げると笑顔で深々と頭を下げ、黒光りする木の階段を踏みしめて二階へ通された。


 店員は窓際のゆったりとした四人席へ案内すると、沙織が腰を下ろすのを待ってから分厚いメニューを卓上へ置き、黙って立ち去った。


 一人残された沙織はどうしてよいのかわからず、緊張したまま周囲を見渡す。


 まだ客の少ない大座敷は冷え冷えとして、そこに掘り炬燵の席が等間隔に並んでいる。


 部屋は思ったよりも明るく清潔で、しかしながら開放感よりも大空間に放り出された不安の方が大きく落ち着かない。


 メニューを開いてゆっくりめくってみるが、内容が頭に残らず素通りしている。


 若い女の声と階段を上る足音が耳に入り、沙織は手を止めて顔を上げた。黄土色の和服に大きな赤い前掛けをした若い店員が、楽しそうに客と話しながら二階へ上がってくる。すぐ後ろにいる客は松田であった。


「すみません、お待たせしました」


 松田は仕事帰りのようで、黒いスーツに黒い鞄をぶら下げている。先日会った喪服姿とほぼ変わらぬ印象だ。


 和装の店員が沙織にいらっしゃいませ、と丁寧に挨拶し、熱いおしぼりを手渡した。


 沙織の向かいに腰を下ろした松田もおしぼりで手を拭いながら、慣れた様子で店員へコース料理の内容について確認している。


「西本さんは、お酒も大丈夫ですよね?」


「ええ、少しなら」


 沙織は頷いてから、頬をやや赤らめて下を向いた。


「あれ、松田さんの彼女ですか?」

 松田の後ろから、今度は親し気な少年の声が響く。


 顔を上げると、作務衣を着た若い男の子がこちらを見ている。目が合うと、こんにちは、とにっこり笑う。無邪気な笑顔に沙織も思わず微笑む。


「こら、お客様に失礼でしょう。あなたのお友達じゃないのよ」


 女性の店員がたしなめるのも聞かずに、少年は盛んに松田をからかい始めた。


 二人は高校生と中学生の姉弟で、ここの店主の子供たちだという。


 座敷の奥で店員を呼ぶ声が聞こえると、姉の方が澄んだ声で返事をして立ち上がる。ごゆっくりどうぞ、と沙織に礼をして、呼ばれた席へ早足で歩いて行った。


 なんだ、彼女じゃないのか、と弟の方は不満げに沙織を見る。姉よりも背が高いが、ひょろりと細く、話しぶりもまだまだ子供だ。


 まあ、お姉ちゃんは喜ぶだろうけどね、と悪戯っぽく笑いながら猫のように音もなく立ち上がると、ビールを持ってきます、と言い小走りで立ち去った。


「やれやれ。下の個室の方が落ち着いて話せるのでしょうが、ほぼ初対面の女性と二人きりというのも何ですし、今日はこの席を用意してもらいました」


 溜息をついた松田が軽く頭を下げて、一瞬窓の外へ目をやる。つられて見た沙織は思わず息を呑んだ。

 沈んだばかりの夕日が、空に並ぶ羊雲を鮮やかに染めていた。


「この店にはよくいらっしゃるんですか?」


「そうですね。月に一度くらい、家族で食事に来ます。でも、一階には少しですがカウンターの席もあって、一人でゆっくり飲みたいときにはお勧めです。まあ、少なくともあの姉弟がいない時間なら、かなりゆっくりできますよ」


 松田は笑いながら、近くに彼らの姿を探すように、座敷を見渡した。


「ずいぶん古い建物ですよね」軽く笑いながら、沙織も部屋の中をぐるりと見る。


「ええ。いつ頃の建築なのかは詳しく知りませんが、以前は格式のある料理店だったそうです。今ではご覧の通り、庶民が気楽に入れる店になって、嬉しいかぎりですが」


 松田はそこで居住まいを正すと、改まって沙織に正対した。

  

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