第5話


 その日、うみんちゅハウスで晴那は失敗の連続だった。珍しくお皿を割り、注文のオーダーだって間違えて取ってしまう。


 ちっとも身にはいらず、視界にボヤが掛かったかのように安定しない。


 このままでは迷惑を掛けるだけだと、早めに切り上げて、更衣室で制服に着替える。


 ぼんやりとシャツに腕を通していれば、いきなりひんやりと冷たい感触が首に伝わって、思わず身を跳ねさせた。


 「うわぁっ…」

 「びっくりした?」


 してやったりの表情で、缶コーヒーを持った由羅がそこには立っていた。冷たい感触の正体はおそらくそれだろう。 


 何するんでるか、と明るく言い返す気にもなれず、かといって上手く笑えているかも分からない。

 

 こんなにも、自分は笑顔が下手くそだったろうか。


 「…由羅さん…?」


 何故か無言でジッと顔を覗き込まれる。綺麗な顔は、近くで見ても毛穴ひとつ見当たらない。


 「晴那ちゃん、せっかくだから夜桜観に行こうよ」


 由羅はさっさと私服に着替えて、返事も聞かずに晴那の手を引いていく。


 外に出れば辺りは既に暗く、街灯の灯りがやけに眩しく感じた。

 斜め下に視線を落としながら、自身のスニーカーをジッと眺める。


 所々落ちている桜の花びらは、人に何度も踏まれたせいで薄黒く変色してしまっていた。


 「…友達、出来た?」

 「まだ、です。難しいんですね」


 今まではずっと仲のいい子がいた。

 高校一年生の頃も最初はクラスに馴染めなかったけど、親友に相談するうちに明るさを取り戻し、気づけばクラスの子とも自然に話すことが出来ていたのだ。


 「…コンビニで、おにぎり温めますかって聞かれないんです。1番好きだった、油味噌味のおにきりもない。さんぴん茶もない…」


 ギュッと、手にしているペットボトルのお茶を握りしめる。さんぴん茶だって、当たり前のように売ってないのだ。


 「朝の満員電車も乗れないんです。仲のいい友達もいないし、なんで東京にいるんだっけって……ここにいていいのかなって、怖くなる……」

 「晴那ちゃん…」

 「4月に冬服の制服着るのだって、初めて知りました。沖縄では入学式は半袖だったから……私、ここでやっていけるのかな…」


 不安から空いている手に力を込めて握り込もうとすれば、そっと由羅に取られてしまう。


 向かい合った状態で、由羅は晴那の手のひらをそっと開いた。


 「爪の跡、出来てる」


 辛いことがあるたびに、晴那は手のひらを握りしめてきた。

 

 余裕がなかったせいで爪が伸びていることにも気づかず、こうやって指摘されるまで、自分の体を無意識に痛めつけていることも見落としてしまっていた。


 背の高い彼女が、そっと屈んで晴那と目線を合わせてくれる。


 「…私じゃ、ダメ?」

 「え…」

 「私じゃ晴那ちゃんの友達にはなれない?」


 そう言う由羅の瞳も、声色も、酷く優しげで。

 傷付いた晴那の心には、優しすぎるのだ。


 「…いいんですか」

 「寧ろ、なんでダメなの?」

 「新しいクラスの子から…私、地味とか暗いとか言われてて…話しても反応薄いとか…っ」


 涙が込み上げてきて、グッと堪える。声も震えて、拙い標準語で必死に言葉を紡いだ。


 「少しずつでいいの。がらりと生活が変わって、戸惑って前の方がいいって思うのは、当たり前のことだよ」


 幼い子を慰めるみたいに、由羅は晴那の頭を撫でてくれた。


 「ちょっとずつ、好きなところ見つけていこう?沖縄より好きになる必要なんてない。けど、ここも案外悪いところじゃないから……よく見てみたら、意外と楽しいことがいっぱいあるよ?」


 沖縄だったら、一際目立ってしまうであろう透き通った白い肌。

 細く長い指先で、彼女はそっと上を指した。

 

 「ほら、たとえば」


 その指先を辿って上を向けば、そこには満開の夜桜が咲き誇っていた。

 下を向いていたせいで、いま居る場所が桜並木であることも、晴那は気づけていなかったのだ。

 

 「沖縄にはソメイヨシノの桜、ないって聞いたことあるよ?」


 桜の綺麗さは、変わらないはずなのに。

 引っ越してきてからずっと、その綺麗さを感じる余裕は晴那の心にはなかったのだ。


 綺麗なのに、それを感じ取る心の隙間がどこにもなかった。


 我慢していた雫が、次第に溢れ始める。

 ずっと堪えていたけど、本当はずっと限界を超えていた。

 久しぶりに触れる家族以外のやさしさが、晴那の心にスッと染み渡っていく。


 「泣いちゃうくらい、綺麗だよね」

 

 いまだけは、泣いてしまっていいだろうか。

 由羅の言葉に甘えて、晴那は全てを桜のせいにして涙を零し続けた。


 ボロボロと泣きじゃくる晴那の髪を、由羅はずっと撫でてくれた。

 その優しい手つきに釣られて、更に涙を溢れさせてしまったのだ。


 まだ少し冷える春風に吹かれながら、晴那はようやく、咲き誇る花びらたちを綺麗だと思うことが出来ていた。






 翌日電車に乗る前に、晴那は駅に併設されたコンビニエンスストアへと立ち寄っていた。

 お昼ご飯のシャケおにぎりを2つ手に取ってから、続いてドリンクコーナーへと向かう。


 いつも通り緑茶のペットボトルを取ろうとすれば、ふと隣にある「ジャスミン茶」が視界に入った。


 聞き馴染みのない言葉に、首を傾げる。名前の響きからして、何かオシャレなお茶なのだろうか。


 つい手に取ってジッと眺めていれば、後ろからサラリーマンに押しのけられてしまう。朝の時間で忙しく、邪魔なところにいた晴那も悪いが、何も押さなくてもいいだろう。


 その力強さに凹みそうになりながら、仕方なくおにぎりと一緒に手にしていたジャスミン茶を購入する。


 店を出てから、喉も乾いていたため直ぐに購入したばかりのジャスミン茶を飲み込んで、思わず目を見開いた。

 

 「これ、さんぴん茶だ…」


 味は沖縄の頃に毎日のように飲んでいたさんぴん茶そのものだったのだ。


 すぐにスマートホンを使って調べれば、さんぴん茶は沖縄の方言名で、本来はジャスミン茶と呼ばれていると検索画面には表示されている。


 「…なんだ」


 思わず、一人で笑ってしまう。

 酷く些細なことだけど、少しずつで良いのかもしれない。


 好きなところを、こうやって見つけていけばいのだ。



 改札を抜けてから駅のホームへ到着すれば、そこは相変わらず人で溢れていた。


 「…よしっ」


 一度深呼吸をして、乗車列へ並んだ。

 電車が到着して、列はどんどん前へ進んでいく。ギュウギュウの満員電車を目の前して、つい怯んでしまいそうになる。


 もう、ずっとあのままではいられない。

 変わらなければいけないのだ。


 勇気を出して、乗り込もうとするが、やはり直前になって躊躇ってしまう。



 ギュッと、手のひらを握り込んでしまいそうな時だった。


 急に手を取られて、そのまま電車の中に引き摺り込まれる。

 直ぐに扉が閉まり、晴那を乗せた電車は定刻通りに発車した。


 一体誰が晴那の手を引っ張ってくれたのだろう。

 驚きながら、人の多さと窮屈感に耐えつつ顔をあげれば、そこにはお人形のように顔の整ったお隣さんがいた。


 「…あんた、転校生よね」


 マンションのお隣で、同じクラスメイトの瀬谷ひまり。

 彼女が、晴那を助けてくれたのだ。


 「…ずっと、ホームのベンチで座って何してたんだろうって思ってたけど…学校、行く気になったの」


 正直に頷いてから、彼女に連れられるまま車内の奥へと進む。

 奥側は意外と空間があるようで、先ほどよりは密集具合も落ち着いているようだった。


 「満員電車、乗れなくて…」

 「……うん」

 「……ありがとう」


 東京に知っている人は殆どおらず、今まで晴那が当たり前に思っていたことも、ここではそうじゃなくて。


 戸惑うことも、傷つくことも沢山あったけれど、決して悪い人ばかりじゃない。

 由羅やひまりのように、良い人もいるのだ。


 電車の窓から見える桜の木も、綺麗だと思える。優しさに触れて、晴那は少しずつ本来の自分を取り戻せているのだ。

 

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