第2話

 岬にバレてしまい、どうなることかと思っていたが、幸いというか、岬は僕が人間の言葉を操れるということを家族には言わなかった。

「まあ、ブルーが喋るってことを知ったら、きっとお母さんもお父さんも腰を抜かすだろうからね」

 岬はそれだけ言って、あとは僕の体を撫でるだけだった。僕は気持ちよくなって喉をゴロゴロと鳴らした。

「普通の猫なのに、どうしてブルーは話せるわけ?」


「僕だけじゃないよ。ネコだけでもないけど、大体の生き物は話せるんだ。普通は、人間と同じで、自分たちの言語しか理解できないけど、僕たちは、みんなの言葉がわかるし、みんなの言葉を話せるんだ」

「マルチリンガルなんだ。すごいね」岬は素直に感心していた。褒められると、僕も悪い気はしない。

「でも」僕は大切なことを忘れていた。

「でも?」


「ネコが話せることは、人間には知られてはいけないんだ」

「まあ、多分そうだろうね」

「うん。昔から、そう言われていた。多分、むやみに話すと、人間の尊厳を脅かしたり、人間の争いに巻き込まれたり、ネコにとって不利益になることが多いからだと思うんだ。だから、この決まりを侵したネコはこれまでいないはずなんだ。誰も、自分たちの都合の悪いことは避ける」

「それで? 私と喋ってるブルーはどうなっちゃうの」


「僕にもわからない。人と話をしたっていうネコのことは僕も知らないんだ。僕たちがこうして人間と一緒に暮らすようになって、僕たちにはネコ同士のつながりが希薄になってしまって、そういう知識の蓄積が途絶えてしまったんだ。世界のことはテレビや新聞を読んでいればわかるけど、ネコ社会のことはなかなか聞くことはできないだ」

 それは本当のことだった。僕たちネコは、人間と生活をしているうちに、それが当然だと思うようになっていた。僕たちは人間社会のことはよく知っているのに、ネコの世界で僕が把握しているのは、せいぜい町内の野良ネコたちの縄張りくらいだ。それより外の社会がどうなっているのか、知るすべもない。つまるところ、猫として生きることが当然の時代が長すぎたのだ。


「猫も大変なんだね。まあ、それでどうかなるってわけじゃないでしょ。私も、ブルーにはずっと一緒にいて欲しいし、外では話さないようにする」

 僕はホッとした。人と一緒に暮らせなくなるのも、悪い影響を心配してのことだ。岬が頓着しないというのなら、これ以上心配することはないのかもしれない。

「そう言ってもらえると嬉しい」僕は自身の懸案事項が整理できたことで、別の心配が出てきた「それより、今日は学校じゃないの?」

 4月に入り、今週から学校が始まったはずだ。今日は木曜日だし、いつもなら朝は戦争のような慌ただしさで家を飛び出していく岬が、こうしてソファーで僕の背中を撫でている。それは嬉しいし喜ばしいことだが、どうしたのだろうと気になった。


「学校は、もういいの。とりあえず、行かないことにした」

「何かあったの?」

「何も」岬の顔は、頬にかかる髪で見えなかった。「でも、ちょうどいいから、私がブルーのそばにいるよ。何かあったら、私がブルーを守る」岬は明るい声を出した。僕の背中に体を埋めるようにしてよしよししてくる。僕はくすぐったくて、またくしゃみをした。

「やっほい」

 本当は、くしゃみをしている場合ではなかった。僕は、この時に強く岬の申し出を固辞するべきだったのだ。


 それから数日は、静かに時間が過ぎていった。もとよりのんびり屋の僕と時間を持て余した岬は、気づけば一緒の部屋でゴロゴロしていた。岬が肉球を優しく押せば僕は大きなあくびをし、岬が背中に顔を埋めれば僕は大きなくしゃみをした。

 両親共働きの家庭で一人っ子の岬は、幼い頃は一人で遊ぶことが多かったようだ。僕を膝に抱いて、岬は彼女自身の話をした。小学校の同じクラスにいた生意気な男の子の話や、中学生の時に流行ったマンガの話を、リビングのソファーで僕に聞かせてくれた。それは新鮮だった。こんなにもそばにいるのに、僕は最近の岬しか知らないのだ。


 岬に秘密が露呈してから1週間後、そんな風に穏やかな日々を過ごす僕のところに1匹のネコがやってきた。彼は庭先からひょっこり顔を出すと、まっすぐ僕のいるリビングに近づいてきた。

 岬はちょうど留守にしていた。コンビニに行くと言って、数分前に家を出て行ったのだ。そのタイミングを狙ったのかもしれない、と僕は思った。


 僕と目が合うと、彼は小さくお辞儀をした。僕もそれに倣う。こうして挨拶をするネコは珍しい。まるで役人のようだと思った。その第一印象は、あながち間違いではなかった。彼はミグロと名乗った。モロッコからはるばるやってきたらしい。白いネコで、瞳が左右で違う、いわゆるオッドアイの持ち主だった。白ネコなのにミグロとはどういうことだろうとも思ったが、日本のネコでなければそういうこともあるのだろうかと、僕はすぐに納得した。


「ブルー。そなたは戒律を破り、人と言葉を交わした。国際ネコ協定第三条に違反したものと判断される。異論はないかね」

 ミグロの声は、どういうわけかガラス越しでもはっきりと聞こえた。

「その通りですが、協定とはなんですか?」僕は聞いたことがなかった。ネコの社会は完全に分断されているものとばかり思っていた。分断されていたのは、僕だけだったのだろうか。

「やはり、知りませんか。日本のネコはこれだからいけません」ミグロは不意に体を舐め始めた。僕もつられて顔をこする。「私たちネコは、生まれたその国によらず、この国際協定に基づいて行動することが求められています。しかし、とかく日本のネコはこの協定を知らないばかりに、規範を乱す行為が後を絶ちません。人と会話をしない、このもっとも重要な規則さえ、守られないことがしばしばです」


 黄色と青色の瞳がまっすぐ僕に向けられる。無知、それは僕もあまり好きではない。知らないことさえ知らないことが、僕の周りにはきっとたくさんあるのだ。伝承の類だと思っていた忌事がルール化されていたとなれば、ミグロの登場が意味することは一つしかなかった。

「裁きがあるのなら、甘んじて受けます。ただ、このことを知っている岬は、これを口外しないと約束してくれました」

「人間の言葉ほど、信用できないことはありません。この国の言葉にもあるでしょう。人の口には戸が立てられない。噂は広がり、民衆はパニックに陥る」

 ミグロの懸念は深いようだ。今までにも人間と言葉を交わしたネコにはもちろん、人間に対しても処罰をしていたという。どのような罰則を与えるのか、ミグロは教えてくれなかった。


「僕はどうなるのでしょうか」

 僕はもっともらしいことを言って、ミグロの態度を推し量った。ミグロは、人間に嫌悪感を抱いているようだった。人間の話をすると途端に目つきの悪くなるミグロを、これ以上刺激したくはなかった。

 岬のことが心配だった。今頃、岬のところにもミグロの仲間が向かっているかもしれない。僕は、そんな心情をミグロに悟られたくはなかった。

「まずは、私と共に来てもらいましょう。話はそれからです」ミグロは僕の顔をまっすぐに見据え、落ち着き払った口調で言った。

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