第3話.中国、明の戚継光(せき・けいこう1528-1587)

戚継光、字は元敬、号は南塘、晩年の号を孟諸。祖籍は定遠(安徽省定遠)、のち山東蓬莱に遷る。父は戚景通といい当代随一の正直者として知られるだけでなく経史に精通した文武兼備の名将であった。嘉靖年間、戚継光は父の後を継ぎ、その職を襲って登州衛指揮検事。のち都督同知、総兵官。最終的には左都督にまで上った。


1.治軍厳正、精兵選抜

 戚継光は幼少から父の厳格な教育下に養育され、詩文、兵法に通じ武芸にも長じた。17歳で父と死別、父の爵職を襲い、登州都督検事。在任期間中、武経七書をはじめとした歴代の兵法家の名著を読み、これに習熟した。


 嘉靖33年(1553)夏、戚継光は都指揮検事とされ、登州、文登、即墨の三営25衛所の全権をゆだねられた。ここにおいて彼は身につけた兵法を駆使し、倭寇対策の海防について籌策を練る。


 嘉靖36年、倭寇が楽清、瑞安、臨海を犯すと、戚継光は愈大猷と会合して岑港にある汪直の余党に逆撃、これを囲んだ。しかしながらこのとき長らく敵を下すことあたわず、そのため免職され「功をもって罪を雪ぐ」よう厳命される。撤収した倭寇は他の倭寇と合流して台州を掠め、給仕中・羅嘉賓は戚継光に功績ないことを上奏して弾劾、さらには外国との密通を讒訴した。朝廷の審問を受けるも、まもなく汪直を平定した功により原職に復す。


 倭寇か浙江を擾乱、いたるところ明軍を破った。沿海諸州は兵力貧弱であったので、明朝は山東、河北、江西から大兵を動員して倭寇を討たんとしたが、いかんせん彼らは「客兵」であり、最初こそ浙江の人々は彼らに期待をかけ、歓迎したが、彼らがすぐに食料が足りなくなると客兵らは規律をなくし、民から搾取し略奪した。「奸兵がメシを奪うので、賊はまったく減った気がしない」と現地の民は言い残したという。1度、敵と遭遇すると、敵を数里前に控えて彼らは肝を潰し、潰走した。民はこれをののしった俚諺として「賊に遭うはやすいが、客兵にあう勿れ。倭寇から逃れるは寧いが、客兵からは生きて逃れられぬ」と唄った。


 戚継光は浙江に赴任するや、まもなく客兵の腐敗処断に着手し、戦線を支えうる戦闘力を有す新軍の創出を企図し、兵を徴兵して選抜した。戚継光はこの選抜について条件を付ける。1つ老人を敬うこと、1つは民間人を斬らぬ事、容姿によって士官を取らず、‘胆力をもって専らとする’いかにして敵を殺しうるか、をを重視した。嘉靖37年10月、義烏県の農民3000人が召募に応じて集い、これが後生有名な戚継光の「戚家軍」の中枢をなす。彼らは驍勇善戦、敵に強いだけでなく治軍厳正であり、民衆から歓呼をもって迎えられた。


2.桃渚救援、倭寇殲滅

 嘉靖34年(1555)7月から翌7月まで、戚継光は浙江分守の参将として寧波、紹興、台州の三府を任された。この三府において特に倭寇の猖獗はげしく、倭寇の臺(とりで)があちこちに散在し、浙江における主戦場であった。戚継光は部隊を督して作戦活動を行い、立て続けに臺を抜く。


 嘉靖38年初春夏の交わる頃、倭寇は大挙して台州を犯し、桃渚の千戸所(浙江省台州の東部)を囲む。4月初め、戚継光はまた部隊を率いて寧波から台州救援に赴き、桃渚の囲みを解かすべく動く。かれらが桃渚にいたった頃、桃渚の城はすでに数ヶ月の攻囲を受けて危急の事態であった。敵は城兵逃散を防ぐべく、囲いを開いてみせると外に出た明兵をその凶鋒にかけていた。戚継光は敵を牽制しつつ、ひそかに伏兵を埋伏、敵が機に乗じて攻めかかるのを、伏兵と城兵の突撃によって破る戦術を立てた。彼はまず先遣隊を出して必争の地を調べ上げ、そこに部隊を派遣して埋伏させる。しかるのち、銃士十人をもって桃渚城に入城させ、守備軍と合流させた。さらに城楼に大いに旗を立てさせて大兵を擬す。 翌日、倭寇の攻城。城上から銃士が斉射し、敵を次々になぎ倒す。倭寇はこの反撃に多量の死傷者を出し、また城上に立てられた旌旗を恐れて攻城を続けられず、そのすきに戚継光は大兵をもって入場したので、賊は倉皇として退却した。ここに至り、彼らは奇貨置くべしとばかり追撃に出、賊は伏兵に討たれ、戚家軍に後方を扼されて壊滅する。倭寇の圧倒的敗勢であり、備えのなかった彼らは恐れ震え上がりあとに措する手段もなく、ゆえに無惨なほどの惨状を晒した。このことを反省した倭寇の残余は章安(浙江省臨安)の南岸にはしって挙兵し、頑強に抵抗した。戚継光はこちらでも三カ所に埋伏させ、自ら銅鑼を鳴らして奮戦。半日に及ぶ英雄的戦闘のすえ、大いに倭寇を破る。戚継光はこのときも機を逃さず追撃し、黄蕉山に追ってついに敵を滅ぼした。さらに戚継光は各地を転戦、倭寇を滅ぼして回った。時に集まり時に散らばる、この地における変幻自在の倭寇も、桃渚以降の戚継光の徹底した殲滅戦でそのほとんどを根絶やされた。


 5月、戚継光は軍を率いて南海門に至り、ここでまた2度にわたって指揮官として倭寇と戦い、倭寇3000を殲滅した。


1.北に寧海を襲い、南福建を平らぐ

 嘉靖39年、戚継光はまた参将に任ぜられ、一路鎮(府)を開いて台州、金華、厳州などを負い松門、海門の一帯に駐屯した。翌年春、倭寇の船数百艘、兵員1万2千余が出動、浙江を犯す。この攻めやすさ故に、台州は倭寇の侵攻における重要拠点の一つであった。4月19日、倭寇の船16艘が象山から奉華、寧海を発し、機に乗じた彼らは一挙台州に攻めかかった。戚継光はこれを見て、南海、松門の間に主力を終結、寧夏から100余理の所に兵を埋伏。はたして北上してきた賊軍に対して固く守り、動かず。敵はすぐに焦れ、気の狂ったような騒ぎ声を上げた。 戚継光はそれれを見澄まして決策、将を率い策を練り、まず北岸、ついで南岸を殲滅すると、すぐに寧夏を救援、 またしかる後台州で速戦即決の方針をとる。彼はまず先鋒軍を2つに分け、台州と開海門の防衛に宛てた後、精鋭を率いて北に急迫、寧海を直撃した。寧海一帯もまた倭寇の跋扈激しい状況であったが、戚家軍いたると聞くや倉皇として逃げ出した。戚継光は逃走する倭寇を追撃し、一挙之を粉砕する。


 戚継光が寧夏へ北進したとき、倭寇はなお数千の兵力と数十艘の船を有していた健跳所一帯を荒らしていた。彼らは兵を別って一軍は桃渚、一軍が新河城を攻め、その気勢はなお盛んであった。戚継光は寧海の倭寇撃破を完成させると兵を3手に別ち、銅鑼を鳴らして疾風迅雷、台州回復に向かう。当時台州の倭寇は台州から2里のところに突然現れた戚家軍に遭遇し、驚き、恐慌して支えられず。戚継光は大戦、正兵奇兵を織り交ぜて戦い、倭寇を南に払う。戚家軍の追撃を阻むために彼らは金銀財宝を街路海路に放り捨てたが、厳しく訓練された戚家軍の面々はこれに見向きもせず、倭寇を鏖殺。誰一人宝物に目を向ける者はなかった。


 台州における倭寇の侵犯を阻んだとはいえ、大局的に見て敵はなおこれを滅ぼすのは困難と想われた。また倭寇は一戦交えただけですぐに逃げ去るために滅ぼし尽くすことが困難であり、いちど台州を回復しても戚家軍が去るとまた台州を襲い、猖獗した。種々の状況もよろしくなく、事態を好転させるべく戚継光は一計を講じる。まず台州からいったん離れて見せ、桐岩嶺(臨海の北)に至ると、偽って寧海に。倭寇は戚家軍の消失を見て台州を復し、これに策が当たったと見た戚継光は4月27日朝、部衆を励まして台州に回頭した。疾風迅雷の戚家軍は桐岩嶺を発して半日で台州に戻り、万に一つも戚家軍がやってくることはないと倭寇が油断しきっているところに攻めかかる。倉皇と逃げ惑う倭寇を、戚家軍は全力で追撃した。日に5戦して5捷。生け捕りの首領は2000余、斬首300余を数え、他数千人はみな水に落ちて溺死。この一戦により、台州の倭寇は多大な損耗を強いられた。


 嘉靖41年(1562)7月、戚継光は上将軍に任ぜられる。6000人を率いて浙江から閩に入り、福建の倭寇に兵力を投入して平定。戚家軍はしばしば倭寇と激戦を繰り広げ、毎回勝利し、戚継光と戚家軍の威名は天下にとどろいた。倭寇は戚継光を‘戚老虎’と呼び恐れた。同年11月、戚継光は浙江から軍を還す。


4.激戦して海を平らげ、仙游の囲みを解く

 戚継光が班師してほどなく、倭寇の跋扈がまた盛んとなる。彼らは「戚老虎なかりせば我らの天下である」といい、福建を荒らし回った。


 嘉靖42年(1563)4月13日、戚家軍はまた征旅の途につく。このとき、すでに五侯山(五虎山。福建省閩侯の東南)に駐屯する総兵愈大猷、劉顕らと会合して多日を費やし、20日、戚継光と愈大猷、劉顕は共同で敵を破る策を練り、軍を3路に分けて同時進行的に海路を平らぐことに決す。戚継光が中路、愈大猷が右路、劉顕が左路を担うこととなった。


 翌日深夜、明軍は同時に進発、真っ先に戚継光が進軍し、まず倭寇2000を粉砕してしかる後、指揮棒をふるって猛追した。斬獲1200余を数え、救出した民衆3000余という。この戦勝を巡撫・譚綸は皇帝に上奏、戚継光の功績天下一等、愈大猷、劉顕は之に次ぐ、と報じた。この功績により戚継光は都督検事とされ、ついでまもなくまた昇進、都督同知、千戸侯を与えられ、愈大猷にかえて福建総兵官。


 11月上旬、倭寇はその力を収束、2万余の兵力を持って木蘭渓の仙游城を囲む。12月24日、戚継光は明軍を集結させてこれを救援に向かい、組織的に反撃。25日、大軍を格路に分けて進発した明軍は翌日早朝、連携して戦い、敵営を襲って倭寇を殺す。各路の軍はひっそりと、またそれぞれ非常に隠蔽的に行動し、敵は気づいたそばから打撃され、命を狩られた。まず南臺を抜き、しかるのち東西合流した共同軍は、たてつづけに東、西、北の臺を抜く。戚継光は緊密に各部署を連携させ、迅速な運用を可能とした。一挙仙游の囲みを粉砕し、倭寇の攻城具、武器、その他もろもろを焼き討ち、破壊した。


 仙游の囲みを解いたのち、戚継光はすかさず追撃に移る。嘉靖43年2月、同安県で倭寇と二戦して二捷。ここにいたって福建の倭寇は平息に向かう。翌年、戚継光は戚家軍の鋭鋒を広東に向け、倭寇を平定した後今度は山寇数万をもたいらげ、広東から倭賊の患を除いた。戚継光と東南沿海の郡民は10数年にわたって困難な作戦に直面させられたがようやくにしてそれも終結し、国土保衛の大戦に大勝利を獲た。


5.国のために兵を練り、北彊を衛る

 隆慶初年(1567)、給事中・呉時来は薊門の危急を告げ、愈大猷、戚継光は辺境防衛のため勇士を鍛えるよう命ぜられる。兵部の意見としては戚継光一人にこの任を用いるべしと言い、神机営副将に任命。戚継光に好意的な譚論は彼に薊の軍指揮を任せ、歩兵30000を集めよと命ずる。その中核をなすのは浙江で得られた3000人であり、戚継光は彼らの訓練を申し出て皇帝の許しを受ける。隆慶2年5月、戚継光は都督同知扱いの身分を得て、薊州、昌平、遼東、保定各鎮の兵事に関してよろしきをもって任ぜられた。まもなく正式に総兵官となり、薊州、永平、山海に鎮守。浙江の兵と同じ訓練を軍に施す。


 嘉靖以来、辺境の城郭は修築を施されたとはいえ万全ではなく、戚継光がみたところ敵臺(物見櫓)の建造は急務であった。戚継光は浙江でやったように独立した一軍の裁量権を皇帝に求め、容れられ、浙江の3000を郊外に配した。ときに天下大雨となり、日は西に傾くも、戚継光は直立不動。辺境の戊卒たちは驚き恐れ、多いに戚継光に服した。隆慶5年秋、堅固にして雄偉な敵臺完成、2千里の距離を隔てて他の臺と連絡を取れたという。この功により、戚継光は爵職の世襲権を与えられた。


 当時アルタン・ハンが屈服し、宣府、大同から以西はすべからく平和であったが、アルタン以後、その小王子は土蛮を漢地に遷り住まわせるべく、10数万の軍卒を擁してつねづね薊門を威嚇していた。しかして菫狐狸とその長子昂句は土蛮と結び、反復常無し。万暦元年(1573)春、ついに敵が漢土に侵入、騎兵でもって財物を求め、大いに侵略し、略奪し、辺塞を打って明軍を誘った。戚継光は出撃し、狐狸を捕獲、そして長子・昂句としばしば戦いこれを破って辺境の民衆から脅威をのぞき、朝貢を再開させた。


 ほどなく左都督に任ぜられた戚継光は遼東の妙蛮が侵犯してくるのを撃退、また大子逮保に封ぜられ、さらに大使少保加えられる。その後も在任中、おびただしい報奨を受けた。


 戚継光は薊州に鎮守すること16年、辺境防備の法数箇条を定め、薊門は大いに安定した。之より前の嘉靖38年(1559)、17年間続いた10人の大将軍が罪を得て免職されたが、戚継光はひとり例外的に残された。また彼はときの宰相、高拱や張居正らから好意と信任を受けたことでも知られる。


 張居正死後半年、給事中・張鼎は北方の守備に戚継光は不適格であると説き、彼を広東に移した。戚継光は鬱々として楽しまなくなり、一年とたたず病を得た。給事中・張希皐からまた弾劾された彼はついに免官されて家に戻り、それから3年後、御史・傳光宅の上奏により俸給を停止される。万暦15年(1587)12月8日、失意のうちに病没。

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