紅き瞳のファウスティーノ

里場むすび

第一章

セナとの邂逅

Track1 牢獄のような森のなかで

## 00


 ウレギエの森に暮らす少年、ファウスティーノには秘密がある。


 それは、彼の耳が四つあることとも、彼の腰から尻尾が生えていることとも関係ない。

 銀髪であることとも、関係はない。

 秘密とは、彼が眼帯で隠している右目のことである。

 そして、その右目を幼馴染のロゼリエと師匠であるヴェリーゼに見せて、彼女らの自由意志を一時的に奪った、罪のことである。


 あるいは、ウレギエの森の外に出ることが許されない、閉塞感のことである。彼が幼馴染へ向ける、羨望のことである。


 あるいは、彼自身も知らない彼の過去があることに対する、苛立ちに似た感情のことでもある。


 ウレギエの森に暮らす少年、ファウスティーノには秘密がある。


 しかしそれを、彼が素直に吐露できる者は誰一人としていなかった。


 ――彼が、冬の川に沈む、死にかけの女性を見つけるまでは。


## 01


 季節は晩冬。昼の時間はだんだんと長くなり、しかし浅く降り積もる雪が森の全域を――付近の村ごと巻き込んで――白く染め、吹く風は容赦なく体温を奪いさる季節。


 ファウスティーノ――ティーノはしっかりと防寒着を着込んで、白い息を吐きながら、幼馴染が待っている橋を目指して森の中を歩いていた。この分では、横に長く伸びた耳を保護するイヤーカバーはまだ外せそうにない。


 ティーノにとって、この森の中は庭のようなものだ。真新しいものなどなにもなく、視界に映るものすべてが見慣れたを通り越して見飽きたもの。


 だからだろうか。視界の端でちらと見ただけのそれに、ティーノはすぐに気付いた。

 淡い、赤色の髪だった。それが、川の表面に浮かんでいたのだ。

 おそるおそる近寄ってみると、やはり、川の中には人が沈み込んでいた。

 透き通る水質の川である。沈み込んでいる人物の姿ははっきりと視認できた。女性だった。綺麗な肌に整った容貌。まるで話に聞く水の精のように魅惑的。


「……し、死んで、る……?」


 ぽつ、とティーノが呟くと少しだけ、身体が動いた気がした。

 確かめようとして、川の中の女性に近寄ってみる。

 今度は目が合った――気がした。


「うわっ!?」


 ティーノはのけ反って、尻餅をつく。全身が震えて、歯の根が噛み合わなくなっているのはきっと、寒さのせいではない。


「…………」


 そうっと、もう一度近寄ってみる。もし生きているのならば、一刻も早く引き上げなくてはならない。怯えている時間なんてないのだ。


 ごく、と唾を飲んで川の中に手を突っ込んだ。


「うっ、冷たっ!」


(本当に、生きているのか……? 実はもう、死んでいるんじゃ……)


 ティーノはかぶりを振る。生きているにせよ死んでいるにせよ、引き上げなくてはならないことに変わりはないのだ。ティーノは素足になると、ズボンの裾を膝上までまくって川に入った。


 寒さを通り越して痛みすら感じさせる冬の川の冷たさに耐えながら、女性を引き上げようとする。水のせいで見た目より幾分か重く感じられたが、問題になるほどではない。だが、いかんせん冷たいのでティーノはしっかりと掴むことをわずかに躊躇ってしまい、


 ――ボチャン!


 足を滑らせ、今度は川の中で尻餅をついてしまった。冬の川で半身浴するかっこうになり、ティーノは声にならない叫びを上げた。


 ……そんな悪戦苦闘を経て、やっとの思いでティーノは女性を引き上げた。

 川辺で女性を寝かせ、呼吸を整えているとひとりでに女性が咳き込み出した。その声を聞いて、ティーノは内心安堵する。(良かった、生きてた)


「……な、ん、……なんで、た、たすけ……」


(「なんで」? お礼も言わずに、なんでだって……? いったい何を考えてるんだこの人は)


「あ、あのまま……」


 女性の言葉をはっきりと聞きとるため、ティーノは女性へと耳を寄せる。


「川の、中で死んでたら、あ、やり過ごせたかも…………しれないの、に」


「はぁ? なにを言って……」


 その時だった。ティーノの足が突如掴まれる。予想外の力の強さに、息が詰まった。

 女性はティーノの顔を睨むようにして見つめてくる。言葉も妙にはっきりとしたもので、


「いいから……さっさと私、を……川の中に…………さもないと、きっと、ロクでもない、こと、に…………」

「それって、どういう……」

「…………」


 雰囲気に呑まれ、ティーノが尋ねる。だが返事はない。女性は気絶していた。


「なんにせよ、見殺しになんてできない。助けないと……」


 自分に言い聞かせるようにそう呟いて、ティーノは女性をおぶって家まで運ぶことにした。


 風を切る感覚が全身を切り裂き、肌の表面を凍てつかせるかのようであったが、生死に関わる状況だ。自分個人の痛みのことなど、頭の中から放逐して森の中を駆け抜ける。


 ほどなくして、三角屋根の二階建ての建築が見えてきた。ティーノの棲み家だ。


 玄関を空け、家の中へと飛び込むようにして入る。と、家の奥から糸目のメイドが現れた。


「ファウスティーノ様? いかがなさい……おや、その方は……」

「川の中に沈んでいた。まだ息はあるはずだけどかなり危険な状況だ。……メート、治療をお願いしてもいいかな」

「ええ。無論です。このメートヒェンになんなりとお任せください」


 女性をメートに預けると、ティーノは浴室前の脱衣所で裸になって、全身を拭いた。それから、髪と頭頂部のあたりから生える二本の狐耳と尻尾を温風で乾かす。

 一通り終えると、寒さで真っ赤に染まっていた横に長く伸びる、エルフ耳の方もすっかり元の白さを取り戻していた。


(……耳。なんで4つあるんだろ)


 ふとした疑問に応じるように、鏡のなかで狐耳がぴく、と動いた。


 新しい服に着替えて、ティーノは一度、女性の様子を見に行ってみることにした。メートのことだ、万が一ということはないだろうが、それでも不安は拭い切れない。


 女性は服を脱がされた状態で、ベッドの上に寝かされていた。暖かそうなかけ布団をかけられて、穏やかな表情で眠っている。


「メート、その人の容態は?」

「問題ありません。……奇妙なくらいに、回復傾向にあります」

「そんなに?」

「ええ。もしかすると、ほどなくして意識を取り戻すかもしれません」

「……そう、なんだ」


 ティーノは再び女性の顔を見る。確かに、血色が良くなっているように見えた。(こんなに早く、回復するものか?)そう思ったが、ティーノは気にしないことにした。経過が良好なら、それは良いことだ。


「それよりも、時間はよろしいのですか? 『毎週末、朝の10時に橋の上で』というお約束なのでしょう」

「あっうん。……でも」

「彼女のことでしたら、私にお任せ下さい。約束をすっぽかすわけにはいかないのでしょう」


 メートの言う通りだ。約束をすっぽかせば、後日ブレーゲラントの軍人が訪ねてきて面倒なことになる。

 ロゼリエは自分がスパイとして使われていることを知らない。今日行かなければ、その事実はそのまま軍に伝わり、後日調査が入ることになるだろう。ティーノが何か、良からぬことを企んでいないかを確認するために。


 回復しつつあるとはいえ、まだ意識の戻らない女性を放置するのは心苦しかった。しかし、ティーノはイヤーマフラーを装着して部屋をあとにする。


「……それじゃあ、その人のことよろしくねメート。ぼくは、ロゼリエに会ってくるから」

「かしこまりました。いってらっしゃいませ、ファウスティーノ様」


## 02


 幼馴染のロゼリエと会うのはいつも橋の上だった。この森にはいくつも川が流れており、そのどれもがそれなりに大きなものであるため、橋も複数存在する。

 しかし、ティーノとロゼリエの間で「橋」と言えば、いつも二人が待ち合わせ場所として使っているあの橋以外にありえないのだった。


 普段、約束の時間に遅れることのないティーノだが、今日はイレギュラーがあった。この寒いなか、ロゼリエを一人で待たせてしまっているのかもしれない。

 ティーノは走り、ロゼリエの待つ橋の上へと向かう。


 果たして、ロゼリエは橋の縁に腰掛けて、退屈そうな顔をしていた。手には厚手の本。普段着の上に上品な――おそらく都市で購入したのであろう――コートを着用している彼女は、また一段と大人びて見えた。

 20年経っても、背丈も、声の高さも、ほとんど変わらないティーノとは違う。

 当然だ。ロゼリエは人間なのだから。


 ティーノは雑念を追い祓うように、大きな声で淑女然とした幼馴染の名を叫んだ。


「ロゼリエーーーーーーっっ!! 遅れてごめん!!!」

「~~~~っ! びっくりさせないでよティーノ!」


 ロゼリエが叫び返した。その顔を真っ赤にして怒る姿を見て、ティーノは思う。(よかった、こういうところはまだ、全然変わらない)


「う。ご、ごめん」

「……まったくティーノはいつまでも子供なんだから」


 言って、ロゼリエは少し顔をしかめた。


「まさかほんとに、私がお姉ちゃんになっちゃうなんてね……ちょっと前まで、ティーノはお兄ちゃんだったはずなのに、気がつけば同い年くらいになって、追い抜いて……もう、私のが先に大人になろうとしてる……」

「うん。昔はよく、ぼくにおんぶをせがんできていたのにね」

「ティーノ。そういう、恥ずかしい話は…………でも、うん。そうね。たしかに、そんなこともあったわね」

「…………」


 ティーノはロゼリエの隣に腰を下ろす。ロゼリエはじっと水面を――そこに映る自分の顔を見ていた。

 だが、いつまでも郷愁に浸っているわけにもいかない。ティーノには聞きたいことがあったのだ。


「あ。そういえばロゼリエ。村で何か……変わったこととかなかった? 新しい人が来たとか」

「いいえ。何もなかったけれど、突然どうしたの、ティーノ」

「いや、実はさっきこんなことがあって――」


 ティーノは先ほど遭遇したイレギュラー、あの奇妙な女性のことを話し始めた。


## 03


 その、件の女性はティーノが家を出てからほどなくして目を覚ました。着替えとして出された服を着用して、それから鏡の前で一度ターンする。ひらりと舞うロングスカートを見て、疑問符を浮かべた。


(……なぜメイド服?)


 客人の疑問を察してか、糸目と、内側にカールさせた髪の特徴的なメイド(メートヒェンと名乗った)が説明する。


「服はそれしかサイズの合うものがなかったものですから、失礼ながらそちらを御用意させていただきました」

「なるほど」

「簡単ですがご食事の用意ができております。お召し上がりになりますか?」

「それじゃあ、是非」


 メートヒェンに案内されて、玄関脇の部屋――リビングのようなところへと行く。テーブルに着いて待っていると、ある程度の大きさに切り揃えられたパンと熱々のコンソメスープが運ばれてきた。芳しい香りが食欲をかきたてる。


「……いただきます」


 我慢する道理もない。さっそくいただくことにした。


 パンを掴み、ちぎって一口サイズにする。スープに少し浸して、さっと口へ運ぶ。コンソメの豊かな風味が至高の幸福感となって襲いかかってくる。

 つい先刻さっきまで機能を停止しかけていたはずの胃腸は、「もっと」「もっと」と要求してくる。無論、逆らうことはしない。

 スプーンでスープを呑み、中にゴロゴロと入った野菜や肉を口に運んでは、はふはふと冷ましながら咀嚼する。

 口いっぱいに広がる美味という名の快感。


(うまい!)


 空腹感がスパイスとなってのことか、はたまたメートヒェンの料理がそれだけ素晴らしいものであったのか、今の彼女には判別のつかないことではあったが、そんなことは些細な話。

 いま重要なのは彼女が食事に夢中になっているということで……いつの間にか、その背後にメートヒェンが立っていることだ。


 礼儀作法など忘れ、スープのうつわの縁に口つけてごくごくと飲みはじめていた彼女の首に、冷たいものが当てられる。鋭利な刃物だ。


「…………マナーが悪いから殺す……ってェ感じじゃないね」

「ええ。そのように召し上がっていただけることはむしろ、メイドゴーレム冥利に尽きるというものです。……私が伺いたいのは、一つ」


 メートヒェンの手からは銀色の刃がせり出していた。手袋を切り裂いて出てきたそれを女性の首筋に圧し当て、無機質な瞳のメイドは訊く。


「貴女は、何者ですか?」


 正体不明の客人はナイフに動じることなく、平静を保ったままだった。つ、と刃物が首筋を切り裂いて鮮血が垂れても気にしない。


「客人を脅すのが、この世界のメイドの仕事なのかな?」

「私の主人――ヴェリーゼ様はこう仰られました。『身元不明の客は殺しても構わない』と」

「穏やかじゃないなあ」

「ええ、まったくです。ですので急ぎ、所属と名前を告げてください。軍の方でしたら矛を収めましょう」

「軍の人間じゃ、なかったら?」


 返事はなかった。


「……仕方ない。ナイフはそのままで構わないよ。教えてあげるから、ちょっと耳貸して」

「なにを、されるつもりで?」

「囁くだけだよ。私の所属は、あまり大声で言うのが憚られるところなんだ」

「…………」


 メートヒェンは女性の口元に耳を寄せた。女性が囁く。


「————————」


 囁かれた途端、メートヒェンはあっさりと刃物を仕舞い、彼女に向けて一礼した。


「……なるほど。それは失礼致しました、ご主人様」


 その様子を見て、女性はにやりと笑みを作る。


「構わないよ。誰にだって間違いはあるものだからね」

「ですが血が……」

「あー、この程度ならすぐ治るから」


 女性が首筋の血を拭う。そこにもう、傷痕は一つとして見つけられなかった。


「ほらね?」

「なるほど。ご主人様は驚異的な回復力をお持ちなのですね」

「そういうこと」


 腕を組み、女性は自慢げに胸を張った。


「時にご主人様、なぜご主人様は入水自殺などされたのですか?」

「……いや違う、違うからね? あれは別に、死にたいわけじゃなくて、死なないために土左衛門をやってただけというか……悪質なストーカーの目を誤魔化そうと……」

「??」

「あー、いいや。……水浴びを、したい気分だったんだよ」

「まだ、冬ですが」

「それがなにか?」

「…………いえ、これ以上申し上げることはなにも」


 ふぅ、とため息をつく。


「――さてと、それじゃあ色々聞かせてもらおうかな。ここのこととか、色々知っておかないとね。私は主人なんだから」

「なんなりと。何でもお尋ね下さい」

「質問1。私を助けた銀髪の少年。彼には耳が4つあるように見えたけど……それは、なんで?」

「わかりません」


 ずっこけそうになった。


「な、なんでも聞けって言ったよね!?」

「……では、ご主人様は知らないことを『知ってる』と言うメートヒェンがお望みですか?」

「ああいい! そんなことしなくていい! そのままの君でいて!」

「では、そのように」

「……気を取り直して、次の質問…………」


 結論から言えば、彼女がメートヒェンからこれといった情報を得ることはできなかった。


(どうしよう。このメイド、全然役に立たない……)

「メイドゴーレムは余計なことは知らなくてもいい、というのがヴェリーゼ様の方針でしたので」

(ヴェリーゼ……たしかこのメイドの本来の主人か。どうせすぐには帰ってこないと、たかをくくっていたけど……実際のところ、どうなんだろう)

「そのヴェリーゼさんはどこに? いつごろ帰ってくる?」

「さあ」

「くっ肝心なことは何も知らない……!」

「ファウスティーノ様でしたら何かご存知かもしれません」

「っ! それは私を助けた4つ耳の少年のこと!?」

「はい」

「――彼はいまどこに!?」


## 04


「えっ!? 誰も村には来ていない!?」


 驚愕するティーノに、ロゼリエはうなずきを返した。


「うん。ティーノが言うような人も、村にはいなかったと思う。ティーノも知っての通り、村に住んでるのはブレーゲラント軍の関係者ばかりなんだけど……そんな、赤髪の長い人なんていなかったと思う。服装は、どうだった?」

「……うーん。なんか、見慣れない服だったと思う。こう、ドレスとかコートとか軍服とか、そういうのじゃなくて、もっと動きやすそうで、もっと薄手の生地で……ズボンも、身体に張りつくみたいだった」

「水に濡れていたからじゃなくて?」

「……たぶん、違うと思う」

「ふうん。……それじゃあ、ますます不思議ね、その女の人。そもそも、一体どうやってここに来たのかしら?」


 それから、二人はしばらくの間議論した。彼女は一体どこから、どうやって来たのか。一体何者なのか。得た情報を精査して、改めて考える。しかし、これという答えを見つけることはできず――


「やっぱりおかしいわその人」


 ロゼリエはそう結論付けた。


「冬の川で入水自殺をしようとしてたこともそうだけど、この森の中に突然現れたとしか思えない状況っていうのが…………いくらなんでも……おかしいわ」


 ロゼリエは空を見る。雲一つない青い空。だが、ロゼリエもティーノも知っている。この空には森の内と外を隔てる見えない壁があることを。


「空には結界、陸には鉄条網と武装したブレーゲラント兵。正規の出入口は村だけ」

「でも、村には誰も来ていない。侵入者がいるって報告もない」

「そんな状況で、一体どうやってここに……」

「川の中を潜って、来たとか?」


 この森の中を流れる川は森の外にも通じている。ならば、川の中に潜ればブレーゲラント兵に気付かれることなく森の内外を行き来できるのではないか――とティーノは考えた。


「それはないわね。ブレーゲラントはティーノをこの森に閉じ込めておきたいんだから。ティーノが逃走できる可能性なら、たとえ冬の川の中を潜るような、荒唐無稽な真似だって封じてるはずよ」

「たしかに……」


 ぐうの音も出ないほどの正論だった。


「でも、それじゃあどうやって」

「瞬間移動」


 ロゼリエは読んでいた魔術書をティーノに見せて、自分の推理を述べる。


「きっと、瞬間移動してきたのよ。新しい魔術術式か、それとも〈聖遺物〉の力かは知らないけど。……ほら、ここにも理論上は可能って書いてあるし!」

「『理論上は』でしょ」


 ――かつて、ティーノも今のロゼリエと同じようなことを言ったことがある。あれは、この森から誰にも気付かれることなく脱走する方法について考えていたときだったか。

 だが結局、その可能性については師匠であるヴェリーゼに否定されてしまった。

 その時のヴェリーゼの言葉を思い出しながら、ティーノはロゼリエの説を否定する。


「そもそも、瞬間移動なんて神話の時代の魔術だよ? あの、ドラゴンが空を飛び交い、神々が実際にいたっていう。そんな時代の代物なんか、今の時代に実用化できるわけないでしょ。あの古代魔術王国サイリュクスですら実用化できなかってくらいなんだし……」


 ティーノはそれで十分な否定材料を提供できたつもりになっていたが、なおもロゼリエは反駁してきた。


「でも、エルゴグランデならどう? あそこには〈サイリュクス王の呪い〉に蝕まれてないエルフが大勢いるし、ブレーゲラントうちと違って魔術の研究も盛んに行われてる。……それか、突然変異でそういう能力が発現したとか!」

「そんな無茶な……」

「でも、実際にそういうことがあったって歴史の教科書にも書いてあるわよ」

「……それってまさか、」

「そう。聖女レリアの【紅玉瞳】!」

「――っ」


 【紅玉瞳】の話は、ティーノにとって愉快な話題ではない。なんとしてでも話題を変えようとして、ロゼリエの持つ魔術書が目に留まった。

 タイトルは『狐でも分かる魔術基礎』。どうやらエルゴグランデ語で書かれているらしい。エルゴグランデで出版された、初心者向けの教本といったところか。

 狐の耳と尻尾を持つティーノは、タイトルを見てなんだかバカにされたような気分になったが、【紅玉瞳】の話を続けられるよりはマシだ。


「と、ところでその魔術書。ブレーゲラントで買ったものじゃないよね、どうしたの?」

「ああ。これはね、お父さんについていってエルゴグランデに行った時に買ったの。あ、ヴェリーゼさんにも会ったよ。元気そうにしてた。予定通り、春には戻れるって」

「そうなんだ。それなら良かった」


 エルゴグランデは海の向こうにある国だ。海を見た記憶のないティーノにとっては遥か遠く、想像すら及ばない景色が広がっている。


「……私ね、春になったらヴェリーゼさんに魔術を教えてもらおうと思ってるの」

「なんで? ロゼリエが魔術を学ぶ必要なんて……」

「身体だけじゃなくて、心の面でも、技能の面でも、私はティーノのお姉ちゃんでありたいの」


(なにを、言ってるんだろう)


 ティーノは頭がくらくらするのを感じた。ロゼリエの言っていることが、ロゼリエのしようとしていることが、どういう意味になるのかを理解したくなかった。


(ぼくの心身は、どうせあと10年くらいはこのままだ。それがエルフという種族に生まれたぼくの宿命なのだから、仕方ない。エルフは精神の成熟も肉体の成熟も、人間よりずっと時間がかかる……ああでも、師匠はこうも言ってたな……「お前はから、普通のエルフとは違うかもしれない」って。でも、普通のエルフとは違うなんて言葉が、慰めになっていた時期はもうとっくに終わってる。終わってるんだ。普通より早熟という可能性が潰れたなら、もう)


 ロゼリエは、特別なにかをしようとしなくても精神的にも成長していくだろう。精神の成長を望んでいるという現状がすでに、精神が成長したことの賜物だ。


(ぼくは、魔術を20年近く、ヴェリーゼから学んでいる。けれどまだ、ぼくが自由になるには、不十分な程度のことしかできない)


 もしも、ロゼリエが魔術によってこの森の外へ連れ出してくれたとして、その時、自分は本当にお礼が言えるだろうか。ちゃんと、喜ぶことができるだろうか。


 ティーノは、確証が持てなかった。


「まだ本で勉強し始めたばかりだけど、火起こしくらいの簡単な魔術ならもう完璧なんだから!」


 ロゼリエは自慢気に言う。


「そうなんだ。すごいね」


 ティーノが魔術で火起こしができるようになったのは、いつごろのことだっただろうか。(やめよう考えるのは……虚しいだけだ)


「……それじゃあ今度、配給でいいお肉が来たら焼いてもらおうかな」


 作り笑いで応じた、その時だ。


 ティーノの欺瞞を糾弾するかのように、けたたましい鳴き声が天地を劈いた。


 ――Cwrrrrrrrrrrrrrrr!!!!


「な、なに……今の……」

「ティーノっ! あれ!」


 ロゼリエの指差す方、それは空だった。


「ウソだ……」


 ティーノは目を疑う。森の上空を旋回する巨影の群れ。それは、ワイバーンに似てワイバーンにあらず。頭に角の生えた、四本足。


 神話の時代、天空の支配者であったものども。


 ――すなわち。


「なんでドラゴンが!!」


 いま、空を舞うのはドラゴンの群れだった。1頭だけならまだ、稀に起こる珍事として捉えることもできただろう。しかし今回、ドラゴンは目算で10頭近くいる。これは明らかな非常事態だ。


 歴史に残る大事件――そう言い換えても良い。


「ねえティーノ。あのドラゴンたち、同じところ、ぐるぐる回って……なんだかまるで……なにかを探してるみたいじゃない?」

「探してるって……一体なにを……」


 ティーノの視線が空に釘付けになっていた、その時だ。


「おーーい! そこの4つ耳の少年ーッ!」


 聞き覚えのある声に驚き、ティーノはびくりと背筋を震わせる。まさかと思い振り返ってみれば、そこには淡い色彩の赤髪。メイド服の女性はぜぇぜぇと息を切らしていた。


「……やっと見つけた…………この森、橋が多すぎるんだよ……!」


 ティーノはその姿に、思わず声を上げる。


「凍死寸前だった人!」

「えっ!? あれが冬の川で入水自殺しようとしたバカ!?」


 ロゼリエからどう取り繕っても罵倒にしかならない言葉が飛んできたことなど気にもかけず、セミロングの女性は言葉を続ける。


「はぁ……はぁ……良かった…………君には、色々、聞きたいことが……あったん、だ……」

「そ、そんなに急がなくても……とりあえず落ち着いてください」

「――え? ていうかさっきまで死のうとしてたのよね? 元気すぎない?」

「死のうとしてなんか……ああ、もういいや。それより、なにやらしきりに空を気にしているね。あの生き物がどうかした?」

「どうかって……ドラゴンが群れで現れたんですよ! 今はもう、神話の時代じゃないのに!」


 ティーノが指差すと、身元不詳の来訪者は「へぇー」と気の抜けた声で空を見た。どうやら彼女はドラゴンが群れで現れることの異常性を理解できないらしい。


「……あれ?」

「どうかしたの、ロゼリエ」

「なんだかあのドラゴン、動きを止めてこっちをじっと見てるように……見えるんだけど」

「……あー。それは多分、私を狙ってるんじゃないかな」

「「は?」」


 ドラゴンたちがこちらに向けて叫び声を上げて、急降下してくる。


 ――Cwrrrrrrrrrrrrrr!!!!!!!!


「ほらね?」

「「言ってる場合か!?」」


 とツッコミを入れてティーノは思い出す。森の上空に張られた結界の存在を。


「いや、でも結界があれば……」


 ――パリィィィィィン!!


  ガラスの割れるような音が響いて、ティーノは側頭部から生えるエルフ耳を抑えた。

 結界が破られたのだ。

 ドラゴンはなおも変わらず、こちらへ向けて降下してくる。その口からは青い炎が漏れていた。ブレスの光に照らされて、逆光で見えなかったドラゴンの容貌が、体表の色が、あらわになる。

 それは、雪よりも白い白色に包まれていた。


「あの、悍ましい白……そうか、やっぱり奴の使徒……!」


(使徒……?)


 その耳慣れない言葉をティーノは聞き逃さなかった。赤髪の女性がドラゴンの襲来について何か知っているのは、間違いらしい。


 しかし、今はそんなことを気にかけている場合ではない。


「下がって! 二人とも!」


 声を張り上げたのはロゼリエだ。


「――成功するかは五分ごぶだけど、私の魔術でなんとかおどかしてみる!」


 照準を定めるように右掌を空へ向けて、魔術習いたての幼馴染は詠唱を開始する。


「創世と万物の糧たるモノ、命の化身よ。その姿を疾く見せ、我らの天を覆え――! 〈炎天蓋〉!!」


 ゴウと音を立てて、ティーノたちとドラゴンとの間に炎の膜が生まれた。空一面を覆い尽くさんばかりに広がったかに見えるそれは、またたく間にティーノたちの姿をドラゴンから隠す。


「すごい……すごいよロゼリエ! 魔術習いたてなのにこんなことができるなんて!」


(本当に独学?)


 感嘆の言葉の裏で、ティーノの中に疑念が生まれた。いま、自分はちゃんと笑えているだろうか。不安に思いながらティーノはロゼリエの方を振り返って――(なんだ)――ロゼリエが冷や汗を垂らしてうつむいているのを見た。


 一気に魔力を消耗しすぎたのだろう。ロゼリエはくずおれる寸前だった。そして、


「ごめん……もう、無理…………」


 ロゼリエは倒れた。炎の天蓋は夢幻のように消え失せ、ドラゴンたちが再び襲い来る。


「ロゼリエっ!」


 倒れる身体を、ティーノは受け止める。

(良かった)

 心の底から、ティーノは安堵した。

 それが何に対してのものかは、考えない。


## 05


 逃げ出すティーノたちを追いかけながら、ドラゴンは青いブレスで森を焼き払っていく。狩りのやり方を心得ているらしい。

 ドラゴンは畜竜ワイバーンとは異なり高度な知性を持つと言われている。やはり、あの白い竜はドラゴンなのだ。


「……くっだめだ。撒けない……っ」


 ドラゴンは悠々と、しかし確実に。距離を詰めてくる。獲物が疲れ果て、動けなくなるのを待っているかのようだ。


(せめてロゼリエは、安全なところで休ませないと――)


 背中におぶったロゼリエには未だ、回復の様子は見られない。依然として衰弱状態のままだ。


 焦りを感じているティーノの横に一つの影が踊り出た。


「そりゃ、そうでしょ。私がいるんだから」


 ドラゴンたちの標的である。


「なんでついて来るんですか!?」

「なんでって……そりゃあ私だって丸焦げは嫌だから……」

(この人、まさかぼくたちを囮にしようとか考えてる……?)

「そこでだけど少年」


 彼女は、ティーノの目を見て言う。


「私と連中を撃退してみない?」


 青天の霹靂だった。

 何せ相手は神話の時代の存在。強大な力ゆえに魔術師らの乱獲に遭い、ヒトの前から姿を消したモノたち。

 逃げることにさえ難儀していると言うのに、撃退するなど。


「君はその女の子を助けたい。私は丸焦げにされたくない。……利害は一致してるはずだ」


 確かに、その通りだ。


 ティーノはロゼリエを助けたい。助けて、今でもやはりティーノはロゼリエにとって「お兄ちゃん」であると認めさせたい。


 自分より恵まれていて、自分と違って普通に生きることができて、自分と違ってどこにでも行ける。そのくせ、自分よりも年下。……そんな彼女に「お姉ちゃん」を名乗られるのは、心の奥底がざわつく思いがしていた。


「……何か、考えがあるんですよね?」


 ティーノは横を走っているであろう赤髪の女性に問い返した。


 返事は背後から返ってきた。


「も、もち……ろん…………ぜぇ、ぜぇ……だからちょっと、まっ……て……」


 彼女は膝に手をついて息を切らしていた。


(あれ!? もうバテてる!?)


「あの、もういっそのこと僕が担いで行きましょうか……?」

「や、優しくて力持ちなんだね、君……ああでも。うん。その方が、都合が良さそうだ」


## 06


「たしかに、その方が都合良さそうだとは言った、言ったよ?」


 その結果として、彼女は女の子(ロゼリエと呼ばれていた)をおぶる4つ耳の少年に前から抱きつくかたちとなった。

 両脚でティーノの腰をホールドし、両手は首に回して落ちないようにする。

 地味に体力のいる姿勢だった。


「でもさあ……いくらなんでも、これは無茶が過ぎるでしょ!! さては君バカだな!? ドが付くほどの!」

「……そんなことよりさっさと教えてくださいよ秘策。さすがに家までこの状態はムリです」

「でしょうねぇ! たぶん君の首とか脚とかよりも先に私の手のがイカれると思う!」


 偽らざる本心だった。


(これは異世界ガチャ、失敗したかもしれないな……)


 内心で毒づきながら、『秘策』が実行可能かどうか確認するため、4つ耳の少年に質問する。


「えーと、一応確認。君は魔術とか、そういうのが使えるの?」

「はい。一通りは」

「背中の女の子みたいなことも?」

「……もちろんできますよ」


 微妙な間が気になったが、少年がウソをついた可能性について検討する時間はない。


「でも、僕の魔術でも撃退はできないと思いますよ。だって威力が――」

「そういうことなら心配ないよ。たぶんブーストかかるからさ」

「ブースト?」


 少年の疑問には答えず、自分の顔を耳もとへ寄せる。イヤーマフラーを手でまくって、外耳孔(耳の穴)を露出させる。


 ふぅっと息を吹きかけると少年が反応した。横長の耳が耳として機能していると確信し、囁きかける。


「少年。これはあくまでお願い。命令じゃない。君が望まないのなら、しなくていい」


 催眠において重要なのは、相手の同意だ。催眠をかける側とかけられる側は一種の共犯関係にある。そう、彼女は考えている。

 そしてこれはきっと、彼女の持つ権能にも応用可能な原理だろうとも。

 だから、まずは注意事項の説明だ。強制するものではないと説明して、心の壁を少しでも取り払っておく。

 とは言え、それで逆らわれては困る。ゆえに釘を刺す。


「だけど、君には応える責任があるはずだ。いいかい? よく、聞いてくれ」


 一拍置いて、


「――どんな手を使ってもいい。私を、助けてくれ」


## 07


 瞬間、ティーノの脳が、全身が、魂さえも、一つの意志に収束する。


 ――どんな手を使ってもいい。彼女を、助ける。


 それはティーノの束縛するあらゆる過去かせを破壊した。


 思い出すのは一つの記憶だ。眼帯の下、隠さなくてはならなかった右目をロゼリエに見せてしまった過去の罪。

 その結果として、彼女の記憶をほんの数時間分とはいえ、封印しなくてはならない事態に陥らせてしまった苦い記憶。


 遠い記憶の中で金髪の魔術師――ヴェリーゼが言う。


「その目は不幸を呼ぶ目だ。お前を/聖女レリア/のようにしたくはない。誰からも/崇め/られ、しかし/誰からも愛され/なかった/聖女のようには」

「人前では/常に隠しておけ。……念のた/めだ。暗示も/かけて/おこう」

「たと/え何が/あろうと、そ/の【紅玉瞳】/を見/せて/は/いけ/な/い」


 記憶が切り刻まれる。かけられた暗示が効力を失ってゆく。


 ……ティーノはロゼリエと赤髪の女性を下ろした。ドラゴンに向き直って、眼帯を外す。


 ぱさ、と。雪の上に眼帯が落ちた。


 右目が隠れるほどに長く伸びた前髪をどけて、目を開ける。その瞳は、紅玉ルビーのように赤く――神聖な輝きを秘めていた。


 口は言葉を紡ぐ。周囲のありとあらゆるモノに、【紅玉瞳】を見せるための魔術を発動させるために。


「周囲一帯、全ての生命に告げる。【紅玉瞳】この目を見よ。そして、我が言葉に従い、我らが敵を討て」


 ドラゴンが見る。鳥が見る。草陰から小動物が見る。そして、幼馴染が、助けを求めた赤髪の女性が、見る。


 【紅玉瞳】の煌めきに目を奪われる。


 それはほんの一瞬のこと。しかし、それだけで十分だった。


 次の瞬間に起きたのはドラゴン間での同士討ちだ。【紅玉瞳】を見たドラゴンが、ティーノの言葉に従い「敵」である【紅玉瞳】を見ていないドラゴンを討ち果たさんとして、攻撃を開始した。


 果たして、【紅玉瞳】を見なかったドラゴンは同族からの攻撃を受け、もと来た方へと退いて行った。一方で【紅玉瞳】を見たドラゴンは深追いすることなく、ティーノの前で整列し、恭しく頭を垂れる。それはまるで、尊いものに祈りを捧げるかのように。

 合掌するように両前足を合わせて目を閉じる。


 ドラゴンだけではない。周辺の野生動物もそれは同じだ。それぞれがまるで、ティーノに祈りを捧げるかのように座り込んで頭を下げる。


「………………っ」


 目の前の光景にティーノは動揺した。自分のしたことは分かっている。どういう経緯でこうなったのかも。

 しかし、自分が【紅玉瞳】の力を利用したという事実――それが信じられなかったのだ。


「ああ……なんて素晴らしい……」


 足下からうっとりと陶酔するような声がした。見るまでもない。足下で跪くのは幼馴染の、


「ロゼリエ……?」


 右手で目を隠して、視線を下へ向ける。感涙するロゼリエの姿がそこにはあった。


「良かった、これでティーノは自由になれる……だってティーノは、本物の神様なんだから……こんなにも、尊いものだから……良かった、本当に良かった……」


「ちが、違う……そんなものじゃ……」


「お願いします神様。どうか、ティーノに溢れるばかりの幸福を。このブレーゲラントからの解放を。どうか、どうか。叶えてください」


 ロゼリエの言うことは、もはや支離滅裂だった。ティーノに跪き、崇拝しながらもティーノの幸福を願う。とても正常とは呼べない状態になっていた。


 だからこそ、その言葉には打算というものが一切感じられない。すべてが本心からの言葉だと確信できてしまう。

 確かに、ロゼリエの中には多少の見栄や虚栄心があったのかもしれない。しかし、ティーノの幸福を願う感情は紛れもない真実なのだ。


「な、なにも、言わないで…………じっと、ただそこでじっとしていてくれ…………」


 ゆえに、ティーノは耐えられなかった。


「はい、神様」


 ロゼリエはそう言うと、黙って祈るだけになった。


 だが、その姿さえもティーノにとっては心苦しい。ロゼリエの自由意志を奪ってしまったこと。ロゼリエの祈りも知らずに嫌悪の情を抱いてしまったこと。そのそのすべてがティーノの心をさいなむ。


「う。……がはっ、う、うぇぇぇぇぇぇ」


 ついには草陰で吐いてしまった。冷や汗をびっしりとかいて、もう空っぽになった胃の中身をそれでもなお吐き尽くさなくては気が済まなくなる。


 そんな彼に向けて、


 ――パチパチパチパチ。


 拍手をする者がいた。


「素晴らしい……素晴らしいよ少年」


 それは、ティーノの信徒と化してしまったロゼリエの言葉とは似て非なるものだった。歓喜に満ちた言葉だが、どこか違う。


 神に送る賛辞というよりむしろ、優れたエンターテイナーに送る賛辞だ。

 理由なく優れているから、尊いから言うのではなく、優れたものを、尊いものを見せてくれたから言う。そんな雰囲気があった。

 端的に言うと言葉が軽い。


 ティーノが振り返るとそこに立っていたのはやはり、赤髪の女性だ。彼女は涙を流しながら、拍手していた。


「ああ本当に素晴らしい……まさか君が『当たり』だったなんてね……今回の異世界ガチャは大成功だ……ああ、嬉しさで涙が止まらないよ」

「え?」


(この人は【紅玉瞳】を見なかったのか?)


 そう思った。だが、次の瞬間、彼女はにじり寄って来てティーノの右目周辺を手で抑える。眼球がはっきりと見えるよう、指でまぶたを開いて、そして【紅玉瞳】を覗き込んだ。


「ふふ……ああ、なんて立派な【紅玉瞳】…………やはりそうだ、間違いない。これぞ私が探し求めていたもの、奴と同じ瞳だ……まさか少年、君が持っているとはね……なんて僥倖!!」

「あ、あの、放して下さいっ!」

「おっと、これは失礼」


 ティーノが抵抗の意思を示すと彼女はあっさりと退いた。


「な、なんなんですかあなたは! この【紅玉瞳】を見てもなんともないこともそうだし、さっきぼくに囁いた……ことも! そもそも、どうやってこの牢獄のような森の中に来たんですか!!」

「ふむ。そういえばまだ、何も話してなかったね。いいよ。教えてあげよう。私に希望を見せてくれたお礼だ」

「……希望?」

「その目、【紅玉瞳】のことさ。それは私にとって何よりの福音だ」

「それは、どういう……」

「――【白き破滅】。私は奴をそう呼んでいる。今回、あのドラゴンどもを差し向けたモノ、と言えば伝わるかな。奴は異様なまでに私に執着していてね、速い話がストーカーだね。

 そのくせ、奴は私の前に姿を見せようとはしないんだ。自分は表に出ず、現地で作った手下――使徒を使って私を追い回してくる。殺そうとしてくる。そういう、イカレ野郎だ。

 だけど一度だけ、私はこの目でじかに、奴を見たことがある。……奴の目は、君の右目と同じだったよ」

「!!」


 赤髪の女性が迫ってくる。ティーノは雰囲気に呑まれて動くことができない。


「今までどの世界でも見つけられなかった【紅玉瞳】、それをやっと見つけたんだ――だから、」


 ティーノは再び、囁きかけられる。


「今度のはお願いじゃない。命令とは言わない。だが絶対だ。――奴を、【白き破滅】を倒すのに、協力してくれ」


「……分かった、協力、する」


 言って、ティーノは口元を押さえた。


(いま、ぼくは何を……「分かった」って、まさかそう言ったのか……?)


 目の前には満足げな表情の女性がいた。彼女は悠然歩きながら、語り始める。


「――さて。【白き破滅】に追い回される私だけどね、ただの哀れな小兎じゃあない。氷漬けになろうと丸焼きにされようと、何度殺されようと、私は死なない」


「今は力を消耗していてできないけど、ここではない、別の世界へ移動することだってできる。この森の中に突然現れた理由も、これで分かるんじゃないかな」


「そして、もう一つ。私は言葉で他者を従わせることができる。さっき君にやったようにね」


 女性はふぅと息をついた。


「これで、だいたいの説明は済んだと思うけど」


「……名前。まだ、名前を聞いてません」


 ティーノが言うと、女性は動きを止めた。「ああ」と声をこぼして、


「なるほど名前ねぇ……それも色々あるんだけど、うん。それじゃあせっかくだし、この名前にしよう」


 振り返って、誇らしげに名乗る。


「私の名はセナだ。そういうことで、これからよろしくね、少年」


## 08


 ウレギエの森に暮らす少年ティーノには秘密がある。


 ――この日、彼はまた一つ、秘密を抱えることになった。

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