番外 書く事が癒やしになった二年間

 十年以上通っているKクリニックのデイケアにSという通所者がいて、その人の声が生理的に駄目でデイケアに通わなくなってから一年くらい過ぎた頃だ。

 俺は昼間の居場所を求めてうろつき、あがいていた。南区の生活支援センターや、港南区の生活支援センターに訪問してみたり、区の福祉担当者(ケースワーカー)に「昼間の居場所を探しています、自室にいると寝てしまうので」といった具合だ。

 何かのきっかけか忘れてしまったが、通っているクリニック以外のデイケアにも通所できるという事を知り、その件をケースワーカー氏に聞いてみた。

「ウチから通える範囲にデイケアの受け入れはありませんか?」と。

 即答はなかったが、調べてもらい元芹香病院(神奈川県精神保健福祉センター)が大型デイケアを開設していることを教えてもらい、そこへ通所できるか交渉を任せた。確か自分で交渉したりはなかったはずだ。

 運よく神奈川県精神保健福祉センターのデイケアに通う事が決まった。だがしかし。

 そのデイケアに通いはじめた頃、丁度コロナが流行りはじめた。そこで提示されたのは「デイケアに通うのは週一、水曜日のみ」だった。もっと曜日を増やしたかったがコロナには勝てなかった。俺は不承不承、週一回のデイケア通いをはじめるのであった。

 水曜日のデイケアは午前中のプログラムが文芸で、午後がクラブ活動で音楽鑑賞をしていた。

 先に音楽鑑賞について説明する。音楽鑑賞はスマホに音楽をダウンロードしておいて、オーディオケーブルでラジカセのラインINにつなげ、ラジカセをスピーカーの代わりに使うものだった。オタク丸出しのプレイリストばかり持って行ったが、適度にスルーされた。他の利用者さんもCDアルバムを持ってきており、音楽鑑賞はそれなりに盛り上がっていた。

 問題は文芸プログラムだった。パソコン室で行われたそれには、ほとんどレギュラー参加者は俺のみという過疎プログラムだった。

 さらに開始当日は、外部講師の作家先生がいないため、俺とデイケアのスタッフFさんひとりのマンツーマンだった。俺はパソコンを立ち上げ、メモ帳アプリで思うがまま文章を書いたのであった。そのファイルはメモリカードの故障で消えてなくなったのだが、内容は呪いの言葉やマイナスの感情に満ちていた。単なるテキストの塊で、タイトルもなく、著者名もなく、行頭の一字下げもない、はっきりいってどうしようもない文章だった。

 しかし五一才の今に考えると、これはとても良かった。ほとんど一人で気の向くままに、いわゆるジャーリングをしたと思っている。ジャーリングとは、時間を区切ってマイナスの気持ちを紙に(この場合テキストファイルに)書き出すという作業である。これによって心情を吐露してどういう気持ちや気分やモヤモヤを言語化するという行為を通じて癒やしを得るという効果が期待できるからだ。

 ところが出来たファイルをプリントアウトしても横書き、一行の字数も不安定、原稿の体をなしてない状態だった。さながらカウンセラーか主治医に見せる書きなぐりであった。それを次週に初見の作家先生に恐る恐る見せたのだ。

「原稿用紙の形にしなさい。見出しと著者名、行頭は一字下げにしないと読みません。」

 プリントアウトされた紙を一瞥し作家先生から辛辣な一言をもらった。それはショックな出来事だった。と同時に納得もした。一定のフォーマットに従えば、どのような内容であっても作家先生に「病んでる病んでないに関係なく書かれた文章そのものを評価されるかも知れない」という事を知ったのでもあった。それは俺にとって新鮮な感覚だった。

 そこから俺の物書きとしての作業が始まった気がする。ジャーリングして雑多に書き出したファイルをネタ帳として、それから何かテーマや語りたい出来事をピックアップして、一つ一つをエッセイにしていく事でテキストファイルを作り、マイクロソフトワードで四〇〇字詰め原稿用紙の形に整形してプリントアウトする。表題を入れ、作家名の田上光を入れた。内容はともあれ所定のフォーマットに従えばそれは良し悪しは別として作家先生に読まれ、講評されるのであった。

 ここからの学びは、感情を書きなぐったファイルと、物語やエッセイを書こうとしてなんとかしたファイルを別に用意する事で、物事を整理し、少しづつ自分を客観視する作家モードに入っていった事である。この客観視はメタ認知とも呼ばれ、病んでいる心の痛みを大きく緩和させる効果がある事が実証されている。

 例えば、辛い記憶でフラッシュバックしてる時に、その記憶に全身が流されて行く感じではなく「ああ、今俺はフラッシュバックを体感しているのだ」と自己の状態異常を見つめる、観察するのだ。これによって苦痛はそこにあるものの、身体が反応せずに対応する事を学ぶ事ができるようになる。これがメタ認知トレーニングだ。精神科デイケアやカウンセリングで話題になる事もあるだろう。なければ「メタ認知トレーニングをして、この辛い状況を緩和してみたい」と言い出してみるといいかも知れない。

 出来たテキスト群は駄文で独りよがりで、読まれたものではない程度の出来上がりだった。ただ、手を変え品を変え、俺は何かをアウトプットし続けていた。そのうち、俺は自分史を書こうと思っていた。

 自分史を書くのは、もっと大きな目的があったからで、そのステップの一つである。というのもナラティブ・セラピーを俺は実践したかったのだ。自分の辛い思い出を創作として物語化して体外に出す、そうした作業をする事で辛い記憶や体験を昇華する事を目論んでいたのであった。この原稿を書いている最中は、まだその作業には着手できてないけれども。

 つまり、物語を作るには骨格やアウトラインが必要だ、骨格やアウトラインを書くためには俺自身どんな出来事があったか網羅していく事が必要だった。何が辛かったか、面白かったか、性のめざめは?と、書きたい事がごっちゃになっていた。

 そこで、CVSファイルを用意し、生育歴を三つの年代に分離し、さらに三分割しとしていくうちにある種の構造ができた。

一、生まれてから幼稚園前まで

二、幼稚園から小学校入学前まで

三、小学生の頃

四、中学生の頃

五、ボーイスカウトについて……

 このように年代を区切って、その下にセルを作り思い出した出来事を一つひとつ振り分けて行った。例えば小学生の頃はこんな感じだった。

三、小学生の頃 なおふみ君の野糞

        猫屋敷について

        二重人格!と言われた事……

 そうやって自分の生育歴と成人してからの出来事をざっくり振り分けてから、各年代のテキストファイルを用意し、そこに各エピソードを書きはじめた。構成としては年代別エピソードの塊をエピソード+番号として、そこに入りきれない番外編をぶら下げていくという構成にした。

 後日、書籍の形に編集しようとした時に、登場人物紹介の番外編を挿入したり、家系図を挿入したりしたのはこの時点では予測できていなかった構造である。この辺はもう少し構造をどうにかできなかったのか悔やまれる。

 そこからは長い自分との闘いがはじまった。週一回の文芸の時間を使い、時には自分の部屋でも思い出して作業をした。書いても書いても終わる気配が見えなかった。いつしか二年くらい時が過ぎ、変化が訪れたのであった。

 唐突に令和三年一二月に文芸の時間が終わると告げられたのは、令和三年一〇月だったはずだ。その頃にはエピソード一三の未来への展望までの初稿を書き、カクヨムというサイトに公開する程度には作業が進んでいたのであった。番外編もそれなりに書き溜めており、それらも主エピソードの間に配置してあった。作家先生から月二回の指導を受けられなくなる!その恐怖は凄まじかった。それと同時にパニックになった。どどど、どうしよう。

 呼吸を数えて精神の安定を図った。成功した。そして作家先生の残り指導回数を数えた。五回くらいしかない!残りで何ができる?まだ本として体裁を整えてないぞ、どうする。そして本にする作業を急ピッチではじめた。自室でも作業をしていた気がする。最初は判型を全く考えず、A4の冊子サイズで自分史を作った。表紙画像は適当な拾い物だった。

 冊子サイズを校正として提出したら作家先生から「A4サイズなんて文芸でありえない」と却下されてしまった。えええ、そんな。だって文藝きんこうという冊子を、過去の年度に文芸のプログラムで出版しており、それを踏襲したサイズと版の作り方をしたのにと思いつつも、文庫サイズと新書サイズとA5サイズの三種類を編集しなおした。

 DTP編集のツールは手元にないので、ライターというマイクロソフトワードの互換ソフトで編集作業をした。原稿書きから編集作業まで全部、自室のリナックス環境だ。金がないから仕方ない。結果、新書サイズが選ばれた。

 そして令和三年一二月一五日を初版発行日と定め作業を開始したのであった。しかし。

 というのも、一二月一五日に印刷した自分史を作家先生に納本する予定だと、作家先生による校正の時間が全く取れないという事が分かった。そこで作家先生に相談をした。どうしたらいいだろうと。

「令和三年年末に発行するのはあきらめなさい」ぴしゃりと作家先生に言われてしまった。

 諸々なげうって自分史の完成をきっぱりあきらめてもよかったが、中途半端は嫌いなので俺は文芸サークルに合流する事を決めた。

 そこで、令和四年一月以降も指導してもらうために、デイケアの文芸プログラムという枠を出て、作家先生の主催する文芸サークルに俺が合流する事を提案した。そして受理された。

 なのでまだ自分史は初版の発行をしていない。一年弱も校正を続けている。慌てて校了にせず良かったと思う事がある。

 それは、書く事で癒やされるという事だ。相変わらず生きぐるしさはそこにあるものの、それに飲み込まれる事なく苦痛をあるがまま受け入れる事が少しできるようになった。体力の戻りも感じている。物事には複数の要因があるように、物書きによって得られた癒やしは複数の要因により成り立っているのだろう。そう思える。

 ここからの学びは、癒やしを求めて書くというよりは、オープン・ダイアローグやべてるの家の当事者研究のように「書く」行為や「研究する」行為をした結果、少しの癒やしを得たということだ。

 そういえば、たまたま見かけた女子中学生の病み日記を見て思ったのだ。下書き状態でいいのでどんどん心情の吐露を、吐き出す事をするといいと思う。そこから何か一つをエッセイのタネにしたり、物語のタネにしてものがたる事をオススメする。それに没頭しているウチに自然に癒やしがやってくる、そんな感じがするのだ。病みツイやそれをIDごと消す行為に以前は疑問を持っていたが、ジャーリングの一種だと思えばその行為も自然に見える。

 くたびれたオッサンの俺より、成長中の中学生の方がエネルギーを持っているので、そう簡単に癒やしはやってこないだろう。それは俺にでも簡単に想像がつく。だがそれでも、あがき、書くことで癒やしはいずれ必ずやってくると信じている。ライティングセラピーという行為のちからを信じるのだ。

 まとまらないがこの辺で一旦入力を終える。

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