5-2 なりたいもの

 会場に着くと、菜帆の雰囲気がガラリと変わった。

 要するに、スイッチが入ったということだ。ポニーテールが弾むくらいの早足で、「物販列に並びましょう!」と先陣を切る菜帆の姿を、光磨は微笑ましく見つめてしまう。そんな菜帆は、フェスの出演者のグッズなのだろうTシャツ、シュシュ、リストバンドを身に付けていて、一人だけ気合が入りまくっている。内心では光磨が一番わくわくしているという自信はあったが、どうやら菜帆の情熱にはまだ勝てないようだ。

 なんとなく悔しく思ったのか、一時間後に物販を終えた光磨の手にはペンライトの他にTシャツも握られていた――というのは内緒である。いやまぁ、せっかくTシャツを買ったのだから今日着たいし、結局はバレてしまうのだが。


 物販後に少し遅めの昼食をとると(会場付近ならここがおすすめ! と菜帆が教えてくれたラーメン屋)、ちょうど開場時間も近付いてきた。物販列に並んでいる最中以外は夏奈子とともに騒がしくしていた電波ちゃんだったが、光磨達が入場しようとすると態度を変えた。しおらしく光磨の肩を叩き、じっと見つめてくる。


「それじゃあ、行ってらっしゃい。光磨」

「……お前らしくないな。いつもなら何も言わずにいなくなるだろ」

「んー、何でだろ。光磨を見送りたかったのかも」

「なんだよ、それ。もう少し見守っていたいんじゃなかったのか?」


 光磨が呟くと、電波ちゃんはわざとらしく首を傾げた。なんとなく、心がざわつく。どこかスッキリしたような電波ちゃんの顔を見ていると、本当にこのまま姿を消して帰ってこないんじゃないか、なんて思ってしまうのだ。


「あのね。私にとって光磨は太陽なの。その太陽を導く光が、菜帆とか紫樹とか萌ちゃんなんだよ。だから私の姿が見えるの」

「……急に正直になるんだな。まるでお別れみたいじゃねぇか。それだけじゃ俺はお前の存在に納得できないし、だいたい……」


 ――電波ちゃんが見えない親父はどうなるんだよ。


 光磨は言いかけて、なんとか飲み込んだ。

 いや、飲み込んだつもりだったと言った方が良いだろうか。電波ちゃんのみならず、菜帆達の表情が不安げに染まる。どうやら自分は、言葉を堪えようとしても堪えられない時があるようだ。光磨はそっと苦笑する。


「それは、光磨がもうちょっと頑張らなきゃねって話だよ!」


 そんな光磨に、電波ちゃんはわざとらしく元気な声を漏らした。瞳はうっすらと赤らんでいるような気がする。


「そうか」


 わかるような、わからないと思い込もうとするような、名状し難い感情がぐるぐると回った。光磨はただじっと、電波ちゃんの頬を伝う雫を見つめることしかできない。


「この涙は進むための証ってか?」

「えー、やめてよ光磨。恥ずかしい」

「恥ずかしいじゃねぇよ、お前の歌詞だろ」


 言いながらも、傍から見たら訳のわからない会話をしているな、と思った。お前の歌詞だろって何だよと、少し前の自分なら頭を抱えることだろう。でも、目の前の存在はキスミレの光なのだと認めた上で、今は会話ができるようになった。そう思うと、光磨の心は少しずつ落ち着いていく。

 アニメソングになりたいと現れた彼女は、キスミレの光だと判明した今もここにいる。彼女は光磨の母親、奥野原浩美が作った曲だ。彼女がまだここにいる理由なんて、綺麗ごとでならいくらでも並べられる。だからこそ光磨は考えるのをやめた。


「それじゃあね、光磨」


 音もなく消える電波ちゃんを、光磨は横目でだけ見つめる。そして、菜帆達に視線を移して頷いた。小っ恥ずかしい会話を見せてしまったのにも拘らず、菜帆達はからかうことなく待ってくれている。


「行こっか、枇々木くん」

「ああ、待たせて悪い。……行こう、皆」


 優しすぎるこの空間に負けないように、光磨は力強い決意を胸に灯す。

 知りたい世界から逃げずに、しっかりと見つめてやろう、と。



 ***



 元々、光磨は音楽が嫌いではなかった。通学時間には音楽を流していたし、好きなアーティストが出る音楽番組はチェックしたりしている。でも、ライブ会場に足を運ぶのは初めてのことだった。

 光磨にとっては、何もかもが新鮮なのだ。

 まず会場の広さに驚いて、天井の高さにも、人の多さにも度肝を抜かれた。光磨達は四階席だから、観客の一人一人が小さく見える。外では賑やかだったガヤガヤとした声も、広いせいなのか小さく聞こえた。

 開演時間が近付くにつれて、ペンライトがぽつぽつと灯り始める。開演前の注意事項のアナウンスが流れると、「そろそろ始まるんだ」と会場の空気が変わるのを感じた。


 そして――アニソントレジャーフェスティバルが幕を開ける。


 フウゥゥ、という歓声とともに一斉に立ち上がり、光磨もきょろきょろと周りの様子を窺いながらも席を立ち、ペンライトを点灯した。今日の出演者の紹介ムービーが流れている間はペンライトの色がバラバラで、光磨も内心「どの色にすれば良いんだ?」と戸惑ってしまう。しかしトップバッターのアーティストが発覚すると、会場は一気に真っ赤に染まった。


「枇々木くん。わからなかったら私の真似をすれば良いから」


 そっと隣の菜帆に耳打ちをされ、光磨はただただ頷く。今はまだ、慣れないことばかりだ。菜帆をちらちらと見つめながら、不器用にペンライトを振ることしかできない。正直、楽しむ余裕なんてなかったのかも知れない。


 ――じゃあ、いったいいつからだったのか。


 具体的にはよく覚えていない。でも、だんだんと光磨も会場の空気に馴染んできて、周りの景色を見ることができるようになっていた。曲やアーティストによってガラリと雰囲気の変わるステージ。バックスクリーンにはアニメ映像が流れ、曲とともに世界観が伝わってくる。


(ああ、これが……)


 心は踊り、鼓動は興奮気味に騒ぎ出す。

 これが、光磨の母親――奥野原浩美の駆け抜けた世界だと言うのか。自分は今まで、こんなにも素晴らしい世界から目を背けてきたと言うのか。


(は、ははは……)


 呆れて嘲笑いたくなる程、光磨は自分のことが馬鹿だと思った。何でずっと逃げてきたのだと思うくらい、光磨は今、この空間が楽しいと感じている。だって、輝いて見えるのだ。主題歌を担当したアニメを背負って歌を届けるアーティストと、それに声援と情熱で答える観客達。皆が皆、眩しいくらいの笑顔を浮かべていて、気付けば自分もその中の一人になっていた。

 ただ、無我夢中でペンライトを振る。菜帆に教えてもらったアニメの曲が流れるとテンションが上がったし、知らない曲でも今度アニメを観てみようと思えた。アーティストの人柄にも興味を持ったりして……。つまりは、自分でも驚くくらいにのめり込んでいるのだ。

 今まで逃げてきたアニソンに触れて、心の底から楽しいと感じている。光磨としては、それだけで充分幸せなことだと思っていた。

 でも、違う。「アニソンを知られて良かった」というのが、自分にとってのゴールではないのだと。様々なアニソン歌手や声優アーティストのステージを見て、聴いて、感じて、やがて光磨は、自分の中に芽生えつつある感情に気付いてしまった。


 ――やっぱり自分は、どうしたってこの世界に憧れているのだと。


 ひしひしと感じて、光磨は無意識のうちに隣の菜帆を見つめた。


(…………っ!)


 光磨の頭の中には、はっきりと浮かび上がる光景がある。

 それは、カラオケで聴いた菜帆の歌声だった。


「……?」


 光磨の視線に気付いた菜帆が、不思議そうに首を傾げている。

 それでも光磨は、菜帆をじっと見つめ続けてしまった。慌てて視線を逸らすことも、笑って誤魔化すことも、何もできない。むしろ、瞬きするのも忘れてしまうくらいに菜帆の瞳から逃れられなくなっていた。


 あの時、光磨は思った。

 マイクを握る菜帆の姿をいつまでも見ていたい、と。

 アニソンに触れることすら恐れていたのに、菜帆とカラオケに行ったことによってキスミレの光を聴くことができた。菜帆は光磨にとって、アニソンを好きになることができた恩人だ。カラオケに行った日からずっと、そう思っていた。


 ドクンと、心が跳ね上がる。


 菜帆を見て、ステージを見て、客席を見渡して、また菜帆を見た。


(そう、か…………俺……)



 ――やっと、自分の進みたい道が見えた。



 ようやく、気付いたのだ。

 母親の背中を追うとかそういう訳ではなく、光磨は光磨の道としてアニソンに興味を持っているのだと。確かに光磨は歌が得意ではない。菜帆に披露するだけであんなにも震えたのだから、自分には向かないのだろうと思う。

 でもそれは、ボーカルの話だ。光磨がボーカルになることはできない。最初から諦めるのも変な話だが、でも、そうじゃないのだ。


 ボーカルでなくとも、アニソンを作ることはできる。そして光磨は、菜帆の歌声に惹かれていて……できることならば、菜帆とともに音楽を作り上げていきたい、と。

 それが今、ようやくたどり着いた光磨なりの道だった。


「……わっ」


 すると、菜帆が驚いたような声を漏らし、慌てて口を両手で塞いだ。紫樹も夏奈子も、驚いたように目を丸くさせながらこちらを見ている。

 仕方ない話だろう。唐突に電波ちゃんが現れて、光磨に微笑みを向けているのだから。電波ちゃんは何も言わないし、光磨も頷くことしかできなかった。ポカンとしている菜帆達には悪いが、光磨には電波ちゃんが現れた理由がなんとなくわかってしまう。だからこそ嬉しくて、同時に電波ちゃんとの別れを感じて悲しくなった。でも、今は弱気になっている場合ではないのだ。光磨が小さく笑いかけると、電波ちゃんは満足げに姿を消した。


「……えっと……?」

「あとでちゃんと、説明するから」


 隣にいる菜帆にだけ耳打ちをすると、菜帆は未だによくわかってないように小首を傾げる。しかし、光磨の真面目な視線で何かを察してくれたのか、「わかった」と答えてくれた。

 今はまだ、気付いただけだ。ここから一歩ずつ、進んでいかなくてはいけない。溢れそうになる緊張感を覚えながらも、光磨は残りのステージを心から楽しむのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る