第6話

 ソルムが塔の前で止まった。乗客が次々と降りていく。岬に続いて通路に出て、ソルムから降りる。僕は目の前にそそり立つ塔を見上げた。塔は真っ白な石を積み上げて作られているようだった。

「行きましょう」ミグロが先陣を切るように歩き出す。塔の正面は、大きな木の扉が立ちはだかっていた。扉の上には、通行手形に描かれたのと同じバラのレリーフがある。王様がこの中にいる。僕は武者震いを感じていた。岬を人間の世界に返す、そのために僕はここにいるのだ。


 ミグロが扉に手をかける。

「王様の住んでるところなのに、門番の1人もいないの?」岬が言う。「さっきの橋にはあんな大掛かりな設備があったのに」

「門番はいませんよ。何しろ、あのソルムがそれに当たるのですから」

 どういうことだ、と僕が思う前に、ミグロが扉を押した。木の軋む音がして、扉がゆっくりと開いた。

 ミグロが先んじて中に入る。僕と岬もすぐに続いた。扉が静かに閉まった。そこは広々としたエントランスだった。足元がひんやりと冷たい。綺麗に磨かれた大理石が敷き詰められていた。広いエントランスに、一匹のネコが立っていた。


「ミグロ殿。遠方よりはるばるご足労いただき、ありがとうございます」

 顔の周りが黒く、体は明るいグレーをしていた。短い毛並みは良く整えられている。さすが、宮廷に使えるネコ、といったところだろうか。

「お出迎え、感謝いたします。可及の懸案がありまして、イルミナリ王に面会をいたしたいのです」

「かしこまりました。至急、国王陛下に伝えます」

 迎えに来たネコは、この言葉の通り素早く奥の廊下へ消えていった。それにしても。


「ねえ、ミグロってやっぱりここに来たことあるんじゃないの?」岬がミグロに鋭い視線を向けた。ソルムの中で、僕に内心を吐露した時とは違い、その口調は断定的だった。

「これに答える義務があるのですかな」ミグロは冷たい声でそう言った。僕には、その言葉は肯定の意味に思えた。ミグロはやはり、ずっと嘘をついていたのだ。戻れない場所のことをこれだけ把握しているのは、何度も足を運んでいる証拠のように思えた。岬をすぐにでも人間の世界に返すことができるのに、わざとここまで連れてきたのだ。


 僕はとっさに周りの様子を確認した。外から見た限り、この扉以外に、ネコの通れそうな窓はなかった。

「岬」僕は岬の手を掴み、入ってきた扉にすがりつく。取っ手を引いたが、扉はビクともしない。

「ここまで来て、逃げるつもりですか。見苦しい真似は控えなさい」

 ミグロの冷たい声がホールに響く。僕は扉に背中をつける。岬も僕の傍で体を硬くしていた。


 薄暗い螺旋階段は、まるでどこか異界へつながる通り道のように思えた。いや、そもそもここはネコの世界なのだと、僕は思い直す。前を歩くミグロについて、階段を上り続けて、随分と時間が経っているように思えた。ネコの足では階段は登りづらい。一段が低いのも、なかなか上に進まない一因だろう。

 僕の後ろには岬がぴったりとついていて、僕たちの後ろには近衛兵が2人、銃剣をチラつかせながら登ってくる。ミグロとの一悶着があり、そのあとすぐにやってきた使いに案内されるがまま、階段を上っていた。


「そろそろ着きます」

 ミグロが振り向き、言った。王様に謁見する気分ではなかった。いや、気が乗らないなどと悠長なことを言っている場合でもない。罠だと知ってそこに何の準備もなく突っ込んでいくのは、それこそ飛んで火に入る夏の虫だ。何かと理由をつけて、僕はこの世界で理不尽に生き続け、岬はおそらくこの場所から一生出ることを許されないだろう。

 かといって、何か策があるわけでもなかった。今からできることといえば、王様が心の通ったネコであるように祈るくらいだ。僕は腹をくくった。ミグロの足音のリズムが変わった。階段から平坦な場所に出たのだ。僕はすぐ後ろを歩く岬の手を握った。この手を離す時は、僕たちが死んでしまう時だ。そのくらいの決意がなければ、こんなところまで来て、まっすぐ前を見ていることができなかった。


 視界が大きく開いた。鏡のように磨かれた大理石が僕たちを無言で迎える。10メートルは離れているだろうか、ちょうど階段の反対側に当たる場所に大きな影ができていた。一段高くなったそこには玉座があり、大きな赤い椅子の上にちょこんとネコが座っていた。姿は僕たちと同じネコだが、その体から溢れ出る気配は、その辺にいるネコのそれとは全く異なり、重く厚い空気の壁となって僕たちの間に横たわっていた。

 ミグロが数歩歩いたところで立ち止まり、深々と頭を下げた後、腰を折り、膝を床につけた。慌てて僕と岬もその姿勢を真似た。ドラマで見るように、王様の前にひれ伏す僕たちの前で、玉座に座ったネコ、イルミナリ王が静かに息を吸い込むのがわかった。


「表を上げてくだされ。そなたらは客人、本来なら貴賓室でお迎えするべきところ、なんのもてなしもできずに申し訳ない」

 僕はちらりとイルミナリ王の様子を伺った。ゆっくりと詫びる姿は、もちろん建前の部分もあるだろうが、不意に下を向いた目は、自身を責めている色を帯びていた。僕たちを油断させるためなのか本心なのか、判断できない。

「こちらこそ、急な謁見を認めていただき、恐縮至極に存じます」ミグロがうやうやしく答え、すうっと体を起こした。まるでそれが合図だったかのように、玉座を控えた台座が静かに下がった。見上げる高さにいたイルミナリ王が、椅子から降りて近づいてくる。


「おおよそのことは、そちらの女性の姿を見たときから察しがついている」ミグロに向かい合い話を始めたイルミナリ王が、言葉を切って岬の顔を見た。「そなたは、人間か?」

 イルミナリ王に問われ、岬が不安でいっぱいになった瞳を僕に寄越した。僕は頷く。今は、このイルミナリ王に従った方が賢明だ。イルミナリ王に他意がなかったとしても、いつまでもミグロと行動を共にしていたくなかった。


 岬は大きな瞳を一度閉じて、イルミナリ王に向き合った。

「はい。岬と言います」さすがの岬も、王様がすぐそばに来て、緊張した様子だった。声も上ずっている。それでも、岬はイルミナリ王から目線を外すことはしなかった。

「やはりそうか」イルミナリ王がため息まじりに言う。「大方、このミグロ殿の言葉が信用できない、といったところか」イルミナリ王は、今度は僕に向かって話し始めた。

「あの、はい」僕は横目にミグロを伺う。苦々しい顔は見ている分には爽快だったが、イルミナリ王の言い方は、僕の予測とは違う事実を示しているように思えた。


「ミグロ殿は相変わらず説明下手だな」イルミナリ王がミグロを見遣る。「ミグロ殿はこの世界を出る術を知らない。それは本当だ。ここまでそなたらを連れてきたのは、本心じゃよ」

「でも、ミグロはこの世界のことをよく知っているみたいだし、通行手形だって」岬がイルミナリ王に詰め寄る。ミグロが岬の肩を強く掴んだ。さすがに、王様に対する態度ではないということだろう。イルミナリ王が手でミグロを制し、ミグロが手を離した。岬が一歩下がり、体を退いた。

「まあ、ミグロ殿も悪気があったわけではない。ミグロ殿がここの従者を退いて幾年、その間に法も変わり、この国も変わった。以前はそなたら人間の世界との交流もあったのだが、流刑地となって以降、交流は閉ざされ、いつしか帰路は禁忌になってしまった」


 イルミナリ王の言葉が静かに僕の中に入ってくる。ミグロは居心地の悪そうな顔を大理石の床面に向けていた。ミグロが嘘をついていたというのは、僕たちの早とちりだったということだ。それでは、やはり帰り道はない、ということだろうか。ミグロがイルミナリ王を頼ったのは、一縷の希望に過ぎなかったということだろうか。いや、それならばイルミナリ王がこうして話しているということもないように思えた。

 僕はじっとイルミナリ王の顔を見た。その言葉の続きを聞いた。

「禁忌は侵してはならない。しかし、それもこの世界の掟だ。そなたらがそれに手をかけることを縛る法もないというのも事実だ」

「では、帰る方法はあるのですね」僕はつい大きな声を上げてしまった。


 イルミナリ王は、僕、ミグロ、岬の順にゆっくりと視線を移し、最後に玉座のあった場所に視線を向けた。そこには一匹のネコがいた。さっき、僕たちを出迎えた従者だった。

「方法はある」

 イルミナリ王がそう言うと、従者がゆっくりと近づいてきた。手に筒のようなものを握っている。イルミナリ王の少し後ろで立ち止まると、その筒を広げた。それは地図のようだった。陸地の形が描かれ、街の名前が陸地の隅々に小さな字で書かれていた。


「これはこの世界を描いたものだ。イルミナリはここだ」イルミナリ王の示した場所は、陸地の西の端、入り組んだ入江を要した海岸沿いにあった。「昔は、主要な都市にかの地と繋がるトンネルがあったが、今はほとんど失われてしまった。残っているのは、この東の山の中、ニグワニカだけだ」

「では、そこに行けばトンネルが」

「トンネルはある。しかし、厳重な結界が張ってあって、普段はその姿さえ見ることはできない」

「それじゃあ、探すのは無理なんじゃ」岬が小さく声を漏らした。結界など、向こうの世界にいた時はテレビの中でだけ存在する虚構の産物だと思っていたのに、目の前で交わされるやり取りはすでに僕の理解を超えたところにあった。もっとも、異世界に入り込んでしまった時点で、僕と岬が知っている常識が通用しないのも当たり前だった。僕たちにとって、それは仕方がないことなのかもしれない。


「結界を作ったのは我々だ。その鍵は、各地の王が分割して所有している。それを一つずつ譲り受けるがいい。私から話を通しておこう」

 イルミナリ王の目が暖かく岬を捉えていた。岬が頷く。イルミナリ王が緩やかに下り、従者からさっきの地図と浅黄色の袋を受け取った。王は袋の中を探り、何かを取り出した。

「これが、イルミナリ国で保管している結界を解く鍵、ハルタの短剣だ」

 僕は、鞘の装飾に目を奪われた。通行手形や塔の入り口に施されていたのと同じバラのレリーフがはっきりと刻まれていた。咲き誇るバラの花びら一枚、緩やかに曲がる枝一本、そしてそこに生える鋭いトゲ一つ、全てが生き生きと描かれていた。ネコサイズの短剣にこれほど精巧な細工をすることが、僕と同じネコにできることが信じられなかった。鍔の部分はそれ自体がバラの茎と花を模しているようだった。


「地図に印をつけてある。ニグワニカへの道中、その場所に立ち寄り、残りの鍵を受け取りなさい」

 イルミナリ王が短剣と地図を岬に渡した。岬はその短剣に目を奪われているようだった。じっと鞘を覗き込み、大きく息を吸い込んだ。

「ありがとうございます」岬が頭を下げた。僕もそれに続いた。岬を家に帰すことができる。それができるとわかって、僕は素直に嬉しかった。長い道のりになりそうだったが、岬と一緒にいれば、どんな困難でも立ち向かうことができる気がした。

「最後に、これだけははっきりと言っておく。結界が開かれ、かの地との通路が開いても、そこを通ることができるのは、人と、ミグロ殿だけだ。ブルー、そなたには、結界の鍵をそれぞれの王に返しながら、再びここに戻ってきてもらう」

「ちょっと」岬がきっとイルミナリ王を睨んだ。慌てて僕とミグロがその肩を抑える。


「岬、いいんだ。僕は追放されてここにいるんだ。それは最初から決まっていたことだから」

「でも」

「これが特例だということを忘れてはいけません。人が迷い込んだことが知れれば、どんな危険があるか、私にもわからないのです。一刻も早く、結界を開き、人間の世界に行かなければいけない。これ以上、事態を混乱させることは許されません。ブルーはここに残る、それは決定事項なのですよ」


 ミグロが大きな声を出した。岬の肩が震えていた。僕は岬にかける言葉が見つからなかった。岬は、僕のために肩を揺らし、その瞼に涙をためていた。僕のために、王様に食ってかかろうとしてくれた。

「イルミナリ王」僕は、自分の声が湿っているのを自覚していた。僕にできることは、岬を無事に元の世界に帰してやることだけだ。岬がどれだけ哀しもうと、僕にはそれしかできない。結局僕の思考は振り出しに戻る。「岬のために、ありがとうございました。短剣と地図は、必ずお返しに伺います」

 僕は頭を下げた。横に並ぶ岬がどんな表情をしているのか、僕にはわからなかった。

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