ファイル9 勉強会事件
私はひどく苦しんでいた。
いや、アイリと凛のことではない。
そんなことよりも重大で、差し迫った事態だ。
実は、そいつは年に何度もやってきて、私を苦しませるのだ。
しかも一日だけならまだしも、数日間は徹底的に苦しませる。
恐ろしい。
私は本当にそいつが恐ろしい。
なんとかならないものか……。
例えば、明日学校に隕石が降ってくるとか。
「まあ、そうは言っても始まらないぞ、
「………………」
果南に言われたので、私は素直に問題集を広げる。
高二になってからの定期テストは初だが、去年は散々だったのだ。
国語、古文、数学、物理、化学、日本史、世界史、政治経済、英語――いずれも平均以下が当たり前、一部は赤点ギリギリという始末だった。
私の親は、学校の成績をあまり気にするタイプではないが、決していい顔はしない。
それに、さすがに二年になれば大学受験も視野に入れ始めなければならない時期だ。
勉強に本腰を入れる必要がある。
そしてそのために、良いお日柄の本日は勉強会ということになった。
メンツはミス研の二年生、場所は萌の家。
ミス研にはろくに顔を出さない萌だが、頭はいいので場所提供させて、勉強会に強制参加させた。
ただ、
「……僕は……、一人で勉強してるから……」
自身の机に向かった萌は、少女型マネキンのインテリアと化した。
まあ、それでも果南がいれば基本的には問題ない。
萌とは真逆でいろいろ面倒くさいことを言うが、果南は学校全体でも五指に入る頭脳の持ち主なのだ。
私の正面には果南がいて、いざとなれば背中を向けているが萌もいる。
これはもはや工藤新一と服部平次を揃えて事件捜査するようなもの。
準備は完璧。
あとは勉強に集中するだけ――、
と思っていたのだが、
「なぜ、あなたがここにいるのかしら?」
私と果南が囲む丸テーブルに、もうひとり――アイリがいた。
「なななぜって、何を藪から棒に言うんですか。そそそれより、なんで私がここに呼ばれていないんですか?」
アイリは既にバグったロボになりかけていたが、机を叩いて抗議した。
「あなたを呼んでいないのは、今日は二年生で集まって勉強会ってことになったからよ。で、もう一度聞くけど、なんで二年生でもないあなたがここにいるの?」
「べべつに、一年生が混じっててもいいじゃないですか」
アイリはまた机を叩く。
「勉強会ってのは、教え合うことで互いが互いを引き上げるためにあるのよ。あなたはあなたで一年生同士でやってなさい」
「ににに二年生と一年生の交流も大事だと思います」
アイリは机をバンバン叩く。
その様子に、私は自分のことは棚に上げ、溜め息をついた。
ただ、ふと、ある可能性に至った。
「……もしかして、アイリって、一年生の友達いない?」
「いいいいいいますよ! ししししし失礼ですね!」
アイリは、顔を赤くし、机をバンバンバンバンバンと叩き、激しく動揺した。
その反応を見ると、ちょっと疑いたくなる。
そういえばアイリは社交的だが、凛は内向的で友達作りが苦手だった。
……もう少し、アイリに優しくしてあげたほうがいいかもしれない。
私は静かにそう思うが、ただそれでも勉強会の邪魔はされたくないというのも、私の切羽詰まった本音であった。
だが、そこで果南が口を挟んだ。
「まあまあ、
「さすが部長! そのとおりですよ、鈴先輩!」
果南の言葉にアイリが興奮するように言う。
しかし、
「うるさいよ…………」
萌が呟いた。
低い声で。
私は、できるだけ音をたてずに溜め息をつき、アイリを興奮させないためにも観念する。
「……まあ、いいわ。それじゃ、アイリは分からないとこある?」
「……特にないですね」
「馬鹿なの?」
「分からないところがないのに馬鹿呼ばわりですか?」
「分からないところがないなら、一人で問題集でも解いてなさいよ」
「えー、それじゃ鈴先輩とイチャイチャできな――一人だと寂しいじゃないですか」
結局はそれが狙いか。
私はツッコミを入れようとしたが、
「うるさい…………」
また萌が呟く。
さっきよりも低い声で、鋭利な刃物みたいな声で。
私とアイリは固まり、そこで私達はやっと問題集に面と向かいだした(果南は愉快そうに笑っていた)。
ただ、私はさしあたって英語に手をつけたのだが、頭をフル回転させても遅々として進まなかった。
教科書を読んでも、先生がまとめたプリントを見ても、スマホで検索しても、問題の回答に添えられた解説を読んでもピンと来ない。
分かりやすい解説なはずなのに、分からない。
果南に説明してもらい、やっと少し分かるようになるが、さすがにマンツーマンレッスンをさせるのも気が引ける。
まったく――、あと十年か二十年もすれば、きっと高度な自動翻訳機が誕生するだろうというのに、なぜ英語を勉強しなければならないのか。
私は内心で愚痴を言っていたのだが、
「なに無言で足を擦り寄せてんのよ。馬鹿」
声に出して、悪態をついた。
気づけばアイリが私の真横にべったりとくっつき、足同士をすりすりさせていたのだ。
しかしアイリは「いいじゃないですか、べつに」と悪びれることもなく微笑んだ。
その様子に、私も怒るのが面倒くさかったので、自分からアイリから離れようとしたのだが、
「それより鈴先輩、そこ間違ってませんか?」
「え?」
アイリの指摘に、私は動きを停止させた。
「そこ分詞構文を使うのはいいんですけど、コンマの後の文より前の文が時間的に前なら、havingプラス過去分詞にしなくちゃいけませんよ」
「……」
私は問題の回答を確認する。
と、確かにアイリの言うとおりであった。
私は間違っていた。
「
果南が、これはまた面白いとニヤニヤ笑い出した。
「ちなみに、アイリ君。この問題は分かるかい?」
「えっと……」
アイリが提示されたのは、果南がいま使っていた数学の問題だ。
無論、二年生の。
だがアイリは、自分のノートに式を羅列すると――
「2x三乗、マイナスx二乗、プラス3――ですか?」
「トレビアン! アイリ君は賢いな。脳細胞の色は灰色だったりするかい?」
「えへへ。そうかもしれませんね」
……灰色ってなんだろう。
私はそう思いつつ、思わぬアイリの賢さを前にし、無言になってしまった。
そして、
「……ちょっとアイリ」
私は、先程の萌のように低い声で言った。
するとアイリは肩をびくりと震わせ、
「え、あああ、すすすすすみません! でしゃばりました!」
と、頭を下げたが、
「ちょっと、こっちも教えてくれる?」
私は自分の問題集を指差し、
「……え? ……あ、はい……」
アイリは一瞬事態を飲み込めない様子だったが、
「あ、いいえ――じゃなくて! 教えてあげたら、このまま鈴先輩にくっついててもいいですか!?」
そんな要求をしてきた。
だが、私は、
「いいわ」
逡巡もせずに頷いた。
妹、後輩、そのどちらに教わるにしても私の威厳はガタ落ちだが、そんな威厳で勉強できればどんなに楽か。
私には後がないのだ。
アイリの教え方は、果南に比べればたどたどしいが、決して分かりにくくはなかった。
少なくとも、一人で問題集と格闘しているよりはずっと良かった。
ただ、アイリは不意に「そういえば」と言った。
「そういえば、鈴先輩の彼女さんは呼ばなくていいんですか? 私が言うのもなんですけど、勉強会って恋人がイチャイチャする大義名分みたいなものでしょう?」
面倒くさい質問が来た、と私は思ったが、下手に隠してもどうしようもないので素直に答えることにした。
しかし、
「あなたは勉強会をなんだと思ってるの……。でも、心配無用よ。そっちはそっちで一緒に勉強する予定があるから平気」
「ええええ!? 私に相談もせず!?」
「なんであなたに相談する必要があるのよ!」
「……うるさい」
今日一番低い声が聞こえて、私とアイリは大声をあげた直後に身を小さくさせた。
だが、だと言うのに――、いや、だからこそか、
「……鈴先輩」
アイリは、私の肩に自身の頭をコテンと乗せてきた。
「ちょっと……近すぎじゃない?」
「でも、私はこのほうがよく見えます」
私は力任せにアイリをどかせたかったが、再び萌に怒られると家から追放されかねないので、とりあえずアイリを放置した。
ただ、それでも私は充分に警戒する。
もともと私は、自分が彼女持ちの同性愛者だと他人に言うことをとにかく避けてきた。
だがそれでもアイリに言ったのは、自分に好意を抱く人物に、それも妹(だろう)にひた隠しにするのは無礼だろうと思ったからだ。
それに、言ってしまえば、アイリも私を諦めると思った。
しかし結果は恐ろしいことに、この子はハーレムなどと言いだす始末だ。
まあさすがにそれは冗談だと思うが(そう思いたい)、私に二股を迫る、あるいは略奪愛を試みる、ということは考えられる。
実際、今もやたら距離が近い。
暴走する可能性もある。
そのため、私は神経を尖らせていたのだが、
「ふふ。
「え?」
不意に果南が言い、私はそこでやっと気づいた。
「……すぅ…………すぅ…………」
目を閉じたアイリが、静かな寝息を立てていたことを。
「え……さっきまで大声だしてたのに……」
私は若干の戸惑いを覚える。
だが果南は「ふむ」と唸る。
「これは想像でしかないが――。アイリ君は人並みにミステリーを読み、部活動にも勤しんでいる。にも関わらず、勉強は既に高校二年生レベルだ。となれば――」
果南は、分かるだろう? と言うように、肩を軽く上げた。
「……」
アイリ――凛は、私よりは賢いが、飛び抜けて賢いわけではない。
なのに今は見事な賢さを見せている。
となれば、高校生になって突如頭脳が覚醒したか、寝る間も惜しんで勉強をしているかのどちらかしかない。
なんのためか。
姉に勉強を教えるためかもしれないし、目指す進路が難関なのかもしれない。
だが、その努力は変わらない。
「まあ、実はアイリ君には協力者がいて、
「その可能性はゼロでしょう」
「宝くじが二度連続で当たるくらいの確率であれば、きっとあるだろう」
果南は笑いながら言った。
それは、つまらない冗談だが、なんとなく私も小さく笑った。
ただ、まあ、ともかく、私はこのままの姿勢で勉強を続けることにした。
ちょっと姿勢維持に力がいるが、たいしたことはない。
果南も問題集に顔を向ける。
だが「萌君」と、萌に声をかけた。
「すまないが、トイレを借りても?」
「……廊下、左」
「分かった。――あぁ、それと客の身分で言うのは図々しいのは承知しているが、口元が寂しくなってきた。なにか、飲み物とお菓子はあるかな?」
果南が言うと、萌は面倒くさそうな顔をしつつも立ち上がり、二人で退室していった。
もちろん、扉の開閉は静かにして。
また、果南は退室ぎわに小さくウィンクを残していった。
意味が分からないが、アイリとの二人っきりを楽しめとでも言っているのだろうか?
私は小さく息をつき、ちらりとアイリの顔を覗き見た。
アイリはさっきと変わらずすやすやと寝ていた。
そういえば、ちょっと前にもアイリの寝姿を見たが、あの時と違ってとても穏やかだ。
私の肩は決して柔らかくないだろうが、片頬を潰して、寝心地が良さそうだ。
ただ、こんな顔を見ていると、したくなる。
ほっぺをツンツンと。
昔、凛にしたように。
だがアイリは心地よさそうに寝ているので我慢しなければ――した。
私はアイリのほっぺをツンツンした。
ぷにぷにと柔らかいほっぺだった。
アイリ、もとい凛にこんなことをしたのは久しぶりだ。
なんだか昔を思い出して楽しくなる。
どうやらアイリは起きないようだし、私はもう一度ツンツンしてやろうと思った。
思ったが、
「あ――」
アイリは不意に首の向きを変え、私の指はアイリの小さな口に咥えられてしまった。
ちゅぱ――、という水っぽい感触が人差し指にした。
私は一瞬思考停止し、その時間が異様な長さに感じられたが、即座に、これはダメだ! と、慌てて指を引っ込めた。
指は難なくアイリの口から離れたが、その先は確かにしっとりとしていた。
私は、その匂いを嗅ぎそうになったが、頭を降り、ティッシュはないかと辺りを見渡す。
だが、
「……ま、ま……」
アイリが呟いた。
――え?
まさか私の指をおっぱいと思ったのだろうか?
私はどうするべきか迷い、部屋の扉のほうを見て、アイリの顔を見て、恐る恐るアイリの口に再び指を差し込んでみた。
するとその口は、私を拒まず、優しく包んだ。
そして、ちゅぱ――という感触が、また指先にした。
そして、アイリは私の指を吸いはじめた。
ちゅぱ、ちゅぱ――と、ゆっくりと――。
まあ……、別にたいしたことではない。
アイリも穏やかな顔だし、私も妹のヨダレくらい気にしない。
気にしない。
だが、そう私は考えているというのに、私の脳天では寒気に似た異様な感覚が走っていた。
その感覚は、これまで私が味わったことのない感覚だ。
どうしよう――。
妹に指を咥えられていても別にたいしたことないが、本当にこのままでいいのか。
もう少ししたら果南も萌も帰ってくるはずだ。
こんな姿見られたら、何を思われるか分からない。
しかしアイリの折角の安眠を邪魔するのも悪い。
果南たちに見られても我慢するか?
いや、我慢するとして、アイリ自身がこんな姿見られて恥ずかしがるかもしれないし――。
いや、そもそも姉が妹に指を咥えさせるというのは倫理・道徳的にどうなんだ。
私の脳内は、オーバーロードしかかったが、そのときだった。
アイリが、私の指を咥えたまま体勢を崩し、
「おっと――」
私はとっさにアイリの頭を抱きかかえたのだが、
「――」
私はアイリの頭を自身の胸に押し当てるような――まるでアイリに自分のおっぱいをあげているような体勢になってしまった。
「……」
――ちゅぱ。
「……」
どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどうしよう。
私は身体をこわばらせたまま、頭は完全オーバーロードしていた。
基本的にはさっきと状況は大きく変わらない。
指を吸うアイリの顔も穏やかそのものだ。
だが、私の胸の内には、変な、何か、不思議な、温かな……、
よくわからないが、母性……とでも言うようなものが溢れてきていた。
この子が、私の妹とか後輩じゃなくて、娘なんじゃないかと思えてくる。
指が舐めたいならずっと舐めさせてあげたくなる。
実際、さっきまでは私の指は第一関節も入っていなかったが、今は第二関節に迫っている。
そしてアイリは、私の指先をじっくりと舌で舐め回し、口蓋に押し当てる。
「――――――!」
くすぐったくはないが、体全体がぞくりとした。
また、アイリは私の指を奥歯で甘噛みし――
「アイリ……あなた、実は起きていない?」
私は、アイリの口の動きがあまりに激しくなったことで、そう問うた。
するとアイリは一瞬だけ舌の動きを止めた。
が、そのまま続けた。
あくまで、自分は寝ていると主張するように。
だから私は、指はアイリの口に入れたまま、一気に押し込んだ。
「ニャギャァァ! ――ゴホッ! ――ゴホッ!」
アイリは奇声あげると、すぐさま私の腕から逃げ出し、床に向かって咳き込んだ。
今にも胃の内容物を曝け出さんという勢いで、とても苦しそうだ。
だが私は、そんなアイリを顧みず、自分の人差し指――べっとりとした人差し指を眺めていた。
そして、
「まったく、困った赤ちゃんもいるものね。狸寝入りして、お母さんの指をチュパチュパ舐めるなんて……」
私が優しい声で言うと、咳き込んでいたアイリだが、喉元を押さえつつ弁明を始める。
「え、えええとあの、ちちちちち違うんですよ。あのあの、そうだ! とととと途中までは本当に寝てて、目が覚めたら先輩の指を吸っていたので、気まずくなって――」
「へえーーーー、そうなのーーーーー?」
私は、とても優しい、とても柔らかな、とても穏やかな声で言った。
「……」
アイリは、素直に頭を差し出した。
・・・幕間・・・
アイリは床に倒れて気絶――じゃなくて、今度こそ本当に寝ていたので、私は一息ついた。
ただ、果南たちが遅いのが気になる。
果南はひょっとしたらお腹を下したのかもしれないが、萌は飲み物とお菓子を取りに行っただけなので、すぐに帰ってくるはずだった。
そう思って、私はなんとなく部屋の扉を見やる。
だが、そこはさっきと変わりなく――
――じっくり見れば、半開きの扉の向こうに、二種類の目玉が上下に並んでいることに気づいた。
「いつから見てた?」
私は静かに問う。
「
「僕は……静かにしてた……」
口元は見えないが、いかにも笑いをこらえるように果南は言い、とんちんかんなことを萌は言う。
私は、果南を殴りたかったが、自分でアイリの口に指を入れていたところを見られたかと思うと――
「うああああああああああああああああ!!」
私は絶叫する。
そして、
「うるさい」
萌が呟いた。
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