番外 のらDJとは何だったのか?

 ものすごくざっくりした振り返りだと、二〇〇三年(平成一五年)ぐらいから二〇一七年(平成二九年)くらいまで俺は一時期ブロガー・インターネットラジオパーソナリティとして活動していた。

 その時の活動名が『のらDJ』というものだった。

 その頃の社会的な風俗やニュースをいくつかピックアップしよう、小泉純一郎が内閣総理大臣だったり、ミスドのポンデリングが発売されたり(平成一五年)していた。音楽の流行りとしてはSMAPの『世界に一つだけの花』や森山直太朗の『さくら』が流れていた頃だ。

 のらDJの前史として『DJ黒うにゅう』という名前でも活動していたが、その名前だと活動範囲を任意界隈(そう呼ばれる界隈が昔たしかに存在していた、デスクトップマスコットの一種である任意=伺かとその周辺事情についてはここでは説明を省略する)に限定せざるを得ないため、やや広い活動範囲を定めるべく匿名のDJとして「野良の」という意味でもって『のらDJ』を名乗っていた。

 つまりは『名無しの権兵衛』みたいなものだった、誰でも野良のDJになれるので、その意味を持って命名したが、あまり広く使われず『のらDJ』は一時期俺を示す代名詞にもなっていた。

 この意味のないこだわりも五〇才の今思えばアスペルガー症候群的なのだなと分かる。当時は知るよしもなかった。

 norasという名称のWEBサイトやブログを複数運営していた。IDはwanderingDJを使う事が多かった。『WANDERING』はすなわち「さまよえる(DJ)」だった。当時の自認は根無し草だったのだ。

 学歴がなく、物を知らない俺は、何かあるとすぐ人に聞くのが癖になっていた。「それはなぜ?どうして?」それを検索エンジン(雑な説明だがGやYの検索窓をそう呼んだ)にしょっちゅうぶつけていた。なぜ音楽を自由に使えない?著作権とは?セマンティック・ウェブとは?

 前史として黒うにゅう時代も書かなければこのエッセイも伝わりにくいかも知れない。

 DJ黒うにゅうとして俺はインターネットラジオサイトNで主にトークをしていた。著作権・著作隣接権の関係で好きな音楽を自由に放送に使うことができないため、必然的にトークが多くなり、できる事も限られている、そんな印象があった。

 一人しゃべりは嫌いじゃないが、ネタはそんなに多くない。脊髄反射的にしゃべることは出来るが内容は薄かった。たしか最萌トーナメントというオンラインイベントがあり、その実況を真似しはじめたのだ。なんで自分がそんな事をしたのか今でも謎で、思いつきと勢いと後先考えてないのはADHD(注意欠陥・多動)の特徴でもあるなと思っている。衝動が強いのだ。

 Tでかつてこの放送を聞いていたと、ぐんにょり野郎さんに言われた時に思い出したが、当時俺は何をしゃべっていたか記憶がまったくない。が何かにとりつかれたようにしゃべっていた記憶は残っている。

 雑な記憶を思い出していっているが、流れが曖昧だ。Nは音楽を自由に使えない。その代わりアンダーグラウンドな色が強かったPを知った。帯域の制限があるものの、P2Pで配信ができるツールだ。俺にはそれが「自由な放送インフラ」に見えていた。そして惚れ込んでしまっていた。自分の借りていたサイトに導入コンテンツを置いたり、関連サイトへのリンクを設置したりしていた。

 やっている事がDJ黒うにゅうの範囲、ソフトウェアのU界隈から外れてしまっていると認識した俺は、改名してのらDJを名乗った。そしてブログを運営しはじめていた。この辺どちらが先で後か記憶が曖昧になっている。

 無法地帯だが自由に見えたPについて語りたい。今もそれ自体はほそぼそと使われているようだ。一五年から二〇年前は精力的に更新されていた。開発のコアメンバーだったジャイルズ・ゴダード氏は俺にとってはスーパースターだった。

 どう無法地帯だったか。俺の知っているそれはM娘。のラジオ番組とJ事務所所属アイドルのラジオ番組をリスナーが勝手に再配信しているツールだったという認識だ。N大百科の説明だともう少し違う当時の状況を知る事ができるが。

 Pで自由に音楽を楽しんだり、ラジオ配信を楽しんでいたり、それらに関するブログを運営する俺だったが、それによって友人ができた。孤独だった俺にも音楽やインターネットラジオを通じて友人ができたのであった。素直に嬉しかった。

 それらとは平行して、インタビューを何がきっかけか忘れたがしはじめた。

 きちんとと昔の自分が運営していたサイト『××××もいいけどPeerCastもね』を発掘して確認した。

 最初に考えていたのは「NというサイトでDJをやっている人を紹介したい」と生放送以外の文章コンテンツとして人物紹介があってもいいのではないか?という勝手な思い込みからの、応援のはずだったんだそういえば。

 最初に公開したインタビュー相手はテキストサイトを運営していた『マチさん』だった。(二〇〇二年九月三十日)最終的にその人数は四十人近くにまでなった。(二〇〇二年十一月三日)

 それだけの数インタビューして文章をそれなりにも編集して、文脈がわかるように公開したらそれなりにインタビュースキルも磨かれるわけだ。お付き合いしていただいた当時の人たちには感謝しかない。今もうっすら繋がりがある人もいるかも知れないが。

 NというサイトでDJをしてる人々にインタビューをする、という自主的なしばりから脱した俺は、興味を持った人にインタビューするというスタイルに変わった。具体的には、P2P関連のサイト運営者や個人ニュースサイトの運営者や、特にサイトを持っていない人にも話を聞いた。インタビューの具体的手法はIRCというチャットで会話をして、その記録を整理して注釈などつけて公開するという方法だった。

 後年カウンセリングで俺が主に話を聞かれるばかりの立場になるとは思っていなかった。当時は逆に話を聞き、素人の馬鹿げた質問に答えてもらっていた。インタビュー相手は主に在野の研究者であったり、在朝の研究者が匿名で答えたりしてくれた。今思えば俺のような氏素性が不明な相手にもよく話をしてくれたなと感謝の念が絶えない。

 考えるに、孤独にサイトを運営していて、誰かに秘密の吐露をしたかった人々がいて、その心情によりそう形で「話を聞いた」から成り立ったコンテンツだったのではないだろうか。そんな気がしている。

 それがヒットした。インタビューで読ませるコンテンツは他に先駆者がいるものの「旬なネタ・ムーブメントの中の人に色々インタビューするNoraさんのインタビューサイト」と他者に評されるようになっていった。

 しかしヒットしたが自己嫌悪に襲われた。インタビューで自己の評価が高まると同時に、何者にもなれなかった俺自身の自己評価の病的な低さが乖離して嫌気がさしたのであった。それは某宗教家が世界の要人とインタビューする事で自己を偉大に見せていくというコンテンツがS新聞にあり、それを思い出していたのであった。誰かに指摘されるより前に自己嫌悪はピークを迎えていた。

 ここで自分が間借りして運営していたサイトをメモしておこう、無料レンタルサイトとしてはT、ブログサイトはNやHと変遷していた。TはサービスをIに継承しそれも無くなってしまった、Nはいつの間にか消え、Hは今もサービスを続けているがその運営方針に思う所があってIDを消し、コンテンツも消した。

 そうしてのらDJはインターネット上に構築していたコンテンツ群を消すことで終活をするつもり……ゆるやかな自殺とでも言おうか……だった。というか多分のらDJは消えた。グーグルで検索しても「のらDJ」に関するコンテンツはごくごく少数になっていった。それは痕跡を消す事に成功した事でもあった。

 痕跡は消したものの「のらDJとは、俺の中でなんだったんだろう?」という疑問があり、この文章を書いている。

 他には横田真俊(次のエピソードでインタビューした山下嬢の元旦那)に二〇一八年一〇月に胆石症で入院手術した際には連絡してTで「のらDJが緊急入院して手術をした。命に別状はない」と告知してもらっている。緊急時には連絡手段や相手などにこだわってる場合じゃなかったのだ。余談だがあの『日大ラグビー部の違法タックル事件』が二〇一八年の出来事だ。同年の流行曲は米津玄師『Lemon』だ。

 一方で、のらDJは攻撃的だったなと思う側面もある。あれは何だったのだろうと自分でも疑問に思う。そのようなコミュニケーション手段しか知らなかったと言い切ってしまう。五〇才の今時点では。他にも要因はあっただろうけれども。だからといって他の攻撃的な人に「病院へ行ってカウンセリングしろ」とは気軽に言えない。牙を抜くには他にも方法があるかも知れないからだ。例えば認知行動療法を実践するとか、自分史を書いて自己と向き合って攻撃的な自身を一旦身体の外へ出し物語化するとか。

 ああ、当時も今も攻撃的で迷惑かけた人には「ごめん」としか言いようがない。俺にもよく分からんのだ。適当にあしらってくれ。俺にも感情のスイッチの入りどころがよく分かってないのだ。自分は思った以上に感情的になりやすい人間なのだと知ったので。

 そういえば自己同一性はどうなんだろう?何かにとりつかれたような感覚はあるものの、田上光とのらDJも俺である事にはかわらない。

 のらDJ時代は双極性障害の躁転そうてんの時期だったんじゃないかなと思える部分がある。豊富なアイデア、積極的に他者と関わり合うアクティブさ、自分が無敵に思える尊大さ等だ。ハッキリ言って今俺のそばにいたらうっとおしいだろうなとは思う。

 他者ものらDJに対してそう思っていたかも知れないが、まあそりゃ他者の感情はコントロールできないし仕方ない。

 当時を振り返りつつインタビューをしてみようと思う。幸いにも「昔を思い出したいのでちょっと対談させてくれ」と言ったら、旧知の人物である山下恵さんがよいと名乗りを上げてくれたので付き合ってもらう事にする。ありがたい事だ。

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