第2章 橙

第4話

 柔らかな感触に、僕は心地よさを感じた。遠くの方で声がした。僕を呼ぶ声だ。だんだんと近づいてくる。もう少し眠っていたい。もう少しだけ——。

「ブルー、ブルーってば」岬の声だとわかり、その刹那、頭の中に記憶の映像が流れる。体育倉庫、光の渦、岬の横顔、ミグロの焦り、吸い込まれる体。走馬灯が僕の体を駆け抜ける。僕は頭を上げた。

「岬」岬の顔がすぐ近くにあった。僕は岬の太ももの上にいた。あたりはうす暗い。どこからか漏れているはずの光も見えない。まるでグレーの空気に覆われているようだ。僅かな光を受けて、岬の瞳が浮かんで見えた。


「ブルー。ここはどこ?」

 岬の瞳は不安で震えているように思えた。揺らめく視線が辺りを見回す。距離感のつかめない空間というのは、人間にとっても不安な場所なのだ。僕は自分の心を映すその目を覗き、首を横に振った。

「ここは、ヴェルトの袂と呼ばれる空間です」

 岬の後ろからミグロの声がした。岬が体を捻る。僕は僕で、岬の膝の上から身を乗り出した。

「あ、さっきの白猫さんだ」岬はそう言って、僕の体を腕で隠す。僕に話しかけるのとは対照的に、その声には棘があった。僕は腕の隙間から、ミグロの顔を窺った。


「私はミグロ。白ネコなのに、などと思わないでいただきたい」ミグロは、岬が当然想像するであろうそれを制した。「出自はモロッコ共和国、今はICASCに所属しています」

「アイシー、何それ」岬は、ミグロが突然横文字を話し出したことに面食らった様子だった。ネコと話していることに免疫ができても、それが本当に人間と同じような社会構造を有する種族と認識できるかは別だ。岬の中の「猫」のイメージとは、かけ離れた現実がここにあった。

「ネコの活動を監視する機関です。ネコ社会の規律を保ち、人間との健全な関係を維持するのが目的です。ブルーはそなたと会話をしたため、この場所へ追放の処分が下ったのです」


「ここは、猫の世界なの?」

「そうです。この世界に人間が足を踏みいれることは許されません。本来であれば排除されるはずですが、どうやら私たちと同時に飛び込んだことで、ここまでたどり着いてしまったのでしょう」

 ミグロがゆっくりと岬に近づく。灰色の世界で、そのオッドアイだけが原色に光っていた。大きな瞳がじっと岬を見上げていた。

「じゃあ、帰してよ。ブルーも一緒に」

「それはできません。ブルーはこの世界で罪を償う必要があります。そもそも、そなたを向こうの世界に返すのは」

「何よ」

「どうすればいいのか、私にもわからないのです」


 ミグロが顔を伏せる。表情に乏しい猫であっても、ミグロが困惑しているのはわかった。

「あの術で、空間を開けばいいのでは」僕は腕の隙間から顔を突き出し、進言してみる。腕をかき回し、ゲートを作り出した姿を思い出す。

「ヴェルトには、入り口はあっても出口はありません。本来、この世界は閉ざされた場所です。入ることはできても出ることはできない。それが、追放場所に選ばれている理由なのですから」

「そんな」

 僕と岬は、揃って呟いた。僕はまだいい。僕なネコだ。この世界でも、きっと様々な困難はあるだろうが、生きていけるだろう。しかし、岬はどうなるのだ。ネコの世界で、岬が普通にしていられるはずがなかった。


「このまま、先へ進むしかありません」

「先に進むって、どうするのよ」

 岬がミグロに食ってかかった。体の正面をミグロに向け、素早く体を拘束する。胸の高さまで持ち上げた。ミグロの体がだらしなく伸びる。

「やめんか」ミグロが身をよじるが、岬の体に力が入るのがわかった。僕は解放された体を岬の横から出した。ミグロを見上げる。白い尾が苦しそうによじれていた。


「岬をネコの世界に招き入れるということですか?」僕は問いかけた。ミグロがじとっとした視線を僕に向ける。

「そうするほかありません。まずは、イルミナリ王に会っていただきます」

「王様に会うの?」

「イルミナリ王は、ヴェルトの草創期からこの地を治めています。イルミナリ王に会えば、そなたを外の世界に送り出す術がわかるかもしれません」

 岬はミグロの体を離した。身を翻し、音もなく着地する。岬に掴まれた場所が気になるのか、肩口を舐めた。ネコのそうした仕草は、人間の目を釘付けにする何かをもっている。さっきまでミグロに向けていた剥き出しの敵愾心は治ったようで、岬の瞳はネコを眺める普通の女の子のそれに戻っていた。


「ただし、人間の姿でいるわけにはいきません。まずは、立っていただきたい」

 ミグロがまっすぐ視線を上げた。それは僕の知っているどんなネコとも違う、重厚な決意に満ちた目だった。力をみなぎらせた熱い瞳の奥に、僕は言いようのない恐怖を感じた。

「どうするつもり?」

「すぐにわかります」

 ミグロは身じろぎひとつしない。岬が根負けしたように、ひとつ息を吐いた。ゆっくりと立ち上がる。その間も、ミグロはずっと岬の目を見つめていた。


 ミグロの尻尾が、不意に激しく前後に動き始めた。僕はつい、その動きに気をとられる。動くものを見ると、どうしても体の芯が熱くなる。狩猟本能が顔を出す。今はそれどころではない。僕の理性が衝動を抑えつける。

「はじめます」ミグロが小さく言った。岬の足元から、光が漏れ始めた。ゲートが開くときと同じような虹色の光の輪が広がり、次第に強く発光する。虹のベールが岬を包み込んだ。

「岬、大丈夫か」

 僕が呼びかけても岬の返事はなかった。光の中で岬のシルエットだけが浮かび上がって見えた。変化はすぐに現れた。見上げる高さにあった岬の頭が、ゆっくりと下がっていく。頭だけではなかった。体もどんどん縮んでいく。支えを失った洋服がはらはらと滑り落ちていく。


 僕は光に近づいた。岬の姿が見えなくなっていた。光が弱まっていく。極彩色の世界が、再びグレーに変わる。僕の足元には、岬の着ていたパーカーと7部丈のジーパンが落ちていた。そのジーパンがごそごそと動き、岬が顔を出した。

 岬はすっかり、ネコの姿になっていた。岬は、自分の手を顔の前に出し、手の甲と掌を交互に見回した。

「やっぱり、こうなるのね」岬は呟いた。4本の足で立っていた。前足を出し、遅れて後ろ足を出す。歩き方はネコそのものだ。「なんか変な感じ。裸だし、それにどうして黒猫なわけ?」


「仕方がありません。人をネコの姿に変えること自体、本来あってはならないこと。色使いの指定は受けた覚えがありません」

「本当にお役人さんみたいな口を聞くんだね。わかったから、早くその王様のところに案内して」

 岬は自分の服とミグロを交互に見る。そのパーカーもジーパンも、岬のお気に入りの服だ。

「服のことよりも、まずはご自分の心配をしたらいかがですか?」

「いつも裸でいるあなたたちに、私の気持ちがわかるもんか」


 ネコの姿になっても、岬はミグロに厳しいままだ。人間の目よりもはるかに感情が映る瞳には、再び湧き上がった敵対心が隠れることなく渦巻いているように見えた。

 ミグロは圧倒されたように、掌を舐めて頭をこすった。気持ちを落ち着けようと必死なのだろう。はたまた、先ほどのように岬の攻撃的な態度を軟化させるためなのかもしれない。

「服は、私が責任を持って預かりましょう」ミグロは引きつった顔のまま、再び尻尾をたなびかせる。パーカーとジーパンが虹色に光る。光が収まらないうちに、その形は影になり、光の中に吸い込まれるように消えていった。

「消えちゃいましたけど」僕は服のあった場所を前足で探る。跡形もないというのはこのことだ。

「見えないことが、不在の証明になるとは限りません」ミグロが二本足で立ち上がった。「行きましょう」

「ちょっと待って」岬と僕は、慌てて後を追った。

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