第三十話 山吹虎徹――ニルヴァーナ 5


 山吹虎徹は観察する――刻刻と変容する修羅場にあっても、場景を写真の切り抜きのようにあまさず認識する。伸びざらした前髪が瞳に刺さっても既に気にはならなかった。

 虎徹は忘れない――時に曖昧でも、事実は事実として保管し続ける記憶力は、やがて情報同士を結びつけ裏社会の事情にも通じていった。

 命を拾うには十分だった。思考の必要性はない。虎徹に必要なのは行動目的でなく、目的のための手段に過ぎないのだから。しか生きていない人間にすれば相応以上かもしれない。それらを持ちえたのは。優れた理解力と記憶力――


 鋼線ワイヤーをピンと弾く。途端に不快感が広がっていく。

 

 ――そしてもうひとつ。虎徹にだけ備わった能力を。


中二の至りスメルズ・ライク・みたいなモノティーン・スピリット』――そう名付けたのは歩だった。

 元相棒、七ヶ瀬歩なながせあゆむとの邂逅は二人がまだ十代の頃、虎徹が児童養護施設の口減らしで預けられた先でのことだった。

 悪児戯アコギゼミナール――通称、予備校ヨビコー

 そこはクソダメの世界で名前を売るための斡旋所。進学ソロ・プレイヤーを目指すにしろ、就職コウセイインにしろ、若者たちはリターンに見合わないリスクを冒させられる。手数料と称して上前を撥ねられるのを前提に。


『まだそんなことやってんのか?』


 瞑想じみた儀式をするたびに歩は笑った。人目をごまかすという理由で強制させたのもまた歩だったが。

 半ば無視して、虎徹は対象物に触れる そして同時に理解した。


 触れた対象に残る人の意識を読み取る。それが虎徹の能力――『中二の至りスメルズ・ライク・みたいなモノティーン・スピリット


 身体能力も覚悟も人並み以上の歩と、虎徹の能力の相性は抜群だった。同い年のコンビは数えきれない程の課題ノルマをこなしていった。強盗、放火、誘拐、強姦、そして殺人。五教科すべてが平均点以上。もちろん補修も追試もなし。

 搾取される側としての日々。それは命の軽さを思い知らされる毎日。心が麻痺し、常識も塗りつぶされた頃、歩は言った。


『俺と一緒に行こうぜ』


 歩の誘いを、変化という概念が最初から存在しない虎徹は断る。当たり前のように今に留まる。最後に苦笑を浮かべた歩が、虎徹の前からいなくなる。

 新しい相棒と組んだ初日、些細なミスで仕事がおしゃかになる。相棒はその場で殺された。辛うじて逃げおおせた虎徹にも後はない。落第者への厳罰を待つだけ。

 虎徹の人生は終わった――はずだった。

 いつまでたっても虎徹が処分されることはなかった。他にすることもない虎徹は、流されるまま、気づけば探偵未満の何でも屋になっていた。

 予備校ヨビコーが壊滅していたと知ったのはしばらく経ってからだった。歩の仕業だった。自身に繋がる痕跡を抹消したのだと理解していても、歩が自分を殺しに来ないのが不思議だった。だが虎徹は思考しない。それ以上考えることもなかった。

 虎徹は触れた対象に残る人の意識を読み取る。


 だから――。


 黒星玉ヘイシンチュウのアジトに踏み込んだ時、すでに状況は理解していた。黒星玉ヘイシンチュウは茨城組のことなど歯牙にもかけていないということを。連中が常に気にかけていたのは『イヌガミ』という男の存在だけだった。


 虎徹は鋼線ワイヤーをピンと弾く。蜘蛛の巣状に巡らされたそれを通して、双子と巨躯なる名無しネームレスの意識を読み取る。

 不快だった。そこにあったのは、それぞれの根幹を成す本流に従うだけの意識。正義も悪もなく、疑いもしない。虎徹と同じ存在たち。双子にしても名無しネームレスにしても、ただその流れに身を任せて殺し合っていた。

 プリェストゥプーリエは笑顔を張りつけたまま、引き金を引き続ける。空になった弾倉がそこいら中に転がる。

 ナカザーニエは哄笑を置き去りに、鋼線ワイヤーから鋼線ワイヤーへピンボールのように回転し続ける。

 名無しネームレスは巨大な六角レンチ状の双腕を振り上げる。

 同じ価値の、異物で形成された空間。

 まるで寄木細工だった。

 闇鍋だった。


「救いなんて、誰にも、どこにもねえよ」


 特別な力を得てなお、自身の為に抗うことすらできない哀れさ。それを思って虎徹は呟く。それすら闇に呑まれて消えると知っているくせに。


 巨躯は防戦一方だった。回転の加わった重量級の刃を力づく逸らしながらも、手の回らない銃撃にはスーツの耐性と分厚い筋肉任せで躱す気配すらない。

 圧倒的優位に立っているのは双子。しかし決め手に欠けるのも事実。殺人技術一式フルコースの大判振る舞いにも、通らなければ意味がない。デザートまでは辿り着けない。

 膠着状態を打破するように、久しぶりのコンクリートにナカザーニエが着地。たたらを踏むこともない。環境適応能力の高さと優れた平行知覚が成せるわざ。円月輪を両手で抱え、巨躯を目指して地を蹴った。

 岩の如く防御に徹していた名無しネームレスが反応する。横回転しながらナカザーニエが振り上げる円月輪――ヘルメットと胸の隙間、筋量の薄い首を狙ったのは瞭然。

 反射的に名無しネームレスが右拳を振りかざす。グラッチから発射された弾丸がフルフェイスの眉間で爆ぜるのもお構いなし。狙い澄ますのは、満を持しての反撃カウンター

 刹那のやりとりに、しかし虎徹は理解している。張り巡らせた鋼線ワイヤーを通して双子の一連の動き、その意図を。つまりは罠だということを。


 ナカザーニエの連撃の隙間を縫って、死角からの銃撃でプリェストゥプーリエが仕留める――必殺の方式も銃撃が通らなければ無意味。ならば、という意味なら当たり前の攻撃手順の切り替えスイッチ。先行のプリェストゥプーリエの銃撃で気を逸らし、ナカザーニエの一撃で決着をつける。という――それすらも見せかけフェイク

 

 虎徹は思考しない。思考の必要がない。相手が右を狙う、と分かっていれば左に避ければ良いだけの話。だから虎徹は思考しない。ただ理解している。皮肉にも張り巡らされた鋼線ワイヤーが能力の底上げに一役買っていた。それは読心の反響定位エコーロケーション


 不可視の壁――ナカザーニエ名無しネームレスの間で幾重にも重なる鋼線ワイヤーの網。それこそが双子の真の狙い。


 名無しネームレスが振り下ろすのを見留めて、ナカザーニエは円月輪を急停止させた。口端を緩ませながら。

 巨躯が纏ったスーツの耐性を鑑みれば、筋量の少ない首狙いでも心許ない。斬撃が通る保証がない以上、確実に首が切断出来る状況を作り出す必用があった。

 折り重なる鋼線の網ワイヤーネットへの一撃は、威力が強ければ強いほど自身にその衝撃が跳ね返る。狙いは名無しネームレスの首。城塞の如く鉄壁な装甲も、体を崩してしまえば容易に急所を狙える。

 百パーセントの――全体重と回転を載せた――斬撃で首を砕く。双子の計算通りに事は進んだ――


 ――はずだった。

 

 不可視の網へと振り下ろされた右拳。名無しネームレスの全力が込められた拳は、全力以上を付加されて爆発的に加速した。

 巨躯の拳で上がる轟音。六角レンチの根元で噴射される炎。爆撃のような一撃は折り重なる強靭な線維束を引きちぎり、ナカザーニエへと炸裂する。


 十字で防御態勢をとるナカザーニエ。細腕が折れなかったのは幸運。衝撃を幾らか相殺した鋼線ワイヤー、バラバラと弾け飛んでパーカーが切り裂かれる。

 そしてこの日、初めての言葉。

 

は終了した。悪よ、お前たちはもう終わりだ。すべて見えているぞ。鋼線ワイヤーによる優位性はたったいま失われたのだ」


 巨躯には似つかわしい重く、低い声。赤い眼光が爛々と輝く。


豚野郎スビーニャが……殺すウビーチ、殺してやる」


 よろめきながら名無しネームレスを見上げた怒りの形相。体中に走る傷から血が滴る。スポーツブラが露わとなったナカザーニエ――陸上選手のユニフォームのような黒の上下。下着越しに覗くのは、乳房まわりの肉の盛り上がり――ヒキツレ。両の乳房を抉り取られた痕跡。

 満身創痍でありながら円月輪を離さぬ右手。念仏のように、「殺すウビーチ」と繰り返しながら後退する。


 ナカザーニエを目指し、名無しネームレスはゆっくりと歩を進める。虚勢ブラフではない。


「悪よ。滅びる宿命よ。我、正義の名のもとに鉄槌を下さん」


 宣誓のごとく唱えた。位置を把握しながら歩き、阻む障害は壁の設置部ごと引き抜く。威風堂々とした行進を邪魔する鋼線ワイヤーを次々と引きちぎっていく。


「むぅー、豚野郎の分際で生意気だゾー」


 プリェストゥプーリエはフルフェイスへの照準と笑顔を張りつけたままで、弾倉マガジンの交換を終える。


 混沌と化していく空間。ことここにきては逃走という選択肢も当然ありえた。しかし虎徹は思考しない。流れに身を任せることしかできない。革ジャンのポケットからスキットルを取り出してウィスキーを流し込む。そして卵男エッグマンから支給されたグロッグの弾倉を交換する。


「クソッタレ、クソッタレめ」


 悪態。自虐的な言葉。虎徹に与えられた仕事は――奪われた銃と金を見つけること。そしてもうひとつ――『双子を仕事がてら東京観光に連れて行くこと』

 だから虎徹は自身の役割を全うするため流れに身を任せる。

 場を形成する寄木細工の一部となりに。

 飛び込んでいく。

 闇鍋の中に。


 ナカザーニエは鋼線に飛び乗るや、反動で跳躍する。その注意を逸らすようなプリェストゥプーリエの銃撃。だが胸への着弾も意に介さず、名無しネームレスは上空から回転しながら急降下する円月輪を難なく右腕で弾いた。


「これで終いか? これだけで終いか?」


 防御と同時に突き出される左手。ナカザーニエはすんでのところで回避。頭部を掴もうとした左手から金色の頭髪が宙に舞う。


「悪童ども、悪あがきも大概にしろ。薄汚い屑は黙って道理に従えば良いのだ」


 双子の遊戯に付き合っているだけといった余裕の巨躯。もはや時間の問題だ、とでも言うように。


 その中で走り出す。思考しない虎徹は、だが観察したことは決して忘れない。名無しネームレスから距離をとるように大きく円を描いて走りながら、辺りに散らばった物を拾い集める――それはナカザーニエが投射したダーツの矢。


 名無しネームレスが、前面に障害となる鋼線ワイヤーがないことを十分に見計らってから構えた。大きく状態を逸らす砲丸投げのような予備動作。確保された動線上で、対角線へとナカザーニエが着地した瞬間、六角レンチの根元で轟音と共に炎が噴射された。

 爆発の推進力で巨体は体ごと跳んだ。ナカザーニエの顔面めがけて、右拳が振り下ろされる。

 刹那の反応はプリェストゥプーリエ。投擲したヨーヨーが名無しネームレスの右肘で弾け飛ぶ。新たな鋼線ワイヤーが肘に絡み、コンマ数秒、巨躯は振り遅れる。その間際、態勢を整えたナカザーニエ。迎撃の円月輪を振り上げる。


死ねッウムリー豚野郎スビーニャ!!」


 巨人の拳と回転の足りない丸鋸は――名無しネームレスの勝利。追加で発生させた爆発による推進力。加速する右拳。新たな鋼線ワイヤーを根っこごと引き抜いて円月輪を叩き落す。地面にバウンドしながらナカザーニエは吹き飛んでいく。


 プリェストゥプーリエは踊るように飛び出た。転がるナカザーニエの前へと割り込み、グラッチが空になるまで撃ち尽くす。フルフェイスで火花が散った。

 対象の損傷具合ダメージを確認するでもなく、少女は熟練の域で弾倉交換リロードを終える。早々とフルフェイスに再び照準を合わせるが、歩みを止めない名無しネームレス。既に間近へと迫っていた。


 だが、それで良かった。

 化け物どもにとって虎徹など取るに足らない存在。忘れ去られて当然だった。だから蚊帳の外に置かれている現状は、虎徹にすればむしろ都合が良かった。

 虎徹は記憶を辿り――双子の攻撃を意に介さない名無しネームレスが、その豪腕で的確に弾いたのは銃弾でも円月輪でもなく、ダーツの矢だったことを――思い出す。

 音もなく巨躯の後方へと忍び寄っていた虎徹が、ダーツの矢を握り締める。そしてその左膝へと突き刺した。

 名無しネームレスの呻き声を聞きながら、虎徹は確信する。伝播式の対衝撃ショックスーツは、銃撃にせよ斬撃にせよ、として捉えられる攻撃なら、瞬間的に衝撃を全身に散らすことが可能――だからこそでの攻撃にのみ警戒していたのだ。

 左に握っていたグロッグ。卵男エッグマンからの支給品、扱いやすさで選んだ安物拳銃で矢の羽根フライトに向けて引き金を引きまくる。弾倉が空になるまで。矢を押さえていた右手の人差し指が千切れ飛ぶのもお構いなしに。膝裏に深々と突き刺さったダーツの矢が純白のスーツを突き破る。膝の靭帯をズタズタに破壊する。

 バランスを崩す間際、巨躯が右拳を振り下ろした。虎徹はズタ布のようになった右手で、名無しネームレスの意識を――攻撃動作を映像として――知覚。未来予知の如くその拳を回避する。

 瞬間、フルフェイスで散る火花。プリェストゥプーリエの援護射撃。虎徹は名無しネームレスの左膝を思い切り蹴る。その反動で戦線から離脱する。完全にバランスを崩した巨躯はコンクリートの上で大の字に倒れた。

 同時に円月輪が垂直に落ちてくる。回転はつけられない。重力によるただの自然落下。それでも名無しネームレスの首に的確に命中する。


「薄汚い悪童どもが!」


 憎悪の言葉を吐きながら名無しネームレスが両腕を曲げた。「正義の――」頑強な籠手で首を守る。「鉄槌を――」亀のような完全防御の態勢。

 だとしてナカザーニエは気にも留めない。円月輪のアタッチメント部を両手で握り、首だけを狙い、叩きつけ、そして曳く。薬研やげんで薬草を磨り潰すのにも似た反復動作。


 ナカザーニエは歪んだ笑みで言った「死ねウムリー

 名無しネームレスは絞り出すように言った「正義の……鉄槌を……」

 プリェストゥプーリエは追従して言った「死ねウムリー


 死ねウムリー。正義の……。死ねウムリー。鉄槌を……。死ねウムリー死ねウムリー。正義の……。死ねウムリー死ねウムリー死ねウムリー死ねウムリー死ねウムリー死ねウムリー……。


 やがて名無しネームレスの声は途絶える。双子の言葉だけが繰り返されていく。塗りつぶされていく。剥がれないトレモロ――不快だった。

 砕け、へし折られ、潰された頸椎。出涸らしのチューブ歯磨きのように擦り減った名無しネームレスの首。

 それをナカザーニエは満足そうに見下ろしていた。手にした武器の摩耗は激しい。接続部は損傷し、円月輪は分解しかけていた。

 視線をちらと虎徹によこすと、ばつも悪そうにナカザーニエが切り出す。


「やるじゃん、オッサン。一応、言っとくよ――」


 はにかんだような笑み。少年のそんな顔を虎徹は初めて見た。

 だがそれすら束の間の出来事だった。虎徹の眼前で、少年の――ナカザーニエの――その顔が首から切断されて宙へと飛んでいった。

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