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 鍵を回し、立て付けの心許ない薄い扉を開けると、暗い中に畳一枚ほどの廊下が浮かびあがった。靴を脱いで数歩進み、目の前の暗闇に手を漂わせて、探り当てた紐を二度下に引く。

 高太朗は鞄とコンビニのビニール袋を床に置き、点灯した照明の光に照らし出された六畳ほどの正方形の空間を見渡しながら、ため息に似た息を一つ吐いた。

 大学進学を機に東北の小さな町から上京し、この部屋に住み続けて四年半が経った。両親に加え、祖父母も同居する家で十八歳まで育った高太朗にとって、マンションでの一人暮らしは当初戸惑いもあったが、今や暗い部屋に帰ってくるのも、持て余した夜の時間を一人でやり過ごすのも、なんの感傷もない。1Kの間取りの部屋には、生活の痕跡が満遍なく染み込み、家具の一つ一つが部屋と同化したかのようなのっぺりとした光景が広がっている。

 今朝起きた時のまま毛布がめくれ上がっているベッドに上着を放ると、床に積まれたビジネス書や自己啓発書の合間を縫うように足を運んで、机と組みになっているオフィスチェアに腰掛けた。

 思えばこの二ヶ月間、似たような状況を何度も何度も繰り返しているような気がした。仕事帰り外で様々なことについて意義ありげに語り、何事かをした気になって帰宅しても、いつもそこにあるのは昨日と変わらない部屋だった。

 リモコンで棚の上のテレビの電源を入れ、顔を斜め上に向け画面を眺める。思いのほか酔っているのか、意識の焦点がなかなか番組に合わない。十三型の横長の小さなフレームの中では、自分と同年代であろうスポーツ選手が自身の仕事の信念について真剣に話す姿が映し出され、その熱量に満ちて見える世界を背もたれに体重を預けながら眺めた。

「注目されるのって別にそんな良いもんじゃないですよ」

 画面の中の彼が発した言葉に、さっき居酒屋で感じた疎外感と、愉悦の滲んだ拓也の表情が思い出され、胸の真ん中を掻きむしりたくなるような感覚がよみがえる。

「結局自分は大勢の中の一人でしかないんじゃないか」

 一瞬静かになった頭の中で、自らの身の程を宣告する言葉を受け入れそうになって顔を上げた。机の前の壁に貼られた入社当時の目標を書いた紙が目に入り、その紙を引きはがして強く握る。紙には『月間新人賞獲得!』と赤い太マジックで書かれていた。

 物心付いた時から、こんな日々だった。幼少期はありがちにサッカー選手に憧れてサッカー部に入部したものの、性格的にも実力的にも到底自分が突出できる世界ではないと知るとすぐに諦めた。小中学校で多少周りより出来た勉強は、いくら頑張っても一番になることができないと気づいた時点で放棄した。高校大学時代は今度こそ唯一無二の自分を表現するのだと意気込んでバンド活動を始めたものの、あまりの競争率の高さに一度もコンテストなどで実力をためすことなく、本気じゃないフリをしてフェードアウトした。

 次こそは次こそはといつも思う。

『次の場所』ではあるべき『本当の自分』になれるはずだと。そんな風に輝かしい世界を思い浮かべてやる気になっても、いざその時がやってくると、必ず誰か先行する存在が現れて、自分の望んでいた席を埋めてしまう。これまではずっと、人生の『次のステージ』に希望の実現を先送りすることでその落胆をやり過ごしてきたけれど、就職して働いて、いわゆる『大人』になってしまったいま、今度は一体どこに『本当の自分』を先送りすれば良いのだろう。

 斜め上方から歓声が聞こえた。画面の向こう側では先ほどインタビューに答えていた選手が得点を決め、大勢の観客が沸き立っている。

 月次の全社定例で拓也が表彰されていた光景が重なる。塔子は「身の丈に合わない評価受けるのも大変ね」などと、隣で根拠もないのであろう皮肉をつぶやいていたが、高太朗は胸の内側から引き裂かれそうなほどの嫉妬心を抑え込むのに必死だった。

画面から目を背け床に置かれたコンビニの袋を見た。半透明の袋の向こうに、店備え付けのラックから抜き取った無料の求人誌が透けていた。

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