第5話 後漢光武帝劉秀(前6-57)

 後漢光武帝ごかんこうぶていは姓は劉t《りゅう》、名はしゅうといい、字は文叔ぶんしゅく南陽蔡陽なんよう・さいようの人である。漢の高祖から9代の子孫であり、祖父の劉回りゅうかい鉅鹿都尉きょろくとい、父、劉欽りゅうきん南頓令なんとんれいを努めた。


 劉秀は9歳で父を喪い、叔父・劉良りゅうりょうのところで養われた。劉氏は当地の豪族で巨大な田産地を有し、劉秀の兄、豪放な劉縯りゅうえんもまた当家で養われ、彼の威勢は当地できわめて大きな勢力を有した。劉秀はどちらかといえば真面目で熱心に農業にいそしみ、劉縯と比べてまるで似ていなかった。つねづね劉演は事ごとに笑って、自分たちは漢の高祖とその真面目な兄劉仲のようなものだといった。


 王莽の天風てんぷう年間、劉秀は学問を修めるべく京師長安けいし・ちょうあんに赴いて、中大夫ちゅうたいふ廬江ろこう許子威きょ・しいに従い尚書しょうしょの大意に通じた。劉秀はこれより先、新野しんやの有名な美女陰麗華いん・れいかに懸想し、また長安にあって執金吾しっきんごの威武儀仗にあこがれ、大いに慨嘆して語った。「官に着くなら執金吾、妻に娶るなら陰麗華である!」と。


王莽おう・もうの末年、徭役ようえきがはなはだ重く、刑法厳酷であり、連年蝗害こうがいが起こり、民は無聊ぶりょうの生をかこった。各地で農民は紛々として農具を取り、王莽の暴政に反旗を翻した。


地皇ちこう3年(22)、南陽の空は旱に襲われ飢饉に荒れた。劉家の賓客たちも財物を掠め取ろうと動いたので、劉秀は一族とともに姉の夫、新野の鄧晨とう・しんの家に避難した。鄧晨らの人々は宛県、新野の間で食糧販売を行う。その頃新市、平林で軍が興り、大いに南陽の勢を席巻した。新野の大商人・李通り・つうらは思うところあって南陽の宗室劉縯兄弟に連絡してともに挙兵することをもちかけた。李通は堂弟・李轍り・てつを遣わし、宛県から新野に劉秀を迎え、現在の形勢を分析してまた引述して「劉氏の再び起こることを、吾等李氏が輔弼ほひついたしましょう」と讖語しきごし、劉秀に説き勧めてこの時を失わずして天下を奪取すべしと説いた。彼らは商議を定めて同年9月立秋、持ち前の部隊と大夫とで衆を集め、起義を行った。


10月、劉秀と李通は宛県で挙兵。11月、劉秀はその隷下の賓客たちを家郷に返した。劉縯はこのときすでに起兵していたが、ただ劉氏の子弟は紛々として身をかわし、徴征に参加するのを渋っていた。のち彼らは劉秀が武官の絳衣を着て大冠をかぶり起義に参加したのを見て、すこぶる驚くと同時に曰く「劉秀のような恭謹忠厚きょうきんちゅうこうな人物までもが参加するというなら、我らも事に参与しよう!」といってその下に集った。


劉秀の諸軍は湖陽にあって戦闘に勝ち、しかし財宝の分配が不均一であったというので一部の軍卒が劉氏の子弟に反攻した。劉秀はこれを訊くやすぐさま劉氏の所得物を回収し、軍卒たちに分配して危うく内訌が起こりかねない場を平息に収めた。劉秀の軍は一新されて団結決議し、一挙棘陽を陥として長安に迫らんとの勢いを見せ、王莽の大夫甄阜けん・ぷ属将梁丘賜りょう・きょうしを挫く。


更始こうし元年(23)正月、劉秀は沘水しすい西岸の戦いで再び甄阜、梁丘賜を大いに破り、この二人を斬る。およそ時を同じくして、劉縯は淯陽いくようで王莽の納言将軍なごんしょうぐん厳尤げん・ゆう秩宗将軍ちっそうしょうぐん陳茂ちん。もを破り、進んで宛城えんじょうを囲んだ。


2月、新市、平林へいりんの諸将は劉玄りゅう・げんを擁立し、これを更始帝こうしていとなす。更始は劉縯を大司徒だいしとに、劉秀を大常偏将軍だいじょうへんしょうぐんに任じた。3月、劉秀は潁川の境内で昆陽こんよう定陵ていりょうえんの諸県を攻め降した。


王莽は知阜ちふから惨敗を知り劉玄が帝を僭称したことを聞くと、大いに恐慌し、その大司徒王尋おう・じん大司空だいしくう王邑おう・ゆうらに兵100万、その中に甲士42万を授けて遣わし、劉縯の諸軍と決戦を欲す。5月、王尋、王邑は潁川に到達、厳尤、陳茂と軍を合した。王莽の軍は威勢甚だ大きく、旗を押し立て輜重を引き、陣を連ねること数百里。軍中に虎、豹、さい、象らを帯びて軍威はなはだ壮んであった。


劉秀の諸軍は王尋、王邑の兵盛んであるのを見て、勢いに迫られ一旦昆陽に退く。昆陽城中の軍隊はわずかに8,9000人、守城の将領たちは衆寡敵せず、また家室を顧みてその保全を願い、打算によって城を棄て逃げる。劉秀は衆に向かって説くに、「我らは目前の敵よりかて乏しいといえども、外寇がいこう強大である。ただ大いに家の力を合して敵に当たり、勝ちをとるならなお一銭の希望あり。いかでか四散して奔り逃げれば、必定、各個撃破されん。しかしてかつ宛城なお未だ攻め下されず、劉縯の回援はここに無し。一旦昆陽の守りを失えば、各路の起義軍みなまさに消滅せらる。難道なんどう、諸君ら今日ともに功業を建てんと想うなら、ただ妻児財産を保全せんと想うべし」諸将懊悩憤怒して曰く「劉将軍敢えて我らにこれを説くか!」劉秀は含み笑いして身を起こし、口を閉ざして後は物を言わず。


王莽の大軍、先鋒軍10万が昆陽の城北に迫り、城中の諸将手をつかねて策なし。恐慌して再び劉秀に商議を請い、劉秀に策略の提示を求める。劉秀は王風おう・ふう王常おう・じょうら諸将の留守を衝き、自ら宗佻そう・とう李轍り・てつら13騎を率い、夜に乗じて重囲を衝き、広く援兵を求める。


劉秀は東は郾、定陵の諸営から兵をことごとく発す。将領に財物に貪婪どんらんなものあって留守を主張すれば、劉秀は蒙を啓いて曰く「今日よく敵を破らば、もって万倍の珍宝を得る、もってここに殊勲を建立するべし。もし敵に敗北したとするならば、命は保証されず、財物守るべけんや」と。衆人劉秀の説得を受けて無言押し黙り、ただよく昆陽に随従す。


6月己卯、劉秀と援兵は一直線に昆陽に還る。彼は自ら1000余騎を率い、王莽軍から4,5里のところに陣を布いた。王尋、王邑は数千人を派遣して迎え撃つも、劉秀は疾風迅雷勇猛果敢、たちまちに斬首数十級を得る。そのほかの将領たちは大いに喜んで言うに「劉将軍、平時は小敵を見て怯えらるるも、いま強大な敵を前にして反するがごとくに勇敢、実にあの人こそ惊異りょういなるべし。」彼らは紛々として劉秀を共助することを表明し、ともに敵に当たる。劉秀は再び発奮して進攻し、王尋、王邑は壊乱して退却した。諸部の援軍は勝ちに乗じて進み、斬首数百、連戦連捷してまっすぐ敵営に逼る。


その時、劉縯が宛城を落としてから3日、ただ劉秀はこれを知らず。彼は城中に人を派遣して送信し、詭称きしょうを聞き劉縯の援軍昆陽に至って、また書信を持った意将これを落とす。王尋、王邑はこれを拾い、大いに焦慮した。


劉秀の諸軍はしばしば勝ちを得て、士気大いに振るい、一を持って百に当たらざるなし。劉秀は自ら3000人の決死隊を編成し、一挙王尋、王邑の中軍を衝き、王尋を戦死させた。城中の守軍ここを先途とばかり鼓を鳴らして城から打って出、内外挟撃、歓声は天を震わせ地をどよもした。王莽の兵は頓挫潰滅して軍の体を為さず、互いに相手を踏みつけ、屍を荒野に横たえる。このとき雷名鳴り響き、狂風たち起こり、屋根瓦は飛んで落ち、暴風注ぐが如く、黄河の水は荒れ狂って奔騰し、王莽軍の中の虎や豹は解き放たれて、士卒は退路を奪われ数万人が黄河に溺れ、ようやくに逃れた者たちは塞に立てこもった。王邑、厳尤、陳茂は部下の死体を踏んでようよう黄河を渡り、ようやくに脱出を勉強する。劉秀諸軍の将たちは王尋、王邑の軍が持ってきた糧草輜重をことごとく鹵獲し、車甲珍宝はかぞえられぬほど、数か月をかけても運搬が完了しないので、大部分を焼き捨てた。


昆陽の大捷により王莽軍の主力は粉砕され、王莽政権は覆され滅びの日を待つばかりとなった。しかるにこのとき、更始軍内部で深刻な衝突が発生した。更始帝は李轍、朱鮪しゅ・ゆうそそのかしてつかわし、威望はなはだ高くなった劉縯、劉秀兄弟に猜疑を抱いて殺さんとする。劉秀は劉縯が殺されたことを聞くやすぐ宛城に向かい、更始帝らに謝罪した。彼は劉縯の僚佐たちに詰られながらも敢えて恬淡てんたんと振る舞い、自分の過失を再検討するに昆陽の大捷の功績が自分の名声を高めすぎたことをり、劉縯の喪にも服さず、言動挙措も寸毫すんごうたりと常と変らず振る舞った。彼は宛城にある時期に陰麗華(時に19歳)を娶る。更始帝は劉秀を疑ったことを大いに慚愧ざんきし、彼を征虜大将軍せいりょだいしょうぐんに抜擢し、武信侯ぶしんこうに封じた。


実際のところ、劉秀は兄劉縯を殺されたことを悲痛に感じ、いつも一人で部屋にいるときは酒も肉も遠ざけて枕を濡らし、泣いた。しかしながらこのとき、彼はこのとき更始政権に抗いうる実力が欠乏していると判じたため、殺禍さっかを避けるために自分の真情を隠して表に出すことがなかった。


この年の9月、王莽が長安で殺害される。更始帝は洛陽を都とし、劉秀を司隷校尉しれいこういとなして先行し宮府きゅうふを整備するよう令じた。はじめ、三輔さんぽ(近畿地方一帯)の吏士は東に更始を迎え、更始の武将らはみな巾幘きんかくを戴いて身に婦人の衣服を穿き、十分笑うべきを覚える。ある人はその恐れを知らぬ行為に感到しながらも危惧して洛陽から逃亡した。のち、彼らはたまたま劉秀およびその僚属に遇い、望外の喜びによしなく、年老いた吏人は哭きて曰く「生きて再び今日、ついに漢官の威儀にまみえることができるとは!」と感動した。


 更始帝は洛陽に到達したのち、劉秀をもって破虜大将軍せいりょだいしょうぐん行大司馬事こうぐんしばじとし、持節じせつを授け北に黄河を渡らしめ、冀州きしゅう幽州ゆうしゅうを鎮撫せしめた。10月、劉秀は河北に到達する。彼はここに至り、広く各位の官吏に等級を与え、考察すること黙々。彼は王莽時の苛政を排除して漢朝の官吏名を回復させた。新たに審査する案件としては寛く発落していたずらに囚われんことを。劉秀の種々の挙措は大いに人心を得、当地の官員、百姓は争って牛や酒をもって彼を労った。


ただこの当時、劉秀が河北に立足したとき穏やかならず、卜者ぼくしゃ(占い師)の王郎おう・ろうなるものが河北にあって宗室劉林りゅう・りんの血筋を騙り、漢の成帝の子劉子輿りゅう・しよであると称して起兵、劉秀及び更始政権に対抗する。12月、王郎は邯鄲かんたんで帝を称し、河北の郡県はこれを訊いて次々これに服す。更始2年2月、劉秀は幽州の薊城けいじょうに退いた。王郎は十万戸の懸賞をもって劉秀を拿捕せんとし、ここで河北の宗室劉接りゅう・せつが薊中で挙兵、王郎に呼応する。当時城内大乱となり、王郎に使者を遣わして伝言し、各級の官員みな忙しく外出して迎接する。劉秀とその部下たちは薊城に不法停留し、ただ粛々と南下。彼らは道沿いに敢えて入城せず休息し、風を晩餐に野宿した。


劉秀一行は鐃陽に到達すると、餓えて疲労困憊する。かれらは王郎の使者を称して傳舎でんしゃに混入した。傳吏がようやく食物を送ってくると、彼らはようやく互いに起こしあった。傳吏はこれを見て大いに懐疑の念を起こし、鼓を打ち鳴らすこと数十遍、偽称して王郎麾下の将軍でようやく舎にたどりついたのだと騙り、もって動静を窺った。劉秀の武将はそれぞれ大いに色を失ったが、劉秀は駕を奪って逃げることを考案、また心にこの難事を遂げて脱出するために緩々翻って座位し、王郎の将軍として帝に面会するためと揚言、座すやすぐさま車上の人となってその場を逃れる。


劉秀らは風を頂き雪を冒し、昼夜兼行で呼沱河の辺に至り、却って船なかったが、幸いにして眄河べんがの水が凍りつき、ようやく渡河を果たす。劉秀は道なき道を走り、忽然、信都しんと郡太守・任光じん・こうが旧くは更始を支持していたが、今後はあなたに着くと告げられ、一路信都にたどり着く。劉秀は信都に駐進したのち、付近各県を征伐した四千人と和成太守・邳彤ひ・とうがまた郡を挙げて降り、鉅鹿はきょろくの大姓・劉植りゅう・しょく耿純こう・じゅんらが宗室子弟を連れて帰属した。劉秀の軍隊は一挙に膨れ上がって数万に至り、冀州北部の諸郡に在って王郎と対峙した。劉秀は進み冀州地方の勢力的支持を受け、真定の著名な豪族・郭氏の娘・郭聖通かく・せいつうを妻に娶る。


まもなく、上谷じょうこく太守・耿況こう・きょう漁陽ぎょよう太守・彭寵ほう・ちょう、また武将の景丹けい・たん耿弇こう・えん呉漢ご・かん蓋延こう・えん王梁おう・りょうらの人が帰服し、彼らの突撃騎兵を率いた劉秀が、更始の派遣した謝躬しゃ・きゅうと合して王郎を撃つ。更始2年(24)5月甲辰、劉秀は邯鄲を陥とし、王郎を擒え殺した。


劉秀は王郎の文書檄文を収奪し、その中から劉秀の武将が王郎と連絡していた証拠が見つかり、中には劉秀を侮辱する書信も数千件に上ったが、劉秀はこれらを一切見なかったことにして、部下たちの見守る中証拠の文書を全て焼き捨てた。劉秀は部下たちに語って、「わたしとて勝てるとは思わなかった。貴公らが不安になって叛徒の側についてたとしても不思議はない。」と。


更始は劉秀が河北の雄となったことを受け、人を派遣して劉秀を簫王しょうおうに冊立し、ただしその勢力を恐れて長安に還ることを命じた。劉秀はこれを肯んぜず、耿弇の建議を受け入れて河北はまだ平らげられておりませんと報告、帰還を拒絶した。この時より劉秀は更始政権を離れ、実際上道を分かつ。


王郎平定後、銅馬、大彤ら数十万の大軍が河北に流入してくる。劉秀は河北に立足し、これらと艱難、争戦を展開する。劉秀は呉漢、耿弇を再度幽州に派遣し、劉秀自身はこの年秋、鉅鹿、魏郡ぎぐんにあって、銅馬どうば高湖こうこ重連ちょうれん諸軍を相次いで破る。劉秀はそこでその特に功労あった28人の大師をみな列侯に封じ、降るものの不安を取り除き、彼らのために放胆に振る舞い、その令するおのおのの旧営の領兵の前に出て軽騎にまたがり巡察した。降ったものはこれを見て大いに感動し、彼らは彼のこの行動を見て「䔥王は推して心を人の腹中に置く。吾輩らあに良くその命に効さん!」と。劉秀は銅馬の諸軍を降して収編し、兵力数十万の大軍に至ったので、関西地区ではこれを称して劉秀を“銅馬帝どうばてい”と呼んだ。


これと時を同じくして、赤眉せきびが関中に進出、ただちに更始の都城長安に逼った。劉秀は腹心たる大将軍・鄧禹とう・うに軍を率いさせ、赤眉に向かわせ、漢中を取らしめる。また馮異ふう・い孟津もうしんを占拠させ、洛陽の更始の大将となった朱鮪、李轍らを拒ませた。


更始3年(25)初、劉秀は河北経営を継続、尤来ゆうらい大槍だいそう五幡ごはんら諸軍と激戦する。順水じゅんすい北岸の一戦で劉秀は勝ちに乗じて冒進し、反対に敵軍に敗れるところとなる。劉秀は狼狽して逃げて高岸に至り、突撃騎兵・王豊おう・ほうの将馬に助けられる。劉秀は馬上でその肩を叩き、また頭を回して耿弇に笑って曰く、「この役の機は敵人の恥じて笑う所にあるな」と。耿弇は箭術きわめて得意であり、射るたびに敵兵退き、ようやく劉秀を脱出させることに成功した。その後数か月の激闘ののち、劉秀は最終的に河北を平定した。


6月己未、鄗城こうじょうにあって皇帝に即位、元号を建武とし、文武百官を置く。同年10月、劉秀は洛陽に都し、後漢王朝を正式に開闢かいびゃくする。


建武3年(27)、閏正月、光武帝は大軍を率いて関中に親征、赤眉10万余をついに投降させる。こののち、光武帝は武力を致して各地に割拠する勢力の力を削ぎ、関東の劉永りゅう・えい秦豊しん・ほう張歩ちょう・ほ李憲り・けん董憲とう・けん隴右ろうう隗囂かい・ごう、蜀の公孫述こうそん・じゅつ、などを均しく攻めて滅ぼす。建武12年(36)11月、光武帝は全国を再統一した。


光武の建国初期における棘手きょくしゅの任務は、これいかん大小の功臣の数量、衆の寡多を定めることであり、光武帝がとった政策は一方面で功臣に尊貴な地位を給予することであった。如くに建武2年(26)正月、功臣を分封した。最初の受封者は217人。建武13年(37)4月の時点では更に分封されて人数はついに365人に達した。鄧禹、呉漢など特に功労のあったものは封邑4県、これが西漢初年の功臣たちへの封賞であった。


その一面で洪武帝は功臣たちの実権を削ぐことにも力を尽くした。第二次大分封の時、光武帝は功臣を将軍職から罷免し、彼らの兵権を剥奪する。光武帝はまた大いに文吏を登用して功臣に取って替え、手柄に対して与える土地を控え、これを政府に返還させて迅速に皇権の強化に努めた。


光武帝は地方の武装豪族の力を削ることにも努め、みずから建武15年(39)“度田どでん”制度を遂行して州郡の墾田畝数と戸口の年紀を調査した。この挙は大姓豪強の激烈な反抗にあったが、光武帝は兵を発してこれを鎮圧、地方の割拠勢力が発生しないようにした。


光武帝は生涯のうち軍旅にある事10余年、深い傷を受けることもあり、長期的な戦乱と人民の困苦を身近に目にし、これゆえに天下統一後もできる限り軍事活動を控えることに尽力した。皇太子がなぜ攻め戦をしてはいけないのかと問うたところ、光武帝は戒めて曰く「昔日、えいの霊公は戦陣の法を請うて孔子に回答を拒絶され、これを不是としたがお前もこれに関心を寄せるようになったか」と。光武帝は翻って種々の措置を采取し、戦争の後患を除去することに努めた。例の如くを彼はしばしば下詔し、また奴婢を放免して庶人とする奴隷解放令も出した。


光武帝は理政にも勤勉であり毎日朝は晨に起き、日が暮れても止めず、還って常々公卿、郎、将と経義について深夜まで語らった。皇太子は父親のこの辛苦を見るに、政務の減少を勧め少しは遊興に時間を使うよう建議したが、光武帝は答えて曰く「我にとって最も楽しいのは政務なのだ。これで特別疲労することなどあるものか」と。


光武帝は封建秩序の回復に尽力し、建国の初めより特に儒学を国学として提唱した。早くも建武4年には大学を設立し、五経博士を置いて家法を教授させた。建武中元元年(56)2月、光武帝は前王朝の君主に倣って泰山に登り、封禅の儀を行い、班固をもってその法統の地位を固めた。両漢の際図を讖って盛行し、光武帝はまたその借助した≪赤伏符≫などの讖語を製造してこれを論じた。彼の即位後、図讖が大いに盛んになり、建武中元元年、図讖が天下に宣布されて図讖を読み解くための経典が造られた。


建武中元2年(57)2月戊戌、光武帝、薨去こうきょ。享年62歳。

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